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【連載小説】「緑にゆれる」Vol.54 第六章


 二階にいた圭が、下に下りてきた。おなかが空いた、と言う。仕方ないので、簡単に夕食を済ませることにした。腕をまくってキッチンに立つが、さて、どうしたものか。

「カケルさん、料理できるの?」

 圭が不信の目を向ける。
「いや、でも、お茶漬けならできるぞ」

「えーっ」
「文句言うな」

 冷蔵庫に、タラの切り身があったので、使わせていただくことにする。湯の中に、タラを入れると、踊るように身が曲がりくねった。ご飯をよそって、静かにタラをゆでた湯を注ぎ、上にタラの身をのせる。

「ノリ、ないか、ノリ」
 カウンター越しに、心配そうにカケルの料理を見守っていた圭は、キッチンの方へ回り、下の棚を開けた。

「たぶん、この辺」

 長い密閉容器を取り出す。手で適当な大きさにちぎって、ノリをのせた。一応、三人分。冷蔵庫に、弁当の残りのにんじんのラぺサラダと、コロッケがあったので、それもいただくことにする。

「なかなかいいご飯じゃん」
 圭の顔がぱっと輝く。
「まぁな」

 カケルはわざとらしく鼻の下を指でこすった。それから、もう一度、浴室の扉の前へ行った。単純に、出来立てを食べてもらいたかったのだ。きっと、お茶漬けの上のノリは、しなって湯に浸り、ドロドロに溶けてしまうだろう。初めて、出来立てを食べさせたい、という作り手の気持ちが分かった。むろん、お茶漬け程度でとても料理と言えるほどのものではないけれど。

「簡単に作ったけど」

 そこまで言いかけて洗面所をのぞくと、きゃ、という声と共に、濡れた手が風呂の扉の向こうに消えた。古い木目の床に、美晴の体から落ちた湯のしずくが二滴、三滴と光っている。

「すぐ行く」

 どなるような声が、閉め切った浴室の扉の向こうから聞こえる。


 風呂からあがってきた美晴は、デニムのワンピースを身につけ、首にタオルをひっかけている。シャンプーしてタオルドライしただけの髪は、あちこちとびはねて、部活を終えた後の少年のようだ。少し、怒った顔をしている。

 カケルの顔を見るなり、美晴はぶっきらぼうに、でも少し遠慮気味に、変態、とつぶやいて、首にかけていたタオルをすばやく丸めて投げつけた。

「おっと」

 ほぼ顔の真ん中で、カケルはそれを受け止めた。濡れて無造作な髪からのぞく美晴の目は、きらりと鋭く光ったかと思うと、急にふっとゆるんで、笑みをたたえた瞳に変わった。それと同時に、抑えきれない笑いが込み上げてきたようで、ぷっと吹き出した。そして、こう言った。

「一度、男の人に言ってみたかったの。思いっきり、変態、って」

 笑ったあとの目は、うっすら涙をためていたが、それとは別に、少し赤くなっていることに気づいた。長い長い入浴のわけは、きっと密室で誰にも邪魔されないところで、泣きたかったのだろう。美晴の顔をあえて見て見ぬふりをする。

「それはよかったな。こちらは夢がかないませんでした。あと一歩というところで」
 言葉を返しつつ、タオルを投げ返したら、速攻、また投げつけられた。
「変態っ!」

 今度は、思いっきり大きな声で言われた。タオルから、ふんわりとリンスの匂いがする。ふざけて匂いをかぐ真似をしたら、美晴はテーブルを回り込んで向かってきた。思わず、テーブルの反対方向にいた圭に、タオルを投げつける。

「パス!」

 圭はおもしろがってそれを受け取り、伸ばしてきた美晴の手をかわして、またカケルにタオルを投げ返した。美晴のするどい視線をさけて卓上に目を落とすと、お茶漬けのノリはすっかりしなっている。

「あー、冷めちゃったかも」

 わざと大きな声で言い、タオルを椅子にかけると手を合わせた。美晴も、圭も、平常心に返ったように椅子に座って手を合わせた。まだ少し笑いをふくんだ目を、見合わせる。

「いただきます」

 同時に言って、茶碗を手にする。アツアツと言うわけではないが、悪くない。
 美晴は、音も立てずに湯をすすってひと口食べてから、ほっと息をついた。

「おいしい」

 それから、目をつむって味わうように言った。

「人に作ってもらうものって、どうしてこんなにおいしいんだろ」

 目をつむったまま、椅子に背をもたせかけて天井をあおぐ。

「体に、しみこんでいくー、って感じ」

 思わず、笑ってしまった。湯上りで、ほおっとなっている美晴の口から出たその言葉は、そのまま余韻を残しておきたいような響きがした。だから、ただ黙って食べた。

 早々に食べ終わってしまった圭は、食器を下げて二階へ行ってしまった。雨が少し、激しくなってきたようだ。

「ごちそうさま」

 美晴は、手を合わせて、深々とおじぎをした。それから、しばらく動かない。濡れた髪から、しずくが一粒、テーブルの上に落ちた。

 いや、違う。一粒落ちたしずく、それは。

 カケルが腰を浮かしかけたのとほぼ同時に、何かを振り切るように美晴は立ち上がり、トレーに手を添えた。オレンジのライトが、スポットライトのように、彼女の髪の一束一束に、薄くてなだらかな肩に、光を当てた。

 彼女は、静かにトレーを持ち上げると、キッチンへと背を向けた。それから、こちらを見ないで、つぶやくように言った。

「カケルさん。今日は、ありがと」

 細い肩が、少しふるえているように見えた。

「おれは何も」

 テーブルのところで立ち尽くしているカケルに、美晴の声が届く。

「ううん。いてくれて、よかった」

 ため息とともに吐き出された言葉は、カケルのとまどいを、やわらかく包み込んだ。


 外では、いつしか弱くなり始めた雨が、ぱらぱらん、と優しく葉っぱを鳴らしている。


                                                                         (第六章 おわり)

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(次はいよいよ、 Vol.55  第七章 主人公は、圭です!)

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