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【長編小説】 抑留者 4

 その日の夕食を運んでいったとき、祖父はもう平常心を取り戻していた。昼間に見せた姿をとんでもない醜態と恥じるかのように、黙々と時絵の引いた刺身に箸を運び続けた。
「尚、いでくり」
 ただその晩は、いつもに増して尚文に酒を注ぐことを要求するのだった。午後のあいだにしこたま焼酎を飲んでいるのはその呼気の匂いからわかり切っていたのだが、今夜はなぜか酒を控えさせるという気になれなかった。尚文は一升瓶から祖父の茶碗に日本酒を注いでやった。
 刺身と白いご飯をさかなに、三杯目の酒を空けたころ、祖父に異変が起こった。
 祖父は背後の壁にぐったりと寄りかかり、力なく手足を投げ出した。今朝そうしたように、辛そうに顔をしかめて涙を流したかと思ったら、そのままピタリと動かなくなった。
「じいちゃん……」
 対面する尚文は慌てた。毎日のように酒を飲んでいても決して乱れた姿を見せることのなかった祖父が、まるで壊れた操り人形のようなていになっている。
 どうしよう。鉄雄と時絵に知らせに走ったほうがいいか。それとも救急車を呼んで病院に運ぶべきか。尚文の頭のなかで、さまざまなシチュエーションが駆け巡った。
 だがそのとき、突然祖父が頭をもたげた。目を開けると、またいままでに見たことのない光が瞳に宿っていた。
「あの葉書をくれた山本はの、最初から最後まで、ずっと俺と一緒やった男よ」
 祖父が言葉を発したので、尚文は少し安心した。急いで台所に走り、コップに水を注いで戻ってきた。
 〝最初から最後まで〟というのは、徴兵されてからシベリア抑留を解かれ、帰国するまでずっと同じ集団にいたという意味なのだろう。言葉足らずな祖父の発言を、推測で補っていく。
「戻ってからはずうっと連絡も取りよらんかったが……。あいつがいまも生きちょったとはのう……。奇跡じゃ」
 今朝葉書を読んだときの感情が再び戻ってきたようで、コップの水を飲んだ祖父は、顔面をくちゃくちゃにして笑った。かと思うとその勢いのまま、今度は床に突っ伏して号泣し始めた。明らかに、心のたがが外れていた。
「皆のう、一緒に連れて帰っちゃりたかったのう」
 九十六歳の祖父が、まるで子どものように泣きじゃくる。シベリア抑留のあいだに命を落とした数多くの戦友たちのことを言っているのに違いなかった。祖父がそんな風に感情をあらわにするのを見るのは初めてだった。尚文は、見てはいけないものを見てしまったような気持ちになったが、祖父の泣く声を聞いていると、思わず喉の奥が熱くなった。
 やがて、落ち着きを取り戻した祖父は、小さな声でぽつりぽつりと語り始めた。

 昭和二十年三月、根こそぎ動員による召集を受けた祖父は、短期間の訓練を受けたあと満州に送られ、陸軍第一三五師団第三六八連隊に配属された。出征前、祖父は二十歳で、漁師の見習いをしていた。
 連隊の仲間は皆、祖父と同じ二十歳前後の若者ばかりだった。浦からの出身者も、祖父のほかに四、五人いたという。
 連隊の任務はソ満国境の警備だった。満州の最東部に当たる虎林から東安の辺りで陣地構築などに精を出した。八月九日にソ連軍が日ソ友好条約を一方的に破棄して満州に侵攻したことを受け、十日からは東安を出発して勃利、林口へと南西に転進した。ソ連軍の追撃に怯えながら、祖父たちは上官の指示に従って、黙々と移動を続けた。
 そして、とうとう一度も敵と実戦を交えることなく、八月十五日の終戦を迎えた。
 ソ連兵の姿を初めて見たのは、林口に到着してすぐ、終戦を迎えて三日後のことだった。連隊長のさらに上の階級である少佐が現れ、「日本に向け撤収するから、身の回りのものをまとめて準備するように」と言った。やった、日本に帰れる、と、皆で喜んだ。
 命令のとおりに作業していると、牡丹江駅に向かって行進するよう号令がかかった。祖父たちは、持てるだけの荷物を持って、駅までの道を歩き始めた。
 だが歩き出してすぐ、急に隊列を止められた。何かと思ったら、大柄なソ連兵が目の前に立っていた。ソ連兵は、体に似合う大きな声で、何かわめき立てている。全員の目が、連隊長に注がれた。しばらくソ連兵と満州に来てから覚えたカタコトのロシア語でやり取りしていた連隊長は、こちらを振り向くと、大きく息をつき、肩を落としてこう言った。
「武装解除だそうだ」
「そのときのことやった」
 と、祖父の声色が少し変わった。まるでその情景をありありと思い出しているかのように、祖父の視線は虚空をさまよっていった。
 ――武装解除されたあとな、ソ連兵が「ダモイ、トーキョー」って言うた。「日本に帰る」っていう意味よ。そのとき武器をみんな置いた道端で、ふと振り向くと、びっくりしたのう、何でそれまで気がつかんかったんか、道の上にはまっこと向こうの果てまで、長え長え日本人の列ができちょった。それが、よう見ると女と子どもと年寄りだけよ。兵隊の現地召集があったきい、男たちは皆兵隊に取られて、満州に住んじょった日本人で残されたんはその親と嫁さんと子どもたちだけやったんよの。「ダモイ、ダモイ!」って言うて、ソ連兵は俺たち兵隊だけをまとめて歩かせ始めた。「この人たちも一緒に連れて帰ってやりたい」そう思うたけど、銃を突きつけられてどんどん前へ進められる。もちろん俺ども兵卒は、軍に属しちょるわけやきい、勝手な真似は許されん。どんなに助けてやりたいと思うても、その人たちに何もしちゃあやられんのよ。ある女と、まだ一歳ぐらいの赤子んような男の子が目に止まった。それが、どうにも可哀想でのう……。身内っていうわけでもねえにい、何でかのう、不安そうにうつむいた所作しょさやら、しょげてしもうてどうにも心細そうな様子を見ちょるとの、何でか、ああ、俺はこの人たちを置いて行くんよのう、ひでえことをしてしまうのうって、まるで自分がこのことをし起こした、、、、、ような、そげな思いがしたもんよのう。
 やあけソ連軍に列車に乗せられて――それも粗悪な貨物車じゃった――、日本の方向とは真反対のほうに列車が曲がっていくもんやあけえ、ああこら騙されたってわかったときも、これはあのときあの奥さんと子どもたちを助けてやらんかった自分へのばち、、じゃと思うて、妙に納得がいくような気がしたもんよ。もちろん悪いのはソ連軍よ。でもな、何でかあのとき俺はそげな風に思うたんよのう……。やっぱのう、あげえ心細そうにしちょる女と子どもを置き去りにするっていうのはのう……。
「もたん」と絞り出すような声で言うと、祖父はがっくりとうなだれた。そしてこう言った。
「鉄雄の嫁さんとの、涼太が一緒におる姿を見るとの、俺は駄目なんじゃ……。あの母子おやこをどうしても思い出してしまうんよの」
 満州に残された婦女子がその後辿たどった運命は、いまは世間に広く知られている。ソ連軍が侵攻するなか、軍の保護も受けられずその場に捨て置かれた人々は、女はソ連兵から強姦され略奪され殺害され、幼い子どもたちもその場で命を落とすかその後何十年にも渡って人生を翻弄される残留孤児となった。終戦当時に中国東北部の人々が日本人に対して抱いていた感情のことを思うと、困難な目に遭うことなく大人に成長した孤児はまれ、、だと想像して難くない。
 祖父が祖母の亡くなったあと、母屋を離れた理由がわかった気がした。それはちょうど、涼太が一歳を迎えるころだった。祖母が生きているあいだは一緒に曾孫の成長を喜んでいることもできたが、ひとりになったとき、祖父は過去の記憶に正面から向き合わざるを得なくなったのだろう。そして、時絵と涼太の姿は、段々と満州に置き去りにされた母子のイメージと重なっていったのだ。

 ――翌日、昼過ぎに電話がかかってきた。たまたま母屋にいた尚文が受話器を取ると、島根県の山本不二男さんからだった。
「突然お電話いたしまして、まことに申し訳ありません」
 電話口から、矍鑠かくしゃくとした声が聞こえてきた。昨日の葉書にあった九十五歳の超高齢者にしては滑舌もよく、全体的に溌剌はつらつとしていた。
「もし、ご迷惑でなければ……」
 用件は、もし可能であれば、祖父とインターネットを通じて対面したいというものだった。驚いたことに、山本さんは八十になった年から独学でパソコンの勉強をし、いまでは個人ブログを立ち上げてシベリア抑留時の自らの経験について発信をするまでになっていた。実は、祖父のことを知ったのも、この浦に住む誰かが山本さんのブログを見て、情報をくれたお陰だったのだという。その人が、この家の電話番号も教えてくれたのだそうだ。
 葉書に重ねて電話までかけてくるとは。それほど祖父との再会を望んでいるとなれば、協力しないわけにはいかない。尚文がスカイプのソフトをお持ちですかと尋ねると、もちろんといった返事が返ってきた。ブログの読者と交流するのに使っているのだという。
 電話を切ると、尚文は自分の部屋に行って、ノートパソコンを取り上げた。そしてそのまま祖父の庵へと急いだ。庵にはネットの設備はないが、幸い、何とか母屋のWiFiが届く圏内だった。山本さんが教えてくれたアカウントを入力し、スカイプを繋ぐ。
 いったい何をしているのかといった顔で呆然と尚文のすることを見ていた祖父の目の前で、パソコン画面の上に、山本さんの顔が現れた。
「広瀬さん」
 スピーカーから、山本さんの声がする。祖父は弾かれたように、画面に釘付けになった。
「山本君。山本君か」
 一兵卒同士ながら、年齢が一つ違いということで微妙な上下関係のあったらしい二人は、当時のままの互いの呼び方で呼び合った。そしてそれから、同時に言葉にならない声を上げた。まるで互いに画面の向こうに飛んでいって、抱き合わんばかりだった。
 九十代の老人たちが、驚くほど闊達に会話し始める。それはまるで、少年のようなはしゃぎようだった。こんなに元気な祖父の姿を見るのは初めてだった。
 会話のなかには、しょっちゅう尚文には意味のわからないロシア語が交じった。ラーゲリ、ヤポンスキー、ダワイ、シューバにタポール、ニハラショー……。カンボーイやカマンジール、カーシャ、ハラショーラボータ、そしてプラウダ……。笑いながら二人とも、涙を流し続けていた。
 
 それ以来、毎晩夕食の際に、尚文は祖父のシベリアでの話を聞くことになった。旧友との再会によって七十三年の封印を解かれた祖父の口からは、次々と当時の出来事が語られ始めた。
 祖父たちが連れていかれたのは、モンゴルとの国境に近いガラドックという町だった。到着したときは十一月になっており、もうすでに雪が積もっていたのを覚えているという。
 強制収容施設は〝ラーゲリ〟と呼ばれ、祖父たちは二十人ずつ、粗末としか言いようのない、板張りのすきまだらけの建物に入れられた。
 そこでの労働は、鉱山採掘と木の伐採だった。祖父は体が大きく力も強かったので、伐採のほうに回された。毎日山に入って直径一メートルもある太い木を切り倒し、枝を払って四十~五十センチぐらいの長さに切り揃える。それをゴロゴロ転がして簡単なそりのようなものに乗せ、山から引き下ろしていく。二人一組で作業し、ノルマは一日三本。口で言うのは簡単だが、すべての作業を人力で行うそれは、相当の重労働である。
 それを、ごくわずかな食料しか与えられない環境で毎日こなさなければならなかった。食事として支給されるのは、朝は片手に乗るぐらいの小さなパンと、ほとんど具のない塩味のスープ、昼と夜は燕麦や小豆など、穀類の粥だけ。パンは一応一人一日三百グラムと決まっていたようだが、ソ連の監視兵は労働の様子をちゃんと記録していて、成果が上がっていない班には食料の供給を控えるようなことをした。その上で、収容所長が全体の食料を着服しているという噂もあった。
 あっという間に本格的な冬が来て、信じられないほど寒くなった。寒さをしのぐための衣類は支給されたが、簡素な綿入れのみで、氷点下二十度を下回る気候に耐えられるものではなかった。
「じゃあけ、皆、必死で動いたわな。体を動かしちょかんと即座に死ぬ。それぐらいの気持ちで、作業をしてないときでもこんな風に始終手足を動かしよった」
 祖父は立ち上がって足踏みし、手をばたつかせて見せた。それだけの動作でも、確実にカロリーは消耗するはずだった。とぼしい食料しか摂っていないのに、そんなことをしていては消耗に拍車がかかるばかりであるが、それ以外にどうしようもなかったのだという。
 もちろん、日本式の風呂などというものは皆無。年に数回だけ、桶に一杯ほどの湯が配られ、半分で何とか体を洗い、残り半分で洗い流した。洗濯などはまず望むべくもなく、やがて支給された衣服に南京虫が湧いた。皮膚を嚙まれると痒くて気が狂いそうになるので、夜になるとドラム缶に火を焚いて、交代で服の裏側をあぶった。火に炙られると、布地にしがみついていた南京虫は死んでボトボトと炎のなかに落ちる。
「それが俺たちの洗濯やった」
 と、自虐気味に笑いながら祖父は言った。
「ほんに色々のう、色々あったわ」
 食事の乏しさは本当に辛かったが、祖父にとってそれよりもこたえたのは、仲間の死だった。数日をかけて弱っていく者の様子はもちろん手に取るようにわかっていたけれども、誰も何もしてやれなかった。下痢していようが風邪を引いていようが、熱が三十八度以上なければ病人と認められなかった。その基準を満たさないばかりに病院に入れてもらえず、労働を免除してももらえず、どんどん衰弱していく仲間たちがいた。真冬の寒さと栄養不足が、その衰弱に拍車をかけた。だがその姿を見ていても、どうすることもできなかった。ひとりひとりが皆、自分の食べ物を手に入れるために、懸命に体を動かすしかなかった。
 すると、とうとう力尽きた者が、朝起きると冷たくなって動かなくなっている。食事中、スプーンを持ったままこときれた者もいた。そうすると、監視兵が来て、疲労困憊の祖父たちに、死体を土に埋めろと言う。穴を掘ろうにも、真冬のシベリアでは、凍てついて固くなった土はシャベルを弾き返す。
「そんときがのう、一番せんなかったわのう」
 祖父の頬の深い皺に、涙がにじみ渡る。祖父はてのひらで涙を拭い、掘っ立て小屋の内部を見回した。
「この建物は、ラーゲリに似ちょるんよの。ここにおると、あのときの仲間と一緒におられるような気がするんよ」
 死んだ者のことを思い出すと、ぬくい畳の上によう寝らんのよ、と祖父は言った。


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