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【連載小説】「緑にゆれる」Vol.81 第八章


 思いにとらわれたまま、気づいたら鎌倉の家の前にいた。灯りはいつもと変わらぬ温かさで、カケルを迎えた。

「おかえりなさい」
 美晴の声に、やっと、現実に引き戻された。

 すごく、長いことどこかをさまよっていたような心持ちがした。すぐに返事ができずにいると、美晴は、ちょっとだけ首をかしげた。
「カケルさん?」
 なぜだか胸が苦しくなって、黙ってそのまま離れに向かった。

 どれくらいそうしていたのだろう。様々な思いや考えが頭の中をめぐり、でも、その実何も思ってないようだった。窓の外では、黒い木々がざわざわと鳴り、耳は飽くことがなかった。カケルは、ただじっと窓際の低い本棚の上に座って、ぼんやりと外を眺めていた。黒い葉が、月に照らされて、光って揺れている。今夜は、満月にほど近い、十六夜の月だ。
 ガタン、と音がして、離れの大きなガラス戸が少し、開いた。

「カケルさん、少し食べます?」
 美晴の声がする。ためらいがちの、静かな声。

 カケルは、気持ちを窓辺に残したまま、体だけ声のする方へ向かった。
 戸の向こうには、トレーを胸の高さで持って、美晴が立っていた。おにぎりが二つとシェファーズ・パイがのっている。それに、お茶と木のスプーン。

「いつまでたっても来ないから」
 そう言ってから、小さな声でつけ加えた。

「もう、寝てしまったのかと思ったのだけど」

「……ありがとう」

 カケルは、そう言ってトレーを受け取ると、中へ戻った。トレーを机に置いて座り、振り返ると、まだ美晴はそこに立っている。

 何か、と思って少し首を傾けると、美晴は入っても? と聞いた。どうぞ。なるべくふつうに聞こえるように答える。美晴は、音もたてずに入って来た。暑い、と思ったのか、ガラス戸は開いたままで。

「電気もつけないで」

 暗い部屋を見渡して言う。

「あぁ、気づかなかった。ずっと、窓辺にいたから」

 美晴は、カケルの後ろを通り過ぎると、窓辺まで行って空を見た。

「月が明るいですもんね、今夜は」

「……そうだな」

 その雰囲気を壊したくなくて、机の上のスタンド電気だけ、つけた。軽く手を合わせてから、黙ってシェファーズ・パイを口に運ぶ。変わらない。初めて作ってくれたときと。

「そんなに、悪かったんですか? お母さん」

 美晴は、こちらを振り返り、立ったままたずねた。自分が沈んでいるのは、母の病気のせいだ、と思っている。
「初期のガンだったんだけど。手術もうまくいったみたいで、本人は、まぁ元気そうだったよ」

 まるで別の人物がしゃべっている。淡々と事実を話す口調は、しかし、その奥につい先ほどまで潜んでいた心境とは裏腹に、いつもより軽い調子に聞こえた。自分の耳にさえも。それが妙な違和感を生んで、それ以上、何も話したくなくて、ただもくもくと、美晴の作ってくれた食事を口にした。
 美晴は、カケルの正面にひざを抱えて座ると、片ひじでほおづえをついて、カケルの様子を黙って見ていた。スタンドの灯りが、彼女の額に陰影を作った。
「ごちそうさま」
 静かに手を合わせると、ぺろりと平らげてしまったトレーをのぞきこんで、美晴がひっそり笑った。そして、小さい声で、
「よかった」
と、つぶやいた。カケルに、というより、それは自分自身に言っているつぶやきのようにも、聞こえた。人のためにさりげなくやったことが、自分の中でふくらんで幸福に包まれる。そのひそやかな声を聞いたとき、カケルの中に昔の記憶がよみがえった。

 初めて、彼女が作ってくれたシェファーズ・パイを食べたとき。あのときも、そうだった。熱を出して、孤独にさいなまれていたとき。風のように彼女はやって来て、温かい料理を作ってくれたのだった。そのとき、どんな会話をしたのか、また彼女がどんな表情をしたのか、全く記憶にない。むしろ、夢中で皿ばかり見ていて、まともに彼女の顔を見もしなかったんじゃないか、とも思う。けれど、その熱い料理は、カケルの舌をとろけさせて、心と体をいやした。心がほどける。そんな感じがした。ふいをつかれて、その後、カケルは一人、布団の中で涙を流したのだった。料理に感動してではない。そのとき抱えていた定まらぬ愛。自分がちゃんとだれかを愛せないのは、親に愛されていなかったからなんじゃないか。心の奥に潜んでいた思いがあふれ出し、涙が止まらなくなった。あんなに泣けたのは、それまでもそのあとも、一度もない。

 自分が熱を出したとき。あるいは、ひどく落ち込んでしまったとき。こんな風に、温かいごはんで、なぐさめてほしかった。そして、ただそばにいてほしかった。だれかに。

 そのとき思ったことと、今が重なった。

 美晴が、ゆっくりとトレーを持って立ち上がったとき、カケルはほとんど反射的に、そのスカートをつかんでいた。強く。引きとめるように。
 美晴は、はっとしたように足を止めた。

 あんたの、足りない部分を、だれかにそっと委ねて満たしてもらいなさい。

 母の声が聞こえた。
 今日別れてから、ずっと心の奥にとまっていた想いは、つまり、そのことだったのだ。カケルは、今、それを自覚した。



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