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【連載小説】「青く、きらめく」Vol.29 第五章 波の章

 きっと、カケルなら普通に答えるだろう。心のどこかでは、そう思っていた。でも、実際そう言われると、傷ついた。
「私とデートした後でも、もう一人の彼女と会ってたのね」
 問い詰めるというより、つぶやくように口にした。
「でも、もう終わったんだ。その子とは」
「でも、もしも彼女からもう会うのをやめよう、って言われなかったら、続いてたんでしょう。この部屋で。私の知らないところで」
 カケルの瞳孔が開いている。
「私の知らないところで……あなたの心のすき間に他の誰かがすべりこんでしまうなんて、我慢できない」
 この言葉を発したとき、ぼんやりと、また別の女の子――美晴の影が浮かんできた。
「別れた彼女のことも。美晴ちゃんのことも」
「……美晴?」
「由莉奈さんと徹ちゃんからちょっと聞いた」
 カケルは、何が何だか分からない、というように頭をかいた。
「美晴とは何でもないよ。全く、由莉奈のやつ。余計なこと言いやがって」
「とにかく」
 マリは語気を強めた。
「私の彼氏なんだったら私だけを見ていてほしいの。あなたのすべてを、知りたい。そして、すべての時間と心が欲しい」
 そこまで一気に言い切った。カケルは、あっけにとられている。伝わらなかったのだろうか。
 自分を見つめているカケルの瞳は、やがて暗く翳りを帯びて、口元にはかすかな笑みさえ浮かんだ。マリの心はぐらりと傾き、ほんの一瞬、正体の分からない恐怖を覚えた。
「すべてが欲しいって――」
 一度言葉を区切ると、ゆっくり口を開いて、彼はこう言ったのだ。
「おれは、きみの所有物じゃ、ないよ」
 鈍器でなぐられたようなショックが、頭の中に広がった。
「すべて、って言うけれど、じゃあ、きみは、おれのすべてを受け入れる覚悟は、あるの?」
 真っすぐ自分を見つめるカケルの目は、逃げることを許さない獣の目だった。
 体が凍り、返事ができない。でも、マリはひるまなかった。受け止めよう、と心を強く保った。
 カケルは、ゆっくりと腰を浮かせてマリに近づくと、その肩に手をかけて唇を重ねた。
 それは、帰り際に交わすいつものキスとはまるで違った。ふり払ってもふり払ってもやってくる激しい口づけの嵐。抵抗してもかなわない。苦しくて息ができない。このままだと、溺れてしまう! マリの脳裏に、抗うことのできない大波が襲いかかってきた。お父さーん! お母さーん! 輝いていたはずの海が、襲ってきた日。そして、セミの鳴く朝、わたしの背中に残った薄い口づけのあと。
 カケルの唇が、這うように首筋に降りてきたとき、マリはやっと、絞り出すような声でこう言った。
「いや、もう、やめて」
 泣いていた。急に夢から覚めたようにカケルは動きを止め、マリの両肩を起こした。そして、聞こえないくらいの小さな声で、言った。
「……ごめん」
 恐る恐る目を開けた。うつむいているカケルの目は潤んでいて、とても傷ついた少年のような顔をしていた。あっ、と思ったが、もう遅かった。マリが指先を伸ばすより数秒早く、カケルはゆっくり立ち上がり、マリに背を向けた。
 あぁ、もうだめだ。
 マリのほほに涙がこぼれ落ちた。たまらなくなって、マリは素早く自分のバッグを手にすると、後ろを振り返らないでアパートを飛び出した。そして、そのまま無我夢中で街を走り抜けた。

 どこを、どう走ったのか、よく覚えていない。来たいと思ってなかったのに、それでもやっぱり海に来ていた。ぼんやりと、穏やかに繰り返される波を見ながら、マリは砂の城を作った。素手ではうまくできなくて、作っているはなから、ぼろぼろと崩れてしまう。爪の間に砂が入り込んで、指先が痛い。けれど、何度も何度も繰り返し作った。ただ、無心になりたかったのだ。子どものころみたいに。

 傷ついた、わたし。そして、傷つけたカケルの心。
やっと城らしい城ができて、ひと息ついたところに、ひときわ大きな波がやってきて、砂の城はとろけるように崩れていった。


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