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【連載小説】「緑にゆれる」Vol.85 第八章


 カケルは、風呂場への暗い廊下を、ぼんやりと見つめた。いつもより、少し乱暴に風呂のドアが閉まる音がした。

 いたたまれない思いを胸に抱えたまま、カケルは背を向けようとした。
 そのとき、全く予想外に、足音を立てずに降りてきた圭に出くわして、カケルの心臓は飛び出しそうになった。
「カケルさん?」
 激しい動揺が隠せないまま、カケルは圭と向き合う形になった。
「……どうしたの?」
 圭は、少しいぶかしげに、カケルの顔をのぞきこんだ。
「あぁ、何でもないよ」

 他に答えようがなかった。でも、何でもないはずが、なかった。カケルは、美晴が生んだ少年の顔を、改めて見つめた。彼の顔の後ろに、美晴が愛した男の影が重なる。
 彼女は、彼とどんな風に愛し合ったのだろうか。そう考えただけで、気が狂いそうだった。
 この子の半分には、その男の血が流れている。
 カケルの中に激しく煮えたぎるような感情が沸いてきた。
 嫉妬している。
 そう、気づいてしまった。
 おれは、この少年に、その中に流れる男の血に、嫉妬している。
 美晴が、欲しい。こんなに激しく切実に誰かを欲したのは、たぶん、それが初めてだった。
 彼女の過去にあった事実から目をそむけたい。なかったことにしてこの手で葬ってしまいたい。この手で。
 葬ってしまいたい、という言葉が脳裏をかすめて、カケルは我に返った。
 何てことを考えているんだろう。
 カケルは、自分の中の激しい戦りつに、愕然とした。
 おれの中には、狂気が潜んでいる。昔、母の男たちを殺したい、と思ったのと変わらぬ狂気が。

「カケルさん、これ」
 何の屈託もなく、差し出された手には、一枚の作文用紙があった。
「花まる、もらったよ」
 圭はカケルにそれを手渡した。薄暗い階段の中にあって、ほの白く浮かび上がって見える。
「おやすみ」
 圭は、満足気に言うと、また階段を上っていった。こちらの気持ちには、何も気づかないで。

 カケルは、泣きたいような気持ちになって、薄暗がりに消えていく、小さなパジャマの後ろ姿を見つめた。
 分かっていたことじゃないか。
 深く長いため息と共に、思いつめた気持ちを吐き出す。
 あんなに長くキスをして、それでも先に進めなかったのは、こわかったからだ。
 もしも、美晴が、おれに抱かれながら、心では別の男を想っていたら? やっぱり、それは耐えられないだろう。抱いているのに、手に入らない。そんなことが分かってしまったら、自分の心は引き裂かれてしまう。
 確かに、彼女はおれにキスをした。けれど、好き、とも、愛している、とも言ったわけではない。ただ、借りがある、と言ったのだ。

 お母さん、そのひとのこと、好きだった?
 うん、とっても。
 夏のベランダで交わされた、愛に満ちた言葉が、耳の奥によみがえってこだまする。
 彼女の中に、今も生きている真の愛を知った日。
 だから、言えなかったんだ。
 くちびるを重ねながらも、愛している、と。

 知らず知らずのうちに、握りしめていた手を開く。テーブルにつくと、カケルは、丁寧に作文用紙のしわを伸ばした。そして、ゆっくり心の中で音読するように、読み始めた。


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