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【縣青那の本棚】 異邦人 カミュ 窪田啓作 訳

ずいぶん昔、若い頃、20代の頃だったかと思うが、一度読んだことがある作品で、再読ということになる。

当時は一応通しで完読はしたものの、退屈な風景描写や淡々とした主人公の思考の流れの叙述があるだけの、面白くない小説だと思っていた。その上、このムルソーという主人公の男の生き方、考え方に全く同感出来ない自分がいて、「何だこの人?」と、むしろいらだたしく感じたほどだった。

ところが、歳月を経て読み返してみると、全く感じ方が違っていた。多分若い頃読解力の無さのせいで汲み取れなかった部分が汲み取れるようになったということなのだろう。だとすればこの30年余のつたない人生経験も、まあ無駄ではなかったと言えるのかもしれない。

今回の読書では、彼ムルソーの感じ方、考え方が飛躍的に理解出来るようになっていた。人間って変わるものだな、と、自分に驚いてしまうくらいだった。

主人公ムルソーは、一見、何ごとについても無関心、無感動な人間のようだ。母親の葬儀で涙ひとつこぼさず、恋人に「私を愛してる?」と聞かれれば、「それは何の意味もないことだが、おそらく愛してないと思われる」と答える。
だが一方、あまり評判のよろしくない、周囲からは〝女衒ぜげん〟と称されているレエモンという男と何の偏見も持たずにつきあうし、かさぶただらけの飼い犬をののしることが日常になっているサラマノ老人を見ても、他の人が言うように、それをみじめだと思わない。「それは何の意味もないことだ」というのがムルソーの口癖のようである。
思うに、彼は彼の周りの人間的なゴタゴタ・・・・・・・・に、全く思い入れを持たず、興味すら無いようなのだ。

ムルソーに関して、たった一箇所、ほんの一瞬だけ、人間らしい・・・・・ものを持っていることが垣間見られる叙述がある。
それは、職場の主人にある意味での栄転を持ちかけられる場面で、ムルソーはパリに出張所を設けて大商社相手に取引を結ぶ役目をやらないかと尋ねられる。
そうなればパリで生活することになり、また一年の何分の一かは旅をして過ごすことになるという。
主人は言った。「君は若いし、こうした生活が気に入るはずだと思うが」
それに対してムルソーは、結構ですが、実をいうとどちらでも私には同じことだ、と答える。
生活の変化ということに興味がないのか、と主人は尋ねた。それに対してムルソーはまた、誰だって生活を変えるなんてことは決してありえないし、どんな場合だって、生活というものは似たりよったりだし、ここでの自分の生活は少しも不愉快なことはない、と答えるのだった。
君の返事はいつもわきへそれる、と主人は言い、更に「君には野心が欠けている」と指摘されるが、その後ムルソーはこう思考する。

学生だった頃は、そうした野心も大いに抱いたものだが、学業を放棄せねばならなくなったとき、そうしたものは、いっさい、実際無意味だということを、じきに悟ったのだ。

新潮文庫『異邦人』カミュ 窪田啓作訳 p-45


ここに、かつてはムルソーも他の人達と同じように野心をいうものを抱いていたのだという事実が見て取れる。ということは、かつてはムルソーも、他の人達と同じように笑い、泣き、期待し、他人に対して判断を下していたのかもしれない。
どうも「学業を放棄せざると得ない」という社会の中での挫折を味わった時に、ムルソーは人間一般に対しての興味、関心を一切失ってしまったのではないか、という風に推察される。どういった事情で学業を放棄することになったのか、作中ではその詳細は語られないが、このことはムルソーという人間を理解するのに非常に大事なポイントであると、私には思えた。

後の裁判のシーンで検事が言ったように、ムルソーは〝インテリ〟である。学歴は無いかもしれないけれど、彼のもの言い、たたずまいも含めて、論理的にものが考えられない人間にはとうてい見えないというのである。
事実、我々読者も、ここまで小説を読み進めてきて、彼が独特ではあるものの、しっかりした感性を持ち、思案的で、いつも目の前のものごとを真正面からとらえて、それについて思考を巡らしている人間であることにはある程度気づいている。だとすると、学業というものは、もしかしたら彼にとって何ものにも代え難い価値を持つものだったのではないか、という風に思えてくる。

教科書を、紙を、ペンを、知的好奇心を追求する為の時間と場所を奪われた後、彼は抜き差しならぬ状況の中で、果てしない虚無感に陥ったに違いない。
それから彼の知性はどこへ向かったのだろう。「野心など、そうしたものはいっさい実際無意味だと、じきに悟った」というのは、やや強がりのような響きを帯びている。夢破れた者の、社会的成功者に対するねたみ、ひがみ、そねみからくる、すねた態度のような色合いも感じられる。
だがそれは、それ以降も人生をつむいでいかねばならなかった彼の、自己防衛策だったのだろうと思う。社会的な人間的な悲喜こもごものものから一切身を引くことに決めて、彼は自分の〝内〟にこもっていったのではないだろうか。最初は無関心なふりを装っていたら、段々と感覚が麻痺して本当に何ごとにも興味を持てなくなってしまったのか、それとも全てひとつひとつのものごとを、彼なりに長い時間をかけて探求し尽くした結果、真実・・として――例えば恋愛において自分が相手の女性を本当に愛しているかどうかといったことや、母親の死に際して涙を流すということ、母親の享年を知っているということ、その死の後しばらくの間は喪に服すべきであるということ、哀れな人生を送っている老人を見てみじめなものだと感ずるということ――そういったこと全てが、〝何の意味もないこと〟だと悟るに至ったのだろうか。

ただ、この小説を通じてずっと表現され続けていることがあって、そのことのせいで、私はムルソーをただの人格に欠陥のある犯罪者として片づけてしまうことが出来ないのである。

ムルソーは、母親の葬式に出向いた時、母が入っていた養老院のある土地の風景を美しいと思う。葬式を終え、アルジェの自分のアパートに戻ると、バルコニーで椅子に座って、眼下に展開する街の風景を、人々の動きを、日が暮れるまで、気がつけば首が痛くなっていたというほど夢中になって眺めている。恋人のマリーの日焼けした顔を見て〝花のようだ〟と思い、縞模様のローブ姿に欲望を感じる。
ムルソーは、あらゆることに〝無関心〟かもしれないけれど、〝感性の無い人〟では全くないのだ。むしろ、一般的な人間よりもずっと感性の豊かな人と言っていいかもしれない。その証拠に、彼はいつでも太陽を愛していたし、海に入って泳ぐことを好んだ。刑務所に入ってからも、格子の間から顔を突き出して光を求めたり、海岸から流れてくる潮風の匂いに慰めを見出したりする。
極めつけは、小説の最後のシーン。司祭に対して憤怒を爆発させた後、精根尽き果てて眠りに落ち、また目覚めた時だ。

私は眠ったらしかった。顔の上に星々のひかりを感じて目をさましたのだから。田園のざわめきが私のところまで上って来た。夜と大地と塩のにおいが、こめかみをさわやかにした。この眠れる夏のすばらしい平和が、潮のように、私のなかにしみ入って来た。

新潮文庫『異邦人』カミュ 窪田啓作訳 p-126

そして、私もまた、全く生きかえったような思いがしている。あの大きな憤怒ふんぬが、私の罪を洗い清め、希望をすべてからにしてしまったかのように、このしるし、、、と星々とに満ちた夜を前にして、私ははじめて、世界の優しい無関心に、心をひらいた。

新潮文庫『異邦人』カミュ 窪田啓作訳 p-127


何という美しい表現文だろう。この小説の中で私の一番好きな箇所だ。
ここにムルソーの人間の全てが集約されているようにさえ思う。そう、彼は自然を愛していた。海が大地が潮風が星々が、最終的には彼の仲間だった。彼に何も要求せず、何も強制せず、彼を決めつけて裁くこともない自然の〝優しい無関心〟に、彼ははじめて・・・・〝心を開く〟。そして、「これほど世界を自分に近いものと感じ、自分の兄弟のように感じると、私は、自分は幸福だったし、今もなお幸福であることを悟った」とムルソーは言う。

彼がなぜ抑えきれない憤怒を覚え、息もつかせぬ長広舌で司祭をののしり、司祭の目に涙があふれるまで激しく拒絶したのか。それは司祭が、お定まりの神への愛と良心とを振りかざして、やっとムルソーが手放しかけていたあの例の人間社会のごたごたを――それは、罪の償いをしていわゆる真人間になり、もう一度、〝人間らしい生き方〟が出来るよう努力する、ということだろうか――また彼に押しつけようとしたからだと、私は信じる。また司祭はムルソーに神の顔を見させようとしたが、これも結局ムルソーにとっては押しつけであることに変わりはなかった。

人間の社会というものが、いかに人間自身をさいなんでいることか、と考えさせられる。
私達はお互いに、自分の価値観を押しつけ、何かを期待し、それが叶わないと怒り嘆き、また社会から押しつけられた既存の規律(例えば法律とか、常識とか)によって人を判断ジャッジする。そんなものにさいなまれないところに、ムルソーは突き抜けて行ったのだ。


――追記――

ムルソーは自由だった。少なくともその精神において、彼はいつでも自由だった。

彼は自分を取り巻く世界を愛していた。太陽の光を浴び、海の水を肌に感じ、恋人の体を抱く感触を味わった。
アラビア人を撃った後、なお続けて4発撃ち込んだのはなぜか理解することはとても難しいが、おそらく世界の感触・・・・・を、確実に確かめる為であったのではなかろうか? ??(太陽で頭がぼんやりしていたし)
やはり理解するのは難しい…… 反射的に? ということか?


――追々記――

なぜ、銃弾は1発ではなく、計5発・・・撃ち込まれたのか――?

おそらくムルソーは、自分の生活に、自分の周りの世界に、現実感を感じることが出来なかったのではなかろうか?

――そして、それを感じることが出来たのが、あのアラビア人を撃った瞬間だったのではないだろうか?

1発目は偶発的に。つまり、撃つつもりはなかったのだが、相手がナイフをちらつかせて攻撃してきそうに感じた為、反射的に撃ってしまった。
……それから、2,3,4、5発目は、引き金を引く時の感触に、その込めた力に、手ごたえ・・・・というか、あるソリッドな現実味を彼は感じたのではなかろうか?

なぜかふと、そう思った。

撃ち込まれた5発の銃弾の意味についての最終的な考察

ムルソーが、1発目の銃弾の後に続いて4発撃ち込んだ理由についてずっと謎だったのだが、また自分なりに考えてみた。

これは小説である。それも、哲学者アルベール・カミュによって練りに練られて書き上げられた珠玉の一作なのである。であるからには、ムルソーが放った銃弾が何故1発に留まらず、さらに4発続けられなければならなかったかということには、やはり重要な意味が籠められているのではないかと思う。

そういったわけで、これら5発をえて象徴的にとらえるなら、以下のようになるのではないだろうか。

1発目は、おそらく純粋に〝はずみ〟。太陽がまぶしくて、頭がクラクラしたせい。
レエモンから預かったピストルを手にし、なおかつアラビア人は匕首あいくちを抜き、自分に向かって身構えた。こんな一触即発の緊張感の中では、ほんの少しの刺激で悲劇は起こりかねない。

そのとき、すべてがゆらゆらした。海は重苦しく、激しい息吹いぶきを運んで来た。空は端から端まで裂けて、火を降らすかと思われた。私の全体がこわばり、ピストルの上で手がひきつった。

新潮文庫『異邦人』カミュ 窪田啓作訳 p-63

アラビア人の持つ匕首が太陽を反射してキラリと光った時、同時に眉毛にたまった汗が目の中に流れ落ちた。
その偶然の重なり、それだけが、生体の反射としてムルソーにピストルの引き金を引かせたのではないか。

2発目は、ナイフをちらつかせたりして生命を脅かされた/自分に脅威を与えた相手に対しての、おそらくは直接的な怒り/憎悪から。

3発目は、自分が今のような状態になった根本原因である社会の中での挫折、「学問を諦めなければならなくなった」出来事に対しての悔しさ、怒りから。

4発目は(私はこれが最も重要だと考えるのだが)、それまでそこからは退いていた、一歩下がって透明な壁越しに全てを眺めていたといった感じの〝現実世界〟との〝繋がり〟を、ムルソーが取り戻した瞬間なのではないかと思う。手応えのある、ソリッドな現実感を、その時初めてムルソーは手に入れる。
皮肉なことだが、自分を取り巻く世界をムルソーがリアルに触れられる現実として捉えられるようになったのは、ピストルの引き金のしなやかな感触とそれに続く発射の轟音ごうおん、そして銃弾がもう死んでいるアラビア人の体に食い込む音によってだったのだ。

そして最後、5発目は、おそらくだが、〝神〟によって代表されるものへの怒り。もしくは、〝神〟とか〝秩序〟とか〝常識〟とかといった、(ムルソーにとっては)周囲の人々が勝手に考え出し作り上げた既存のルール、目に見えもせず、心に響きもしない、個人の考えや感性を無視して押しつけられる、虚飾に満ちた人間達の営み(それを普通社会と言うのだろうか)。
そういったもの全てへの怒り、そしてそれに挑戦するかのような、不遜ふそんな気持ち。
そんな思いが込められていたのではないかと思うのだ。

乾いた、それでいて、耳をろうする轟音ごうおんとともに、すべてが始まったのは、このときだった。私は汗と太陽とをふり払った。昼間の均衡と、私がそこに幸福を感じていた、その浜辺の異常な沈黙とを、うちこわしたことを悟った。そこで、私はこの身動きしない体に、なお四たび撃ちこんだ。弾丸は深くくい入ったが、そうとも見えなかった。それは私が不幸のとびらをたたいた、四つの短い音にも似ていた。

アルベール・カミュ『異邦人』p-63


誰にどんなことを言われても、大抵は「それは何の意味もないことだ」で片づけてしまう、徹底して〝受け身〟の姿勢で生きてきたムルソーが、初めて能動的な行動を起こした瞬間でもあることには殊更ことさらに注目しておきたい。


アルベール・カミュ(1913-1960)

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