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「パリに暮らして」 第11話

 ――貴腐ワインの甘い酔いの匂いにむせ返りながら、私達は部屋へ戻った。さんざん飲んで、さんざん喋って、大騒ぎの宴へと発展した会食がお開きになったのは、夜の十一時を回ってからだった。
 柊二さんは、今まで見たことがないくらい酔っていて、かろうじて歩けたけれど、右に行ったり左に行ったりしておぼつかなかったので、私が肩を貸して支えなければならなかった。フランス人の老夫婦は、流石さすがに顔を真っ赤にしていたがご満悦の様子で、二人とも自分の足で歩いて部屋まで戻って行った。

 柊二さんの腕を自分の首の後ろに回して、まっすぐ歩けるようにいざないながら、私は先刻のロベール・デュボワとの会話を思い出していた。アンヌ=マリーがあの漢詩を中国語で書いてくれないか、と頼み、中国語の漢字は自信がないから日本の漢字で良ければ、と柊二さんが応じて彼女がバッグから出した小さな手帳にそれを書いている間、ロベールが私に話しかけてきたのだった。

Qu’est se que tu fais?
「君は何をしているの?」

――Pour la vie?
「職業ですか?」  

Non, ici, au France.
「いや、ここフランスでさ」

 ロベールは言った。見たところ君達は夫婦ではないみたいだし、かと言って、顔が似ているわけでもないから家族でもないよね。いや、詮索する気なんてないんだよ、全然。気を悪くしないでおくれ、と、この老元脚本家は言った。
「どうか、気になさらないで下さい」
 私は言った。何とも言えない気分だった。確かに私達の互いへの接し方や距離感は、フランス人の目から見れば奇異に映っただろう。私達は到底とうていカップルのようには見えなかった。二人は手も繋がないし、私が嫌がるので柊二さんは私をエスコートもしない。特にこの旅ではそうだった。私達は無意識に互いに目を合わせるのを避けていたし、互いの間に生まれた溝を、冷めた空気で埋めながら一緒にいるようなものだった。気まずさから、私はロベール・デュボワには柊二さんとの関係のことを詳しく知られたくなかった。それで私は、彼の質問に直接答えることによって私個人のことに彼の気をらせようとした。
「旅人なんです、私」
 私は言った。日本を出て、世界各地を旅してみたいと思っています。――最初に思っていたより大仰な言い方になってしまったと気づいたが、それはワインの酔いのせいだったのだろうか。だが相手は行きずりの、外国人の、創造的な仕事をしていた、人生経験豊かな人物だ。少しくらいの誇張は許されるに違いない、そう思って私は続けた。

「私の旅の最初の地にフランスを選んで良かったです。ここはとても素晴らしい」
Merciどうも beaucoupありがとう.
 脚本家はにっこりと微笑んだ。
Mais, vous devez batailler, hein?
「けど君達、、は戦わねばならないんだろう?」
 彼はおどけたように小さくウインクをして見せた。あはは、と私は声に出して笑った。
Oui, je vais batailler.
「ええ、私はこれから戦うのです」
 頑張ります、と私は言った。目に力が入り、目尻が吊り上がってくるのを感じた。
「フランスの次には何処どこへ? もう決めてるのかい?」
 ロベールが聞いた。
「ええ」
 私は答えた。ワインの酔いや、好々爺こうこうやのロベールのかもし出す雰囲気のせいで、口が滑ったというわけではない。その時既に私にははっきりと自分の目的を明確にしようという意図があった。あるいは、言葉にして人に伝えることで、揺らぎそうな決心をもう一度奮い立たせようとしたのかもしれない。
「この後、チュニジアへ行くんです」
「ほほう、……」
 ロベールは感心したように私の顔を見た。
「一人で行くのかね?」
「ええ、一人で」
「お連れさんは連れずに?」
「ええ。彼はパリに残ります」
 首を傾け、自分の考えにふけるように視線を落としていってから、彼はまた目を上げた。
「とても美しい国だよ。私も妻と何度か行ったことがある。一生に一度は訪れる価値のある国だ。けれど十分気をつけてお行きなさい。君は女性だ。大きなリゾートホテルに泊まるといい。お酒も問題なく給仕してくれるようなね。そして我々のような西洋人がたくさん集まるような、……例えばナイトクラブとか、ホテルのロビーとかカフェなんかは避けるんだよ。いいかい、私の言っている意味がわかるね」

 よくわかる、と、私は大きくうなづいた。最近の世界情勢による治安の悪化は、パリに降り立った時から肌身に感じていた。いわゆる〝イスラム過激派〟と言われる人々の存在が、世界中にその影を落としていた。直近の例を言えば、1月にパリ市内の風刺新聞社で起きた襲撃事件は記憶に新しい。
 けれど、彼等の聖戦ジハードとはかけ離れたところにあるとはいえ、私の中にも戦いは控えていた。そして日を経るにつれ、それは現実味を帯び、段々とキナ臭いものになりつつあったのだ。

 柊二さんが、私がロベールに話したことを聞いていたかどうかはわからない。彼がアンヌ=マリーの手帳に漢詩を書きつけながら、こちらの話の内容を聞いていたという可能性はある。けれど、おそらく柊二さんは、聞きたいことを聞き、知りたいことを知るのだろう。私の方もしかり。全ては、私達の関係性次第だった。


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