見出し画像

【小説】コトノハのこと 第10話

   第10話

 音を立てないようにそっと玄関を開け、細い隙間から滑り込んだ。リビングからテレビの音がする。

 足音がしないように廊下を進み、自室へ逃げ込む。息をひそめてじっとしていると、窓の外が薄暗くなってきた。灯りをつけるわけにいかず、暗く静かな部屋で、なにかのモーター音に耳を澄ませる。

 ふと古い記憶が脳裏に浮かんだ。子供の頃、祖父の形見の懐中時計を勝手に持ち出して落とし、表面のガラスに傷をつけてしまった。
 叱られるのが怖くて、押し入れに隠れた。寡黙な父がどのように怒るのか想像もつかず、ただ恐ろしかった。

 足音に続き、戸が開いた。妻が私を見て飛び上がる。

「わっ、びっくりした。こんな暗いところでなにしてるの」

 そう言って壁のスイッチを押した。引きつった私の顔が、向かいの窓に浮かび上がる。

「玄関に靴があったから。帰ったならそう言って下さいよ」

 妻の尖った声に、返事をするべきか迷った。残されたのは一回きりだ。
 迷っているうちに、妻は大きくため息をつくと、

「ごはん! 食べますよね!?」

 大きな声でそう言い、乱暴に戸を閉めた。床を踏み鳴らすような大きな足音が、廊下の向こうに遠ざかる。

 私は椅子に腰かけた。額に手を当て、両目を覆う。

 この事態を楽観視し過ぎていたのかもしれない。そのうち勝手に治るものと判断した時の私は、冷静なつもりだったが、どうやらそうではなかったのだ。

 妻に打ち明け、病院へ行こう。そう考えたら、さっきまでの重苦しい気持ちが消えていった。もっと早くそうするべきだったのだ。

 不意に戸が勢いよく開いた。驚いて飛び上がる。妻が怖い顔で部屋に駆けこんできた。

 料理の最中なのだろう。袖まくりをし、湿った両手を握り合わせている。

「ねえ! あなた、この前からなんなのよ!」

 勢い込んで言った妻は、そこで言葉を切った。爆発するはずだった妻の怒りが、諦念と失望に変わっていく。昼間に声をかけてきたきた男性が、立ち去る前に見せた表情と重なる。

 叱られるほうがまだよかった。

「……もういい」
 小さく呟き、妻が部屋を出て行こうとする。

「違う」
 私は言った。しかしそれが最後だった。もう声は出てこない。私は慌てて、ボールペンと紙をつかんだ。

『一日に五回しか話せない』
 書きつけたものを差し出す。妻は目をやるなり、険しい顔になった。

「なにそれ。わたしが言ったことへの当てつけってこと」
 妻が目を見開き、大きく息を吸った。怒鳴り声が飛んでくるものと、首をすくめる。

 しかし待っていても雷は落とされなかった。ふっと息を詰まらせる音がして、私は顔を上げた。

「情けない……」
 妻がぐいと目を擦った。悔しそうに唇を引き結び、涙をのみ込むように何度も瞬きをする。

 情けない。自分でもそう思った。

 妻が踵を返し、部屋を出て行く。追いかけてその肩に伸ばした手は、払いのけられた。

「……そんなに誰とも話したくないのなら、一人ぼっちでいればいいじゃないですか」

 顔を背けたまま言う。妻はもう、私を見ようとはしなかった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?