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【怪談】 ゲンうし

これは、私の田舎で語り伝えられている話です

明治か大正時代のころの話だということですが

田舎の集落で一番裕福な家のおじいさんが

ある日、牛を飼い始めました

海辺に面した私の田舎は小さな漁村で

家畜を飼っている人はほとんどいませんでした

牛を飼い始めたおじいさんの名はゲンゾウといったので

誰が言い出したのか、集落の人々は

その牛のことを〝ゲンうし〟と呼ぶようになりました

牛小屋は人通りの多い道に面していたので

暖かい日は小屋の外の草場に出て日光浴する牛たちを

人々はほのぼのとした目で眺めていたそうです

そう、あの日までは……


それは、朝から薄曇りの天気で

日が暮れても月が雲間に隠れ、暗い晩でした

真夜中過ぎごろ、漁に出ようとした漁師が

偶然ゲンさんの牛小屋の前を通りかかりました

暗い牛小屋の中から、強烈に生臭い匂いがしてきて

見ると、どうも牛たちが騒いでいるようでした

時折バキッ、グシャッと木の枝をひしゃぐような音が聞こえます

しばらく聞いていると、他に何か鈍い音がするのに気づきました

それは変に重量を感じさせる音で、不規則な間隔をあけて

何かがもがくように全身をばたつかせているようでした

すると突然〝それ〟はこちらに向かってきて

正面の壁にドン! とぶつかりました


……そのとき確かに見たのだ、と

のちに漁師は語ったそうです

それは確かに人間の目だった、と

それも顔の半分は無くなった〝元人間〟の

断末魔の片目だった、と


しばらくすると、妙な噂が広がり始めました

ゲンさんの息子のひとりが行方不明になっているというのです

ゲンさんには3人の息子がいたのですが

次男の姿が、もう長いこと見られないというのです

ゲンさんが引退した後は長男が跡を継いでいましたが

虚弱体質だった次男は定職に就くこともなく

40歳を過ぎても家にいてぶらぶらしていました

そんな次男を見かねたゲンさんが

牛の世話をさせて給料をやっているという話でしたが

いつからか、まったく姿を見なくなったというのです

ゲンさんの気質をよく知っている集落の人々は

暗く重い気分に沈んでいきました

ゲンさんは寡黙でしたがその分恐ろしく頑固で

何か気に入らないこととがあると突然癇癪かんしゃくを起こして

人が変わったように残虐になるところがありました

それはゲンさんの家に代々伝わる気質で

集落の人間がとばっちりを受けることもしばしばでした

ある者はいきなり棍棒で殴られたり

またある者はナタを持って追いかけられたりと

何の前触れもなく豹変するゲンさんに

人々は底知れぬ恐怖を抱いていたといいます

集落一裕福な家のことに口を挟むこともはばかられ

人々はその後、口をつぐみました

そして結局次男の消息はわからないまま月日は過ぎ

いつの間にか三男が牛の世話をするようになっていました

いったん口をつぐみはしたものの

集落では、次男について色々な憶測が飛び交いました

どこか、町で就職先を見つけて出て行ったのだろう

という説が優勢でしたが

それは、人々のそう思いたいという願望を

反映したもののように思われました

漁師はあの晩に見た光景を忘れられませんでしたし

漁師から話を聞いた人々は、自分の頭の中でこしらえた、

恐ろしく陰惨なイメージにとらわれていました

……あの働かん次男が仕事をさぼったんじゃろう

何か、じゃあそれでゲンさんがキレたちゅうんか

しかし、いくら何でも息子をそげなことするか……?

ゲンさんならやりかねん

けど、牛がマグサ以外のもんを……

やっぱ牛も腹が減り切っとったら、のう……

何日エサをやらんかったんか知らんけど、そらのう……

確かめようのない話があちこちで囁かれました

そしてその全てがある1つのイメージに集約していくので

誰も〝ゲンうし〟を前のような目で見ることが出来なくなりました

人々はゲンさんの牛小屋の前を通ることを避けるようになり

いつしかゲンさんの家の話をすることも避けるようになりました


それから年月が過ぎ、ゲンさんが亡くなると

家人が手放したのか、いつの間にか牛もいなくなりました

それでもその話だけはずっと語り継がれ

何十年も前に崩れたゲンさんの牛小屋からは

月の無い晩には、不規則な間隔をあけて

何かが身をよじってもがく音が聞こえてくるそうです


ゲンさんの次男の末期の苦しみは

幾つもの時代を経た今もまだ続いているのでしょうか

そう思うと、恐ろしくてなりません



昨年この言い伝えを聞いて以来、私は故郷に帰っていません

そしてこの先も、帰るつもりはありません

なぜなら、ゲンさんのまごに当たるうちの父親が

最近牛を飼い始めたと聞いたからです




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