見出し画像

【連載小説】「緑にゆれる」Vol.73 第八章


   八章

 最初は、圭にも見せるつもりだった。
 けれど。

 カケルは、編集作業を進めながら、画面を見つめた。たぶん、普段の生活では見せないような顔を、圭はしている。
 九歳か。
 カケルは、うーん、と少し考え、あごに手を当てた。ちょっぴり、恥ずかしさも出てくる頃だ。

 やっぱり、最初に、美晴だけに見せよう。
 そう決めたら、それが最善のように思えた。無意識のうちに、ぽんとひざを打つ。そうか。これは、美晴一人のために作った映画なのだ。
 学校や保育園以外、片時も自分の元を離れたことのないたった一人の息子が、どんな経験をして、どんな表情をしているのか。美晴は知らないだろう。子どもは、親のいないところで意外な表情をするものだ。
 楽園へ行ったあと、一気に駆け下りてきた弾むような足どり。そして、意欲に満ちた横顔を思い出しながら、カケルは一人、うなずいた。

 帰ってきて昼から、ずっと離れにひきこもっている。あと少し。早く作業を終えてしまわないと、そのうち、美晴が夕食だ、と呼びに顔を出しかねない。
 よし、できた。データを保存したら、美晴がウッドデッキを渡ってくるのが見えた。ぎりぎりセーフ。カケルは、冷や汗とともに少しのため息をもらす。
 圭は、よっぽど疲れていたのだろう、夕食を食べながらひととおりしゃべり倒すと、一度食卓でこと切れたように眠ってしまい、起こされて風呂へ行った。寝入るまでに一分とかからなかったようだ。圭を二階へ送って、すぐに下へおりてきた美晴に、ずっと歩きだったからな、と告げると、その顔は驚きで固まってしまった。

「えっ⁉ 江の島まで歩いて、帰りはこの間行ったお寺まで歩いたんですか⁉」
 言葉を失っている。
「本当に、過酷な旅をさせたんですね」
「まぁ、な。一応、誘拐だしな」
「そんなに歩かせるとは」
「ほら、お金がない、っていうストーリーだったし」
「それはカケルさんの独断と偏見に満ちたストーリーですね」

 だんだん美晴の目がすわってきた。心配性だな、と言いそうになったが、差し控える。親一人子一人なら、行動範囲も経験も、狭くなるのは仕方がないことなのかもしれない。

「で、そのストーリーを、きみに見せてあげよう」
 ひとつ、咳ばらいをしてから、カケルはおもむろに席を立った。
 美晴の家のテレビは二階にある。圭と美晴がふだん寝ている和室に圭の小さな勉強机があり、隣の洋室に、小さな二人がけのソファと、テレビがある。

 カケルは、離れに戻ってノートパソコンを抱えてくると、二階を指さした。階段を上りながら、静かな声で言う。

「圭、起きないかな」
 後から上ってきた美晴が、そっと和室のふすまを開けてささやいた。
「ぐっすり。地震が来ても起きなさそうなくらい」

 パソコンとテレビを線でつないで、電源を入れる。美晴は、クッションを抱えてソファに腰かける。アイコンが画面に現れた。そのひとつをクリックする。それから、カケルは部屋の電気を消した。

「これは、きみ一人のために作った映画だ」

 美晴が、好奇心に光る目で、カケルを見上げた。わざと仰々しく言ってみたが、やっぱり少し照れ臭くなってしまって、こう付け加えた。
「簡単に編集しただけ、だけど」
 美晴は、まるで子どもの発表会を見るときのように、無邪気に拍手をした。
 アコースティックギターの音楽が始まり、まぶしい海と空が映る。

『素敵なユウカイ旅行』

 タイトルは、海と空に溶けるようなさりげない明朝体。
 軽快なギターのつま弾きに乗せて、圭のスニーカーがアスファルトをける。
 極力、カメラ目線じゃない映像を取り入れた。遠巻きの絵も、多くはなかったが入れたい場面だった。カメラ目線で笑顔でピース、みたいなファミリービデオには仕立てたくなかった。だから、貝や、大きなみかんや、ドーナツや、圭が心を留めたであろう小さな物も、織り挟んだ。所々に簡単なテロップを入れて、ストーリーをつなげる。

 カケルは、ちらっと横目で美晴の顔を見た。息をつめて、じっと画面を見つめている。
 ひとつだけ、虚構で作ったシーンがある。圭が、楽園に行く場面。圭は、一人でその場へ行ったので、楽園自体をカメラに収めることはできなかった。けれど、そこへ行った前と、後の表情の間に、どうしても楽園の映像を挟みたかった。なので、カケルは、それより以前に、自分が一人で行って見てきた楽園の映像を差し込んだ。

 彼が目にしたものは、同じではないだろう。トンボ、トンボ、とはしゃいでいた。けれど、空気、気配は大きくは変わらないはずだ、と信じながら。楽園から駆け下りてきたときの、圭の横顔がアップになったとき、美晴がほんの少し、身を乗り出すのが分かった。
 やがて日常の雑踏を過ぎ、美晴と圭が暮らす白い家が映って旅は終わりを迎えた。
 手書きで書いたチョークのような白い文字で「Fin.」がつづられたとき、美晴はかすかなため息とともに、クッションを抱き直した。

 映像の余韻の中で、ふと美晴の顔を見ると、驚いたことに涙を流して泣いていた。声も出さず、すすり上げることもしないで、ただ、目からあふれる涙を流れるままに、ほほに伝わらせている。そんな静かな泣き方だった。

 この間も、そういう泣き方をしていたな。
 ふと、先日音楽に包まれて涙を流していた姿がよぎる。

「泣かせるつもりじゃなかったんだけどな」

 そう言って、部屋の電気をつける。暗いままだと、何か別の衝動が起きてしまいそうで、明るくなった部屋にほっとする。黙って、ティッシュの箱を差し出すと、美晴は素早く二枚引き抜いて、ほほをぬぐって目を押さえた。

「泣くつもりじゃ、なかった。こっちだって」

 そう言ってから、泣き笑いした。カケルは、ただ黙って美晴を見つめた。思えば、こんな風にして自分が作ったものを受け取ってもらえた経験が、他にあっただろうか。

 仕事で携わったドラマやドキュメンタリーには、はがきやネットで感想は寄せられた。簡潔なものが多かったが、中には熱い思いを寄せてくれたものもあった。けれど、それらには、血は通った感じは受けず、涙も記憶するところさほど流れてはいない。学生時代にやった演劇は、確かにライブ感があったけれど、こんなにも個人的な涙を流させた、というのとは違う。もっと、作品と観る者の間には、距離があった。素晴らしかった、という賞賛は受けて嬉しかったのだけれど。


Vol.72 第七章 へもどる)  (Vol.74 第八章へ つづく)


読んでくださって、本当にありがとうございます! 感想など、お気軽にコメントください(^^)お待ちしています!