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第90回 鉄道員(ぽっぽや)(1999 東映)

 さて、本日3月29日は志村けんの命日であります。あれから2年というのにコロナウイルスの猛威は留まるところを知らず、戦争や地震まで起こる有様。こういう時こそあの人の笑いが必要なのに、惜しい人を亡くしたものです。

 さて、本noteでも追悼をと思ってドリフターズの映画シリーズでもレビューしようと思いましたが、志村けんが正式に加入する前にシリーズは打ち止め。とすれば選択肢は文字通り一つしかありません。『鉄道員』です。

 高倉健と志村けんという「けん」の両横綱が顔を揃えた、志村けんが唯一まともに出演した映画であります。

 浅田次郎のベストセラーを健さんと共にキャリアを積み重ねてきた降旗康男が監督。映画賞を総なめにした名作であり、何気に本note初の平成の邦画でもあります。

 健さん演じるぽっぽやの矜持、消え行く炭鉱町の儚さ、そして浅田次郎が何気に得意とする幽玄の世界観、まだ酒が飲めない全盛期の広末涼子、美しいものがてんこ盛りです。

 後世の評価は案外悪い映画ですが、それは健さんの良さが分からない人の意見であり、健さんの格好良さが分かる人にはたまらない映画です。

 そして、この映画で一番美しいのは小林稔侍の情念であります。浅田次郎のホモ臭い作風と化学反応してそりゃあもう凄い事になっています。健さんの総受け力が大爆発しています。

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真面目に解説

不器用の美学

 健さんと言えば不器用です。従って健さん演じる主人公の佐藤乙松も極めつけに不器用です。正直他の役者が演じる乙松は考えられません。

 乙松は機関車の釜焚きから始まってぽっぽや(あえてこう称す)に生涯を捧げ、路線ごと廃止の決まっている美寄という駅の駅長として定年を迎えようとしています。

 ぽっぽやたる者親の死に目に会えないと思えなどと申しますが、乙松はまさに不器用に、愚直に、誠実にぽっぽやを続けた結果妻子の死に目にも逢えなかった筋金入りです。

 これをもってブラック労働を美化しているという批判の声が大きい映画でもあります。奴隷船のような通勤電車に乗って毎日ブラック労働をしに行く人がそう思うのは無理からぬ話であります。

 しかし、その通勤列車が寸分の狂い無く走っているのはこうしたぽっぽやの汗と涙の結晶であり、また乙松の生き様は見る者を感動させます。そういう側面まで否定してよい物でしょうか?

 そもそも、降籏監督からして高度成長期に使い捨てられた男の悲哀にフォーカスして撮ったと言っています。とすればこの批判は的外れです。

 第一この不器用な男の生き様こそが健さんの芸であり、誰にも真似のできない境地です。例え仕事に疲れても、健さんの不器用さ故の苦難を己の不遇に重ねてヒステリックに否定するようにはなりたくないと私は思うのです。

炭とぽっぽや

 舞台となる美寄駅も幌舞という町も架空ですが、道央の炭鉱の町という設定になっています。これがキーです。

 もはや日本では成立しない産業ですが、炭鉱はかつては日本国の心臓でありました。広い北海道にあんなにも鉄道網が張り巡らされているのは、人よりもむしろ石炭やニシンを運ぶ為なのです。

 しかし、石油へのエネルギー転換と枯渇によって炭鉱産業は急激に衰退し、運ぶ石炭のなくなった鉄道は作中の幌舞線のように赤字路線となって廃止に追い込まれていきます。

 もっと言えば、NTTは西日本と東日本だけなのにJRはあんなにもぶつ切りになっているのは、かような赤字路線を数多抱える北海道や四国を切り捨てるという裏の意図がありました。

 いわばこの映画は時代に取り残された町と男の物語であり、それだけに儚くて美しいのです。

 それに、健さんは九州の炭鉱マンの息子であり、そういう観点からもこれはナイスキャスティングです。

稔侍の恩返し

 乙松は妻子を亡くして官舎に一人に住んでいると言っても独りぼっちではありません。ぽっぽや仲間や町の人に愛され、後輩にも畏敬の念を持たれています。

 中でも乙松を気にかけているのが同期で親友の仙次(小林稔侍)です。彼はターミナル駅の駅長に出世し、定年後の天下りが決まっていますが、乙松を自分よりも立派な男であると高く買い、同じく定年を控える彼の身の振り方を息子で事務方の秀男(吉岡秀隆)と一緒に取り計らおうと奔走します。

 私はこのキャスティングに涙を禁じ得ないのです。というのも、小林稔侍は御存じのとおりピラニア軍団でスーパー右翼でありますが、彼は健さんに憧れて映画俳優になり、常に健さんに世話になってたのです。

 それだけに一度は対等な役で健さんと共演する事で「恩返し」がしたいと強く願っていて、本作でこれが実現したわけです。もう事実上のメインヒロインと言ってもいいレベルです。

 この映画はまたホモソーシャルを美化しているという批判もありますが、この二人にそんな事を言うのは野暮という物です。それがフェミニズムの観点からどうであろうと、この美しさのまえに思想など何でありましょう?大体宝塚とかにも探せば似た話はあるでしょう。

女は石炭

 浅田次郎作品は当人の経歴(後述)も相まってホモソーシャルでマッチョイズム過剰な面がありますが、反面女は意外にコンドーム扱いされず、女性には不満の残る形だとしてもストーリーで重きをなすところがあります。

 本作は過去と現在を行き来しながら進行しますが、乙松はぽっぽやであったとしても妻である静枝(大竹しのぶ)を決して軽んじていたわけではなく、仙次の妻明子(田中好子)にしても静枝の死に目に遭おうとしなかった乙松をなじったとは言え、ぽっぽやとはそういう宿命を背負っていることを理解しています。

 特に静枝の健気さは泣かせます。それが男の視点だからだとしても、それが悪いとはこの際思いません。

もう一人のけんさん

 さて、幌舞が炭鉱の町という事は、当然炭鉱夫のドラマがなければいけません。ここでついにもう一人のけんさんがご登場と相なるわけです。

 教科書を読めば石炭産業は資源の枯渇と同時に労働争議と事故によって衰退したと書かれています。この辺りが完璧に盛り込まれている点を私は高く買います。

 炭鉱は命がけの職場であり、また基幹産業なので戦後日本の労働争議の最前線でありました。というわけで炭鉱夫(本工)はストをするわけですが、経営者側は臨時工を雇って対抗するというのが定石でした。

 駅前にある食堂で筑豊から流れてきた臨時工の吉岡(志村けん)と本工の集団が鉢合わせ、喧嘩になって乙松と仙次が止めに入ります。

 仙次は本物のヤクザより怖い人に殺されて来ただけあって根性があります。天下のピラニア軍団の前には本工の中堅役者達などトリの手羽先です。

 止める乙松たちを炭鉱夫が「親方日の丸」と罵れば、吉岡がそいつらを「親方赤旗」とやりかえすのに実に嫌なリアリティと笑いがあります。仙次はスーパー右翼なのですから。

 もっと笑うのは、本工の中に本田博太郎が混じっている事です。この少し前に彼の主演による『北京原人 Who are you?』が大コケして東映は傾きかけ、本作の大ヒットで取り返した経緯があるのです。

 さておき、志村けんの酔っ払い炭鉱夫の演技は尺は短いですが見事であり、この演技力を使い切らずに世を去ったのは惜しまれます。

 そして、案の定吉岡は事故で命を落とし、息子の敏行(松崎駿司→安藤政信)が遺され、静枝が養子にしようと提案しますが、静枝が体を壊して食堂の主のムネ(奈良岡朋子)が引き取ります。

 かように登場人物は血縁は置いても事実上の家族であり、言い換えれば一家離散の映画とも言えるのです。

死んだ子の歳を数える

 これは浅田次郎の得意とする手法ですが、本作最大の山場は死んだ雪子が乙松の元へ現れる事でしょう。しかも三段階に成長して。

 山田さくや、谷口紗耶香、広末涼子と段階的に大きくなるわけですが、最終形態でこの映画の呼び物の一つであった広末涼子が名目上の主演女優です。

 当時まさに全盛期。まだ酒の飲めない歳だから良かったのです。その実態は島崎和歌子と同様典型的土佐の女であったのも今や誰もが知る話です。だから良いんだと言うなら私も土佐の男なのでむしろ賛同します。

 セーラー服で現れた広末雪子は鉄道クラブに入っているなどと称して官舎に飾ってある鉄道グッズに大興奮します。

 私は鉄ではないですが、こんな美少女の鉄の存在が意味する物はよく分かります。もし居たら火種になります。張作霖です。列車砲です。新幹線大爆破です。

 この辺の絡みも本作がホモソーシャル映画と批判される遠因なのかもしれません。

 だとしても、マリア様か野郎の理想の人形かと思うような雪子の優しさは乙松の最期の幻だとしても、誰が何と言おうと美しいのです。

BL的に解説

浅田次郎は怪しい

 まず、原作者の浅田次郎が相当に怪しいわけです。本人もそれを自覚していて、試しにウリ専に行ってみたもののボーイに説教垂れてしまい、懐かれて困ったなどと自著に書いています。

 風俗で説教するオヤジなど最低だと思いますが、それはさておきこの記述に私は「ホモは嘘つき」という格言で応じるよりありません。

 赤塚不二夫とタモリが試してみて案外盛り上がらなかったというエピソードもそうですが、まさかそれからはもう毎日が薔薇色で虹色ですなどとは本当でも言えないわけです。

 アイドル声優が彼氏を弟と偽ってSNSに登場させて顰蹙を買うスキャンダルが流行りましたが、この種の逸話はそれと同じ臭いがします。

 また、浅田次郎は三島先生の信者であり、三島先生と直接の面識のある一番若い文学者ではないかとも言っています。

 それだけなら別にどうという事もないですが、彼は元自衛官であり、市ヶ谷勤務でその三島先生に斬りつけられた人の従卒をしていました。ますます怪しいではないですか。

 その上その後は特殊右翼に転じました。そして自分の小説の映画に天下のスーパー右翼が出ている。ここまでくればもう数え役満です。

 名誉棄損と言われると嫌なのでこれはあくまで憶測ではありますが、まあそう思うと氏の作品は上質な直木賞BLに変身するわけです。なので私は大ファンです。

ぽっぽやはホモ

 ぽっぽやのホモソーシャルな絆が良きにせよ悪きにせよこの映画の根幹にはあります。彼らは一様に職務に忠実であり、誇りを持ち、決して弱音を吐きません。彼らが連ケツするのは自然な事です。

 雪子の葬式のシーンで歌う彼らの姿をご覧ください。鉄道マンの葬式ではまま見られる光景だそうですが、あれはノンケの発想ではありません。ダークダックスを超える精神的ホモの境地です。

 過酷な釜焚きで仙次がガス中毒に倒れるシーンをご覧ください。あのような危険な、そして間違いの許されない仕事を完遂してきた男達にが芽生えない方がどうかしています。ブラック労働云々とこの映画を批判する人の職場には絆がないのです。

 国鉄の評判を地に堕とした順法闘争の嵐の中にあっても集団就職の列車だけは定刻通りに通すという浪花節も彼らの誇りと絆を物語るエピソードです。

 これは裏切り者が出ると成立しません。しかし、自分達の汽車で通学する子供たち一人一人の成長をつぶさに見守って来た彼らにとって、子供たちの巣立ちを邪魔立てするような事は出来ないのです。

 所詮労働運動などはオプションに過ぎず、彼ら筋金入りのぽっぽやにとって何より大事なのは己の職務への責任と誇りであった証明です。赤旗などふんどしの代わりにもなりやしません。

 この映画はかようなる気高き男達の讃歌なのです。そこに健さんなどぶちこめばBLになるに決まっているのです。

吉岡×乙松

 追悼企画なのでオープニングはここからでしょう。けん×健というわけです。バカ殿にもホモネタは頻出していたので許してくれるでしょう。

 まずもって吉岡の筑豊の炭鉱夫というのが最高に美味しいシチュエーションです。

 何と言っても炭鉱は死と隣り合わせの女人禁制のホモソーシャルの聖域です。法律で女性の坑内作業が禁止されていたのですから、慣習で女を拒む歌舞伎や相撲さえ超えています。

 おまけに吉岡の歳から言えば、働き始めた当時の炭鉱は軍と強力に結び付き、ヤクザが仕切っていたわけです。そのうえ九州とくればそりゃあ炭鉱がハッテン場になるのは当たり前です。

 そして吉岡は妻に逃げられた過去があります。妹も連れて逃げたという敏行の言葉も意味深です。そして北海道に流れてきた理由が「死ぬまで炭が掘れる」という物です。

 炭鉱夫は当時としてはかなり高給で、転職を嫌がるのは分からないではありません。しかし、待遇改善の為にストをする本工を敵視しています。

 景気が悪くなったから切られるのは自分達だというのが吉岡の言い分ですが、その内心は変化を嫌がっているように思えます。

 つまり、吉岡は根っから炭鉱が好きなのです。閉山も嫌だし機械化も嫌、あの男だけの聖域で死にたいという願望がまず第一にあるのです。

 そんな吉岡が本工にいじめられるのを見過ごせない仙次と乙松。ぽっぽやも炭鉱夫もホモソーシャルの極致に生きる男なれば、見過ごせないのは当然です。

 その後吉岡と乙松はだるま食堂も交えて家族ぐるみの付き合いをするようになります。当然酒を酌み交わす事も一度や二度ではなかったでしょう。

 嫁さんに逃げられ、仲間外れにされた吉岡に優しく付き合う高倉健。ある日吉岡が寂しさを吐露すれば敏行が寝ているのを見計らって夜行列車が運行されるのは当然の流れです。何しろ機関車は石炭で動くのですから。

 吉岡亡きあと敏行を養子にしようとしたのも、炭鉱の流儀に則った美しき衆道の境地と言えます。

 炭鉱は後家さんが大量発生する反面、再婚は極めて容易だったとされています。何しろ男は無尽蔵に補充されるのですから。

 死んだ兄弟分の妻子を引き受けるなどという美談は腐るほどあったようです。当然、兄弟分が同時に元夫の後家であっても奥さんはOKです。衆道こそ男らしさの究極なのですから。ノンケなんて女々しいから女も願い下げというわけです。

 結局養子の話は流れましたが、敏行は乙松を父親同然に慕っています。開業するイタリアンレストランを「ロコモティーバ(機関車)」と命名するのは相当です。

 きっと店には吉岡と乙松の遺影と、乙松の遺した鉄道グッズが飾られる事でしょう。そして敏行はボローニャ仕込みのイタリアンと共に炭鉱夫とぽっぽやの美しき絆の物語を供するのです。これでオペラができます。

仙次×乙松(ほぼナマモノ)

 大トロはこれをおいて他なりません。本作はホモだホモだと週刊誌が書き立てたのですが、小林稔侍が健さんの小姓であるという噂は昭和の昔からあったのです。私は事実であったと信じます。

 大体いくら世話になったからといっても息子に健と名付けるなどノンケの発想ではありません。産んだ奥さんの立場がないやつです。

 二人は同期の桜であり、戦後鉄道史とともに生きてきた偉大なる無名戦士です。乙さん仙ちゃんと呼び合う仲です。

 仙次がガス中毒を起こした時の乙松の行動に二人の絆が観て取れます。なんと乙松は機関車を止めて仙次を介抱したのです。

 これはぽっぽやとしては許されない行為です。妻子の死に際してもぽっぽやであり続け、ぽっぽやとして死んだ乙松が唯一ぽっぽやを捨てた瞬間です。

 馬乗りになった乙松の介抱でどうにか蘇生して感情が爆発して泣く仙次。多分二人が特別な関係になったのはこの日の勤務明けでしょう。

 だとしても、ぽっぽや達はこれを咎めたとは思えません。ぽっぽやは誰しもぽっぽやである以前に男なれば、二人の美しき絆を否定する程野暮ではないのです。

 勿論二人とも良き奥さんがいるわけですが、彼女たちとて二人がいちゃいちゃしていても文句は言いませんし、仲良しです。ぽっぽやの妻は腐女子でなければいけないのです。なんなら嫁さん同士でデキていてもいいでしょう。

 きっと乙松は雪子が無事に成長したら秀男と引っ付ける気だったに違いありません。サンドウィッチマン、サイモン・ペッグとニック・フロスト、多くの実質ゲイカップルがやろうとしている事です。それは事実上の結婚なのです。

 え?『はいからさんが通る』ですって?蘭丸がノンケな時点で論外です。劇場版は両方ちゃんと観に行きましたけどね。

 仙次の正妻面はほとんど地です。幌舞育ちの後輩飯田(中本賢)が乙松さんと呼ぼうものなら「佐藤駅長と呼べ」とかまします。

 飯田とて二人が成長を見守ってきた子供たちの一人であり、後を継いでぽっぽやなった点で特別であり、なんなら二人の息子というべき存在なのに独占欲が暴走しています。

 もっとも、彼は乗り物は違いますが熟年ホモカップルを乗せるのには慣れているのでいいのでしょう。

 そして乙松の今後を話し合う為に駅を訪れた仙次と乙松は抱き合います。いくら仲が良くてもノンケは抱き合わないと思います。普通じゃないのです。

 酒を酌み交わしながら乙松が病気を持っているのを知っているのは仙次だけという美味しい事実も語られます。

 これはつまり乙松が仙次にだけ教えたという事です。これはもう死を恐れる乙松を仙次がなだめながらヤる展開です。

 二人が酒を酌み交わす光景は完全にゲイの夫婦です。なんならこの二人は地でこんな感じだったのではないでしょうか。

 酔い潰れてガス中毒の一件をフラッシュバックさせながら「ずっとお前と一緒に居てくれ」と吐露する仙次にのっかる乙松の姿。本作の最尊シーンですが、これはもう実質セックスです。

 乙松が上だから攻めというのはノンケややおい穴を信ずる人の発想で、ホモセックスは上がネコの方が多いのです。健さんはあくまで総受けです。小姓に掘らせる主君の何が悪いというのです?

 途中で第2形態雪子とのキスシーンなんてのも入りましたが、雪子の姿は仙次には見えません。BL的観点から言えば雪子は二人の子供なので見えてもいいと思うのですが、仙次は乙松がキスされたというので執拗に絡みます。

 あからさまなホモのジェラシーです。もっとも、後で仙次はそれが雪子だったと察してこの了見を恥じたと思います。だからこそ二人は尊いのです。

 吉岡との邂逅の回想シーンでも仙次ののぼせ上りぶりがうかがえます。吉岡がやられるのを見て乙松はあくまで敏行を守り、炭鉱夫に突っかかって行ったのは仙次なのです。

 これは任侠映画のエッセンスを感じます。ぽっぽやが刃物を持つ職業だったら炭鉱夫は斬られていたでしょう。小林稔侍の恩返ししたい欲の発露です。石炭だけに燃えますね。

 翌朝墓の掃除をしながら退職後の乙松の住むアパートを探しているというのに至っては流石に奥さんも嫌な顔をするレベルです。

 実現した暁には仙次は仕事をほったらかして入りびたるのは必定です。ホテルマンはゲイが多いので、仙次が男を囲っているという噂でホテルは持ちきりです。

 しかし、乙松が墓に既に自分の名前を彫っているのを観て思わず深刻な表情をする仙次。

 親子で乙松をどうにかしようと頑張った仙次ですが幌舞線の廃止は早まり、乙松の行先は決まらぬまま、乙松は雪子の感謝の言葉を聞き届けてホームに倒れ、ぽっぽやとして世を去ります。

 仙次を先頭に敏行や秀男ら事実上の二人の息子が制帽の乗った棺を官舎から列車に乗せて運んでいく時の仙次の悲痛な表情は泣かせます。

 そして仙次は同じく涙ぐむ飯田からハンドルを奪い取り「もう夢でしか会えんな」と言って乙松の制帽を被ってまもなくお役御免になるキハを走らせます。

 つまり、この期に及んでも夢で会う気満々です。半端じゃありません。

 キハの笛は泣かせると涙目で語る飯田に泣くうちはまだまだといいつつ涙ぐむ仙次。

 そしてエンドクレジットになりますが、止め(ラスト)が小林稔侍です。恩返しを果たした男の情念が雪の北海道を何処までも走っていく感動のラストという物でしょう。

 飯田はないがしろにされたようですが違います。これはぽっぽやの愛です。仙次が去った時、飯田は秀男とともに偉大なる二人のぽっぽやの愛の物語を語り継ぐ役目を負うのですから。

お勧めの映画

 独自の統計(主観)に基づきマッチング度を調査し、本noteから関連作品並びに本作の気に入った方にお勧めの映画を5点満点にて紹介し

『日本侠客伝』(1964 東映)(★★★)(恩返しされたい乙松)
『やくざの墓場 くちなしの花』(1976 東映)(★★★)(恩返ししたい仙次)
『釣りバカ日誌』(1989 松竹)(★★★)(飯田は熟年ホモを乗せるのが好き)

今までのレビュー作品はこちら

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