![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/122295843/rectangle_large_type_2_607bed261963702fd11a46593c2d1923.png?width=800)
【小説】コトノハのこと 第10話
第10話
音を立てないようにそっと玄関を開け、細い隙間から滑り込んだ。リビングからテレビの音がする。
足音がしないように廊下を進み、自室へ逃げ込む。息をひそめてじっとしていると、窓の外が薄暗くなってきた。灯りをつけるわけにいかず、暗く静かな部屋で、なにかのモーター音に耳を澄ませる。
ふと古い記憶が脳裏に浮かんだ。子供の頃、祖父の形見の懐中時計を勝手に持ち出して落とし、表面のガラスに傷をつけてしまった。
叱られるのが怖くて、押し入れに隠れた。寡黙な父がどのように怒るのか想像もつかず、ただ恐ろしかった。
足音に続き、戸が開いた。妻が私を見て飛び上がる。
「わっ、びっくりした。こんな暗いところでなにしてるの」
そう言って壁のスイッチを押した。引きつった私の顔が、向かいの窓に浮かび上がる。
「玄関に靴があったから。帰ったならそう言って下さいよ」
妻の尖った声に、返事をするべきか迷った。残されたのは一回きりだ。
迷っているうちに、妻は大きくため息をつくと、
「ごはん! 食べますよね!?」
大きな声でそう言い、乱暴に戸を閉めた。床を踏み鳴らすような大きな足音が、廊下の向こうに遠ざかる。
私は椅子に腰かけた。額に手を当て、両目を覆う。
この事態を楽観視し過ぎていたのかもしれない。そのうち勝手に治るものと判断した時の私は、冷静なつもりだったが、どうやらそうではなかったのだ。
妻に打ち明け、病院へ行こう。そう考えたら、さっきまでの重苦しい気持ちが消えていった。もっと早くそうするべきだったのだ。
不意に戸が勢いよく開いた。驚いて飛び上がる。妻が怖い顔で部屋に駆けこんできた。
料理の最中なのだろう。袖まくりをし、湿った両手を握り合わせている。
「ねえ! あなた、この前からなんなのよ!」
勢い込んで言った妻は、そこで言葉を切った。爆発するはずだった妻の怒りが、諦念と失望に変わっていく。昼間に声をかけてきたきた男性が、立ち去る前に見せた表情と重なる。
叱られるほうがまだよかった。
「……もういい」
小さく呟き、妻が部屋を出て行こうとする。
「違う」
私は言った。しかしそれが最後だった。もう声は出てこない。私は慌てて、ボールペンと紙をつかんだ。
『一日に五回しか話せない』
書きつけたものを差し出す。妻は目をやるなり、険しい顔になった。
「なにそれ。わたしが言ったことへの当てつけってこと」
妻が目を見開き、大きく息を吸った。怒鳴り声が飛んでくるものと、首をすくめる。
しかし待っていても雷は落とされなかった。ふっと息を詰まらせる音がして、私は顔を上げた。
「情けない……」
妻がぐいと目を擦った。悔しそうに唇を引き結び、涙をのみ込むように何度も瞬きをする。
情けない。自分でもそう思った。
妻が踵を返し、部屋を出て行く。追いかけてその肩に伸ばした手は、払いのけられた。
「……そんなに誰とも話したくないのなら、一人ぼっちでいればいいじゃないですか」
顔を背けたまま言う。妻はもう、私を見ようとはしなかった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?