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【連載小説】「青く、きらめく」Vol.21 第四章 風の章、再び

 部屋中に、トマトソースの甘酸っぱい香りが漂っていて、ふつふつと鍋で煮える音がする。ほとんど無言で、美晴は台所に立っていた。カケルは、横になりながら、まだ熱のある目でぼんやり美晴の後ろ姿を見つめている。美晴がそこにいることは、とても不思議な状況のはずなのに、ちっとも不自然ではなく、それがカケルを妙に安心させた。静かに目を閉じる。ゆでたジャガイモのいい匂いが、湯気と共に部屋の空気を温かなものにしている。
 アルミのグラタン皿にあつあつの料理が二つ並んで出てきた。出来上がった料理をひとくち食べて、びっくりした。マッシュポテトと、トマトをたっぷり使ったミートソースが何層かになっていて、それは口の中でとろとろと溶けた。こんなにおいしいものを食べたことがない、くらいの衝撃だった。
「シェファーズ・パイっていうんですって」
 スプーンで料理を口に運びながら、美晴が言う。
「シェファーズ・パイ?」
「そ。羊飼いのパイ、っていう意味」
 熱っと舌打ちして、カケルは料理をほおばる。
「イギリスの子どもたちはね、おうちではもちろん、給食でも食べるらしいですよ」
「ふーん」
 カケルは、返事もあいまいに、料理を味わった。体にしみこむごはん、っていうのは、こういうのをいうんだろう。イギリスの子どもたち。
 そう、子どもみたい、なんだ。
 寝てて下さいね、と言われ、まだ少し熱のある体を横たえながら、カケルはぼんやりと思い至った。
 台所では、美晴が鍋や皿を洗っている。その背中を見つめる感じ。温かい料理があって、安心な沈黙が横たわっていること。包まれている、このすべて。これは、まるで子どもにかえったような感じ、なんだ。
 カケルは、静かな美晴の後ろ姿を見つめる。肩が少年のように薄い。あんなきゃしゃな体で、こんな厚みのある料理を作るんだな。
 女の子といっても、いろいろだ。
 理想のデートばかりを求めてなかなか壁を越えさせてくれないマリ。自分から明るく堂々と関係を求めてくる沙耶。そして、何も求めず、ただ料理をもくもくと作っている美晴。
 カケルは、寝返りを打って天井を見つめる。
 一体、おれは何してるんだろう。
 好きでもない女の手料理を食べて、愛してもいない女と寝て、本当に好きかどうかも分からない女と何度もデートとキスをする。すべてがばらばらで、どこにもおまえしかいない、という確固たる存在はいなくて、今の彼女たちの代役は、だれでもいい気さえする。
 どうしてこんなことになっているんだろう。どこに気持ちの軸を持っていけばいいんだろう。
 そう、きっとおれは根本的に何か欠落している。それは、親からまともに愛されなかったことに関係があるんじゃないだろうか。カケルは、熱のこもった額に自分の腕を乗せる。愛されなかった。愛されていたのかもしれないけれど、それが分からなかった。子どもの頃の記憶が呼び起こされる。

 いつかも、こんなふうに高熱を出したことがあった。あれは、六、七歳くらいだろうか。父が家を出た後のことだ。高熱で苦しくて、夜中に目を覚ました。のどがカラカラで焼けたように痛かった。「お母さん」と呼びたかったけれど、声が出なかった。最も、そのころから母は夜の商売を始めていて、夜中までいなかった。その日も、熱を出したカケルを置いて、母は夕方になると仕事へ出かけて行った。枕元にはバナナだけ置いてあって、カケルは、そばかすのようなバナナの点々をひたすら眺めて寝ていた。
 夜中に目覚めて、声は出ないのと同時に、母の不在に気づいた。そうか。母親が、夜の店で働くというのはこういうことか。
 うすぼんやりした意識の中で、あきらめて再び眠りにつこうとしたとき、ガチャ、とアパートの扉が開いた。ドサドサッとなだれこむような重たい音とともに、酔っぱらった男のうめき声と、はしゃいだような女の声がした。母が、酔いつぶれた客を連れて帰って来たのだ。静かだった家の空気が突然変わり、カケルは恐ろしさで体を硬くした。男のろれつの回らない言動も、怖かった。まるで、怪獣のうなり声に聞こえた。母は、いかにも慣れてる風に男をなだめると、やがてうめき声は大きないびきへと変わっていった。カケルは、おそるおそる、ふすまの所まで這っていって、そーっと開けてのぞいてみた。
 視界の幅は狭くて、太い男の腕と、それに巻き付くようにとらわれている母の体しか見えなかった。二人とも、そのまま眠ってしまったようで、動かなかった。カケルが見たのは、それだけだ。それだけだが、ふすま一枚隔てた世界は、全く別のものだった。お酒の匂いがして、ふしだらで何か猥雑な空気があり、こちら側――熱を出して暗い部屋の中で一人寝ていた青い世界とは、全く別の空気が充満していた。

 きっと、これが今の母の世界なのだ。自分は、そこには入って行くことが出来ない。自分は、ひとりぼっちだ。そう感じた。母親は、自分が今苦しい思いで起きていることに気づかないだろう。あの太い男の腕の下で、健やかに寝息をたてていて、自分のことなど忘れているのだろう。
 本当は、今日食べたみたいな温かいごはんを持ってきて欲しかった。「具合どう?」と、やさしく枕元で聞いて欲しかった。あのとき感じていた絶望とあきらめと、悲しみ。それらが今、はっきり形になってカケルののど元に、せり上がってきた。本当は……。
 腕で隠した目尻から、体温より熱いものがこぼれ落ち、つ――っと耳の後ろを伝わって枕にしみこんでいった。泣いている。意識がぼんやりするなかで、気づいた。泣いている。このおれが。父が去ってから十年以上泣いたことのないおれが。涙は、あとからあとからとめどなく流れ落ちた。まるで熱い泉が目の奥からこんこんとわいてくるようだった。
 熱が出たときにやさしくされたい。そんな子どもじみた願望が自分の奥にあったなんて。
 でも、もう遅いのだ。
 おれは、たぶん愛を知らないまま、もうここまで来てしまった。出来上がってしまった。それがこの現状じゃないか。
 今も、これからもきっと、だれかを本気で愛したり愛されたりすることはないだろう。
カチャカチャと食器を片付けていた音が止み、またひっそりとした空気が戻って来た。部屋の温度が、ほんの少し下がったような気がした。
「わたし、もう行きますね」
 美晴は、ほとんどこちらを振り返らずに、ささやくように言った。
「ああ」
 カケルは、腕を顔に乗せたまま、あいまいな返事をした。とてもじゃないけど美晴の方をまともに見られる心境じゃなかった。
 美晴は、パタン、と扉を閉じて行ってしまった。

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