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【小説】コトノハのこと 第5話

  第5話

 目が覚めたら、昼近くになっていた。ぼんやりとした頭のまま着替えてダイニングへ行くと、

「あら起きたの。今、様子を見に行こうかと思ってたのよ。具合はどうですか」
 台所に立つ妻が振り返った。

「うん」
 返事をして気づいた。声が出せている。

「大丈夫なの。ごはんは食べられますか」
「うん」
 ほっとした。昨日のあれは一体なんだったのだろうか。わからないが、治ったのならそれでいい。

 食事を終え、新聞を広げた。妻は買い物へ出かけ、私は和室で詰将棋をした。夕方は少し散歩をし、風呂に入る。普段通りの一日だった。
 再び異変を感じたのは、夜になってからだった。

「さっき、ひろみから連絡ありましたよ。お父さん大丈夫かって」
 食事をしながら、妻が思い出したように言った。

「大丈夫って言っておきましたけどね。あなた、具合は治ったんでしょう」
「ああ」

 妻は小さく息をつくと、
「それにしても、ハナちゃんはもうすぐ幼稚園よ。ずいぶん大きくなったわよね。ついこないだ生まれたばかりの気がするけど」
 懐かしむようにしみじみと頷く。

「ひろみはハナちゃんの言葉が遅いって心配するけど、幼稚園でお友達ができたらたくさんしゃべるようになりますよ、きっと」

 昨日の孫の様子を思い出す。確かに、娘が幼い頃に比べて、口数が少ないかもしれない。しかし目はしっかりしているし、かすかに口元をほころばせた時の表情は、娘の幼い時の顔を思わせた。

「下にもう一人生まれてお姉さんになったら変わるわよ。早く二人目ができるといいんだけど」

 独り言かと思われたそれらの言葉は、私に向けられていたらしい。気づくと妻がこちらをじっと見ていた。『そうだな』と相槌を打つつもりで口を開いたら、喉から出たのはかすれた空気だけだった。

 ぎょっとした。咳払いをしたが、声が出ずに空気だけが漏れて、まるでむせたようになった。慌てて、茶碗に残っていたご飯を口に運ぶ。

「大丈夫? 喉に詰まったの」
 水で流し込み、箸を置いて立ち上がる。妻の声が追いかけてきたが、逃げるように自室へ向かった。

 頭から布団をかぶる。声を出そうと試みたが、駄目だった。
 その夜はなかなか眠れなかった。なにかのモーター音がやけにうるさく感じた。何度も寝返りを打ちながら、私の頭の中には一つの仮説が浮かんでいた。

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