見出し画像

【連載小説】「緑にゆれる」Vol.44 第六章


 夢からだんだん覚めていくように、下界への道をたどる。緑の世界から、瞬く間にアスファルトの道へ来てしまった。
 
 少し余韻が味わいたくて、でも足は道を下っていくしかなくて。ふと脇の分かれ道に目を移すと、ハイキングコースへ登る道があった。少し行ってみよう、と歩を進める。ハイキングコースとは、のどかな響きだが、登ってみるとかなり細い山道が続いている。これは行ったら帰れなくなるな、と思った。
 ふと、道の横の青々とした葉の陰に、珍しい蝶を見つけた。うすいうすいほとんど白に近い水色の羽根は、開かれていて全く動く気配がない。凧のように逆三角形の羽根は、下方でくびれるように曲線を描いている。妖しいほど美しい。羽根を開いている、ということは、おそらく蝶ではなく、蛾だろう。
 飛んでいってしまわないように、と、ほとんど息をとめてこれもカメラに収める。

 ハイキングコースを下り、またもとのアスファルトの道へ戻った。
 
 行きはきれいと思ったあじさいも、あの楽園での自由な草木たちを目にしたあとでは、にぎやかでありふれたものに見えてしまう。花一つとっても、あぁ、下界に下りてきてしまった、と感じる。


 パン屋の前まで行くと、美晴が紙袋を手に待っていた。

「もう少し待って姿が見えなかったら、連絡しようと思っていたところです」

 美晴が、木陰から一歩出て、こちらを見た。
 ああ、と適当な返事をして並んで歩き出す。こちらが黙っていると、美晴は顔をのぞきこんで少し歩をゆるめて言った。

「何か、あったんですか?」

 やっと、下界に戻ってきてしまったことに気持ちの照準が合った瞬間だった。
 黙って美晴の顔を見た。彼女は、なおも不思議そうな目をして、こちらを見つめている。それからささやくような声で言った。

「まるで、別世界へ行って帰ってきたみたいな顔してるから」

「ああ」

 少し長く息を吐いた。あそこでは、音の聞こえ方も違った。そんなことを思いながら、でも彼女の声がやわらかく心地よく聞こえたことに、少しだけ安堵する。別世界と、現実をゆるやかにつないでくれるような響きに聞こえる。

 ふふ、と笑ってから、美晴は通りがかりの石段を指さす。

「ここ、公園になってるみたい。この中でパン、食べていきましょう」


Vol.43 第六章 へもどる)     (Vol.45 第六章  へつづく)

読んでくださって、本当にありがとうございます! 感想など、お気軽にコメントください(^^)お待ちしています!