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【353日前】パラリンピックの意義について考える

パラリンピックの意義は何だろうか?選手としてそんなことを考える自分は変わり者なのか。

アスリートでありながら、障害者でもある。2つの側面を持つことで、自分はアスリートとして社会から評価を受けているのか、また障害者として社会から評価を受けているのか。そんな葛藤が日々繰り広げられ、複雑な世界観を生きている。

まず断言したい。
自分は障害者というラベルを剥がして、アスリートでありたい。パラアスリートではなく、アスリートでありたい。パラリンピックの世界で生きる上でも、ハイパフォーマンススポーツとしての評価を受けたい。

しかし、実際にはどうしたって障害フィルターがかかってしまうのはわかっている。純粋なハイパフォーマンスという視点で見ることは難しい。
障害がもたらすパフォーマンスの影響は確実にある。障害を持つという条件下では山の高さを競う前に、谷からのスタートであったことも事実である。

実際の私を例にして考えてみる。
2017年、走幅跳で7m15を跳んだ。これはその年の陸上の日本ランキング298位であった。しかし、パラ陸上の世界ランキングでは2位であった。心の中ではこのギャップがつらく、苦しい。
「自分はどこまでもアスリートなんだ。障害なんて言い訳だ。障害なんて関係ないんだ。」と言い切れればどんなに心が軽くなることか。

では、「自分はなぜパラリンピックで戦うのだろうか」そう自問自答を繰り返す。

答えはわからない。
しかし、自分の心に対してはアスリートでありたい。そう断言できる。

自分自身「障害を乗り越えた」なんて簡単には言えない。でも、パラリンピックで金メダルを獲ることで、自分は「障害に甘えなかった」と胸を張ることがきっとできる。銀メダル以下は、同じ境遇の人に負けてしまったことの証明になってしまうから考えていない。

私には、「金」しかいらない

障害を持ち、スポーツと出会ったこと。あらゆる選択肢の中で自分はパラリンピックの世界を選んだのだ。今の自分のすべてをかけるだけのおもしろさがあるだけで大きな意義なのかもしれない。

人の心を動かす、そんなチャレンジがしたいです。パラリンピックに向けた取り組みをぜひ応援よろしくお願いします!