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【連載小説】「青く、きらめく」Vol.28 第五章 波の章

 家に帰って自分の部屋のベッドに座ると、マリは急いで台本を開いた。そして、何度か深く呼吸をすると、読み始めた。カケルと美晴、もしくは、カケルと自分を当てがいながら、ゆっくりと読む。ラストシーンで、手が止まる。台本を持つ指が小さく震えた。これは、だって、まぎれもなくラブシーンではないか。改めて、余韻で胸の中が熱くなった。
 カケルが求めているものは。
 静かに目の前の風景がにじんでいく。マリは、ぱたん、と台本を閉じると、すぐにカケルに電話をかけた。
 何度かけてもカケルは出なかった。やっとつながったのは夜の十一時だった。
「どうしたの?」
 それまでの着信の多さに、さすがに驚いた様子でカケルが出た。
「うん。声が、聞きたくて」
「……あぁ」
「今日のこと。ごめんなさい」
 しばらく間があって、カケルの少しとまどったような声がする。
「いや」
「今すぐ会いたい」
 自分でも驚くほど、ストレートに言葉が出てきた。カケルが電話の向こうで黙っている。息遣いから、少し困惑した様子が伝わってくる。
「……今から出られるの?」
 その言葉は、希望ではなく、疑いをもって告げられた。カケルは、家の事情をよく知っている。門限とまでは言われないまでも、十時、遅くとも十一時ころまでには、家に帰りついているのが我が家の常識だ。今から外出なんて、とっさの言い訳も思いつかない。マリが言葉に詰まっていると、ひと呼吸ついてカケルが言った。
「明日、おれ午後休講なんだ。夜はバイトがあるけど、それまで会う?」
 明日の午後はゼミもない。大人数の授業が一コマあるだけだ。それは後から何とでもなる。
「会う」
 忙しく考えをめぐらして、即座に答えた。

 渋々のカケルを押し切って、ランチはカケルのバイト先でとることにした。
「ほとんど毎日来てるのになー。しかも夜も来るのに。何でだよ」
 別に珍しいとこじゃない、とか、女友達と来いよ、とか珍しくごちゃごちゃ言っている。
「そんなに彼女を連れて行くのが恥ずかしい?」
 あえて彼女と言ってみる。
「んー、まぁ、それは、ある」
 少し照れたようなカケルの様子に、マリは思わず笑ってしまう。大丈夫だ。ほら、少し前みたいな空気が、二人の間に戻ってきた。海が見える窓際の並びの席に座った。カケルより少し年上に見えるきれいな女性が水を運んできた。
「ごゆっくり」
 彼女は、一瞬カケルの方を見て、軽く目配せした。
 窓の向こうに穏やかな秋の海が見える。空気が澄んでいるせいか、夏より細かく輝いている。
 もう一人の女の子のことも美晴のことも気になったが、あえてここでは話題にせず、ただ景色とランチを楽しもうと思った。プレートの副菜のセンスをほめたり、パンの味に感激したりした。前通りの二人のデートをただ思い出すために、必要なことだったのだ。
 カフェを出て、海沿いの道を歩く。頭上で高くとびが舞っている。ピーヒョロロ、とビブラートのかかった鳴き声が風に散っていく。
「私、カケルのアパートへ行ってみたい」
 行きたいとこある、と聞かれて、そう答えた。聞かれなくても、今日はそう言おう、と思っていた。
 カケルは一瞬足を止めて、マリを見つめたが、いいよ、と言った。
「それこそ何も面白くないと思うけど」
 ゆっくり歩きだしたカケルに並んで、マリはその手をとる。
「だって、考えてみれば変じゃない? 一人暮らしの彼とつき合ってるのに部屋にも行ったことがないなんて」
「まぁ、そこは人それぞれなんじゃないの。ってか、今まで行きたいって言わなかったじゃん」
「誘ってくれなかった」
「そうだっけ」
 軽いやりとりが楽しい。大丈夫。マリは自分自身を励ます。きっと大丈夫。
 カケルの住んでいる明月荘は、思いの外古くてさびれたアパートだった。マリは、穴の開いた階段のトタン屋根を見て、唖然とした。
「だから言っただろ」
 カケルは腕を組んで、少し意地悪そうに流し目でマリを見た。口の端をゆがめて笑っている。
「どうする? 他行く?」
「ううん」
 この中へ潜入するんだ、という意気込みをもう一度奮い立たせるように返事をした。

 アパートの中はほの暗く、でもそれなりに整頓されていて、散らかって足の踏み場もないような様子ではなかった。小さなソファには、本が雑然と積まれていて、片時も本が手放せないカケルらしい、と思った。窓の向こうには、大きなTシャツが何枚も風に揺れていた。
「洗濯とか、ちゃんとしてるんだ」
 カケルは、キッチンのやかんを火にかけながら答えた。
「ランドリーで洗って家で干す。洗濯機ないから」
「ふーん」
「コーヒーでいい?」
 後ろでカケルの声がする。
 何かいいな、と思った。一緒に生活をしているかのような、この感じ。彼の生活の中に、すんなり入ってきてしまったようなこの感じ。どうして今まで、こういう会い方をしなかったんだろう。慣れた手つきでコーヒーを入れてくれる彼を見て、虚をつかれたような気持ちになった。それと同時に、自分の知らないところで会っていただろうもう一人の彼女のことが胸に立ちのぼってきた。彼女とは、こういう時間を過ごしていたのだろう。おそらく。テーブルに置かれた不ぞろいのコーヒーカップを手にして、ゆっくりと口にする。
「おいしい」
 マリは、小さくつぶやくように言った。
 聞くなら、今だ。
「私の他に、誰か別の女の子と会ってた? この夏」
 自分でも驚くほど静かで低い声だった。
 うつむいてコーヒーカップを手にしたカケルの動きが、止まった。
「その子も、ここへ来た?」
 マリは、静かにカップを小さなテーブルの上に置いた。カケルは、コーヒーカップを持ったまま動かない。
「どうして黙ってるの?」
 カケルはカップを置くと、腹をくくったように答えた。
「来た」

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