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【連載小説】「緑にゆれる」Vol.86 第八章


   「すきなもののこと」

                                                                                    工どう けい 
 ぼくは、すきなもののことのはっぴょうで、読書のグループになりました。けれど、ぼくがすきな本は二さつだけです。
 一つは、虫の図かん。もう一つは、植物の図かんです。虫の図かんは、ぼくが一年生になったとき、お母さんが買ってくれました。植物の方は、ぼくが生まれる前からあって、ちょっと古い。
 虫の図かんは、ページがちぎれるくらい見ています。
 家の庭にも、通学ろにも、いろんな虫がいます。どの虫も、同じようで、みんなちがう。だから、ぼくは、虫に出会うとむ中で追いかけてしまいます。そのしゅん間にしか、その虫に出会うことはできないから。一度、目をはなしたら、その虫を見つけることは、二度とできません。
 そして、家に帰ったら、虫の図かんで、どの虫かを調べます。調べても、羽根のもようや色が全く同じということはなく、それも、やっぱりふしぎだなぁ、と思います。
 植物の図かんは、今まであまり見なかった。
 けれど、ある場所に行ったことで、植物のことも、もっと知りたくなりました。そこでは、たくさんの花や木がゆれていて、虫とおどっているみたいに見えました。ぼくは、そこを虫の王国だ、と思いました。ものすごくたくさんのトンボがとんでいて、ゆめみたいなけしきでした。ぼくは、もっともっと、虫のことが知りたい。それから、植物のことも。
 植物の図かんは、ぼくのお父さんがお母さんにプレゼントしてくれたものだ、と聞きました。
 植物図かんは、お父さんから。
 虫の図かんは、お母さんから。
 この二さつは、ぼくのたからものです。

 たどたどしく書かれた、最後の三行に目が吸いよせられてはなれない。
 そこに、自分はしわをつけてしまった。
 もう一度、二度、力を込めてしわを伸ばす。一度ついたしわは、なかなか元に戻らない。作文用紙に置いた指のきわに、自分の中からあふれでたしずくが一つぶ、落ちた。
 彼の中に生まれた、ひと筋の光、そして希望。その純粋さに比べて、自分はどうだろう。
 物音一つしない夜の食卓で、カケルはひとり静かに目を閉じ、両手の指を合わせて、その手に額を預けた。

 このままだと、おれは二人を守れない。
 自分が、何か誇りを持てる仕事を成し遂げるまでは。美晴は、おれに言ったのだ。また、あなたの作ったものが見たい、と。そして、孤独にのまれかけたおれを、身をもって救おうとした。
それに応えられるだけの男にならなければ、二人を守る資格など、ないのだ。
 カケルは、立ち上がると、作文をテーブルの上に残したまま、離れへと向かった。身辺、整理するために。

 いつも通りの、静かな朝だった。
 圭は、読んでくれた? と作文の感想を求め、そのくせ、ろくに返事を待たずに、慌てて学校へ向かった。
 本当は、圭が出て行ったらすぐ、切り出そうと思っていた。けれど、食後のコーヒーを飲みながら、いつもと変わらない美晴の様子に、かえって言いそびれた。
 しばらくはこの光景ともお別れなのだ。しっかり目に焼き付けて、今を味わっておこう、と思った。
 手が止まると、思いもここへとどまってしまいそうなので、なるべく手を止めずに必要最低限の荷造りをした。本は、ほとんど置いていくことにした。何より、圭が帰って来る前に、ここを後にしたかった。もしも、顔を合わせてひきとめられたら、今よりもっと別れがつらくなるから。
 別れは、さり気ない方がいい。いつか、また会うつもりの別れなのだから。
 荷物は、ボストンバッグ二つに収まった。店にはだれもいない。荷造りをしている間に、美晴はどこかへ出かけたようだ。カケルは、バッグをウッドデッキにでん、と置くと、腰かけてしばらく周りを眺めた。
ほおづえをついていると、美晴が自転車に乗って帰って来た。
「カケルさん」
 美晴は、自転車をしまうと、そのままこちらへ駆け寄るようにやって来た。顔を上気させて、息を弾ませて来た彼女は、カケルと、その横に置かれた荷物を目にして、その場にたたずんだ。ふくらんでいた気持ちがなえるように、髪もスカートも、しぼんでいくように見えた。

 カケルは、黙って美晴の顔を見つめた。
 美晴は、さわさわと揺れる万緑の中で涙ぐみながら微笑んで、それからこう言った。
「私、巻き上げ女、やめました」
 愛おしむような、哀しむようなその目は、カケルだけを真っすぐ見つめていた。
 カケルは、ほおづえを外すと、ウッドデッキから、弾みをつけて降りた。そして、一歩、二歩、と美晴に歩みよると、言った。
「じゃあ、無職男もやめないとな。やっぱり」
 美晴は、声を立てずに笑って、うつむいて、そのまま足元の草を見ている。顔が、崩れてしまいそうなのを、必死にこらえている。

「時が来たら、必ず帰ってくる。だから、それまで待ってて」
 美晴は、何も言わず、ただうなずいた。
「だれのものにもならないで」

 すると、情緒的だった彼女の面差しは、急に何かに覚醒したように変わった。真っすぐな瞳を向けて、彼女は言った。
「私はだれのものにもなりません」
 強い意志の現れたまなざしだった。まるで甘さはなく、きりっと澄みきった瞳の中に、周りの緑が映りこんでいた。
「だって、自分は自分でしょう。だれかのものになる、なんて、へん。お前の人生の主役はお前だ、でしょう」
 ここでも、そう来たか。言葉を失って、まいったな、と思いつつ、彼女の顔を見る。
「そうだな、その通りだ」
 カケルがつぶやくように言って笑うと、彼女は、泣き笑いのような大きな笑顔を見せた。

 これで、離れて行ける。そう思った。
 そのままウッドデッキの荷物を持って、石段を下りた。振り返らず行こうとしたら、上から声が降ってきた。

「カケルさん」
 ふと顔をあげると、彼女は緑の中でゆれながらほほ笑んだ。

「行ってらっしゃい」

「あぁ。行ってくる」

 そのあとは、振り返らずに、木立の中を後にした。蝉の声が、夕立のように降り注いできた。


第八章、おわり。
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