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私にとって小説とは ー絵本読みから小説書きに至るまでの軌跡ー

 ここ最近、毎日1話、小説を投稿している。

 読んで下さった方、本当にありがとうございます! スキしていただいているのを見つけると、ドキッとして胸がジ~ンとします。

 さて、今回は、自分にとって小説とは何かということについて書いてみようと思う。初めて小説と呼べそうなものを書いたのは中学生の時だったと思うのだが、最近この小説を書くということが、人生においてたった1つ止めずに続けてきたことだということに気づいた。これまでの長い道のりの途中で、書くことを一切止めていた時期もあったのだが、やはりどうしても「書きたい」という欲求が起こってきてしまって、この〝世界〟に戻ってきてしまったのだった。

物語好きの原点

 私にとって小説とは、読むのも書くのも大好きなものだ。でも、なぜそこまで好きなのだろう? ちょっと考えてみた。
 ここでちょっと、〝小説〟というのを〝物語〟と言い換えてみようか。そうするとよりスッキリと自分の原点に戻れる気がするのだ。
 私は幼児期から物語が大好きだった。
 小学1、2年の頃、毎晩祖母と寝ていたのだが、寝る前に必ず絵本を読んでもらっていた。子供向けのおとぎ話を毎晩1冊読んでもらうというペースだったのだが、その中で最も鮮明に覚えているのがアンデルセン童話の『マッチ売りの少女』という話だ。

初めてのお気に入りの絵本

 幼児向けのかわいらしいタッチの挿絵がページいっぱいに描かれていて、マッチを売って生計を立てる身寄りのない少女の悲哀が描かれていた。これが私の記憶に最初に登場する物語だ。何でそんなに好きだったのかわからないのだが、よほど好きだったのだろう、祖母や母が言うには、私はそのお話を一字一句正確に暗記して、祖母に話して聞かせていたらしい。

 だが一字一句暗記した割には、当時私はまだその話の悲惨さを全くわかっておらず、少女がお金持ちの家の窓越しに見えるクリスマスのごちそうやプレゼントを見つめるシーンの、いかにも温かいタッチで描かれた何とも美味しそうなローストチキンやテーブルの上の綺麗な燭台、クリスマスツリーやその飾りつけなどばかりに目を奪われていた。もう少し成長してからそのストーリーをきちんと理解出来た時、雪の中両親も無くきょうだいも無く、住む家も無く今日食べるものさえも無いという少女の境遇がリアルにわかって、ああどんなに寒かっただろう心細かっただろう怖かったろう……と胸が苦しくなったものだ。

 その後、母親が買ってくれた『小学館 国際版 少年少女世界童話全集』という、グリムやアンデルセン童話などを集めたちょっと高級感のある絵本全集を夢中になって読んだ。A5サイズほどのハードカバーの立派な造りの本で、赤色の地の表紙に金色のインクでその巻の代表的な童話の題名と挿絵が描かれていた。『白雪姫』を初め『ピーター・パン』、『ながぐつをはいたねこ』、『サンドリヨン(シンデレラ)』、『金のがちょう』、『アリババと40人のとうぞく』など、メジャーどころの童話はほぼ全て入っている豪華版の全集だった。
 私は物語に付いている挿絵が大好きで、それらの絵は今も目を閉じれば脳裏に鮮明に浮かぶほど印象に残っている。特に『ピーター・パン』の挿絵は素晴らしく、あの全集のことを思い出す時必ず真っ先に頭に浮かぶのはその挿絵だというくらいだ。

絵がとても好きだったピーター・パン


絵本から漫画へ


 絵本から挿絵付きの童話を経て、成長するにつれ、私は漫画を読むようになった。実を言うと当時実家が本屋をやっていた関係で、漫画・小説・週刊誌月刊誌、よりどり何でも読み放題だったのだ。

 今考えると贅沢過ぎる環境だったな……とつくづく思うのだけれど、学校から帰ると宿題もせず、まず店に下りて漫画を選び、部屋に持って上がって読みふけった。少女漫画は勿論、少年漫画もギャグ漫画も歴史漫画もホラー漫画も、ジャンルを問わず貪欲に、手当たり次第読んだものだ。
 あまりにも沢山の種類を読んだので、どれが一番好きだったかとかどれが一番印象に残っているかというものを、これと絞って挙げることが出来ない。

 でも、それを強いて無理くり・・・・挙げるならば、

『源氏物語』を初めて視覚化した作品なのでは


『あさきゆめみし』大和和紀 ←1巻でいきなり泣いた(光源氏のお母様が亡くなる場面)
『王家の紋章』細川智恵子 
『パタリロ!』真夜峰夫 
『キン肉マン』ゆでたまご
『キャプテン翼』高橋洋一  
『デイモスの花嫁』あしべゆうほ 
『エロイカより愛をこめて』青池保子 
『原色の孤島』『臓六の奇病』『恐怖!四次元の町』など日野日出志のホラーシリーズ 
『恐怖館のシンデレラ』『呪われた変身』『私は地獄の島を見た』など森由岐子のホラーシリーズ
『ミイラの叫び人喰い屋敷』さがみゆき
『漂流教室』『赤ん坊少女タマミ』『恐怖』など楳図かずおのホラーシリーズ
『エコエコアザラク』古賀新一
『まことちゃん』楳図かずお
『わたしのあきらクン』しらいしあい
『ここはグリーンウッド』那州雪絵
『ダークグリーン』『那由他』佐々木淳子

 などなど……

 あと、強烈に好き過ぎて数年前に楽天でポイント使って豪華版全巻購入した『イティハーサ』水樹和佳 については、中学生の時に巡り合った。
 好きすぎて大切にするあまり、まだ全部読み切れていないという……。

絵がとにかく綺麗。素晴らしいです!

 漫画については昔読んだものだけでもまだまだある。多すぎてここでは挙げ切れないので、また別の記事を作って思い出を辿れたら、と思う。

そして小説へ

 さらに成長し、読める漢字も増えてきた高校生くらいの頃から、私は本格的に小説を読み始めた。
 忘れもしないきっかけは、当時センセーショナルな事件で世間を騒がせていたサルマン・ラシュディの『悪魔の詩』だ。この小説を買いに書店に行ったことが、その後の私の小説読み人生のスタートとなったのは事実である。
 高2の私が今は無きB書店に足を踏み入れた時、タイムリーなこともあってサルマン・ラシュディの作品のいくつかがメインコーナーに平積みになっていた。
 その時目に入ったのが『真夜中の子供たち』上下巻だった。

圧倒的に面白かった物語。
過去4、5回は繰り返し読んでいる


 私はどういうわけか、目当てにして来たはずの『悪魔の詩』ではなく、そちらの2冊を買って帰った。そして、むさぼるように読んだ。

 私の生まれはボンベイ市……某年の某月某日のこと。いやそれじゃだめだ。人間、日付から逃れるわけにはいかないもの。それならナルリカル医師の産院で1947年8月15日生まれさ。時間は? 時間も重要なのだ。えーと、それなら夜だ。いやもっと正確に……えーと、実は真夜中かっきりだった。時計の針が恭しく合掌して私の誕生を迎えてくれたわけだ。ほう、もっとくわしく。つまり、まさにインド独立達成の瞬間に、私は呱々ここの声をあげたわけだ。この時がじっと待たれていたのだ。そして窓の外には花火と群衆があった。 

サルマン・ラシュディ『真夜中の子供たち』

 気軽な感じの語り口調で始まる導入文は、ガッツリとボリュームのある物語が「さあ始まるぞ」というような期待感に満ちていた。そこからあっという間にラシュディのストーリーテリングの妙に引き込まれて、気づけばインド独立の日に生まれたサリーム・シナイという男の波乱万丈の人生を、インドの歴史と政治に翻弄される魔法の能力を持つ子供たちの運命と絡めた一大叙事詩の世界に入り込んでしまっていたのだった。〝マジック・リアリズム〟という小説の手法があるということも、この時に初めて知った。

 ちなみにこの日買い損ねた『悪魔の詩』は、数年後にひっそりとネットで購入した。が、世間で言われていた通り、日本語の翻訳が酷過ぎてストーリーがわからな過ぎて、楽しむどころではなかった。翻訳者である某教授は一連の事件で犠牲になり、既に亡くなられているのであまり非難するのはどうかとは思うが……
 一言、非常に残念である。

私の小説読みのきっかけになった小説
(『真夜中の子供たち』の方が魅力的だった)

 更に同時期に購入して読んだものと言えば、マーガレット・アトウッドの『侍女の物語』がある。

のちに原作者が制作チームに加わりドラマ化


 Huluのドラマ『The Hand Maid's Tale(ハンドメイズ・テイル』シリーズで一躍世界的に有名になった作品だが、この本においてはドラマにおけるストーリーのほんの初期の部分しか語られていない。

 未来のディストピアを描いたこの物語は恐ろしく、閉塞感に満ちていて、読んでいる間を通して気鬱な思いでいたのをよく覚えている。

 希望を感じられるシーンで終わっていた本作の続編を作り、なお主人公を苦しめる物語を継続しようとした作者の意図はよくわからない(笑)……けれど、読み終えた時にはガツンときた一作であったのは間違いない(ドラマの方も全部観てます!)。
 特に、緻密に作り上げられたギレアドという宗教国家の世界観とその変遷は巻末の年表で克明に説明されていて、その完成度がすごいなと思った。

 その後、大学生となり、実家から遠く離れた地で学生生活を送った私は、以前のように読み放題というわけにはいかなくなったという理由から漫画をあまり読まなくなり、気が向いた時にポツポツと小説を買っては読むようになっていた。
 先輩から教えてもらったのが、村上春樹の初期の作品で、コンプリートしたわけではないが、
『ノルウェイの森』
『羊をめぐる冒険』
『ダンス・ダンス・ダンス』
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』
『風の歌を聴け』
『蛍・納屋を焼く・その他の短編』
『ねじまき鳥クロニクル』
などを読んだ。

村上春樹の作品で一番好きな作品

 特にメチャメチャ好きだったのが、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』だ。この小説は〝計算士〟と呼ばれる架空の職業を持つ「私」が活躍する「ハードボイルド・ワンダーランド」の章と、〝夢読み〟として壁に囲まれた街でユニコーンの頭骨から古い夢を読む仕事を与えられる「僕」の章、「世界の終り」が交互に展開する。

 ストーリーとしても面白かったのだが、強烈な印象として残っているのは、「世界の終り」に登場する、壁に囲まれた街に生息するユニコーン達の描写だ。金色の毛をフサフサと揺らしながら群れている美しいユニコーン達の姿が本当に目に浮かぶようで、その時に感じた感動さえいまだに覚えている。

表題作より最後の2作品が好き


 それと同じくらいお気に入りなのが、短編集『蛍・納屋を焼く・その他の短編』に収録されている『めくらやなぎと眠る女』と『三つのドイツ幻想』だ。
 『納屋を焼く』は韓国で『BURNING』というタイトルの映画にもなった有名な作品だけれど、それよりも私個人としては、上記の2作品を推したい。まあ、全く個人的な好みに過ぎないのではあるが。

 どちらの作品も、イメージされる世界がとにかく美しい。

 『めくらやなぎと眠る女』は、主人公が耳の悪いいとこを連れていった病院で、何故か突然、胸の手術をした友達の彼女を友達と供にバイクで見舞いに行った日のことを回想するという話なのだけれど、回想のシーンがまたとても美しいのだ。友達の彼女の入院している海辺の病院、病院の食堂から見える中庭の芝生……。今でも脳裏にイメージがこびりついている。

 『三つのドイツ幻想』は、ドイツに関する短い話が3話オムニバスで構成されているのだけれど、特にその中の『ヘルWの空中庭園』が好きだ。

 この記事を書くに当たって改めて読み返してみると、文庫本でたった5ページの話だった。
 東西ドイツを隔てていたベルリンの壁のすぐ脇にある4階建てのビルの屋上に、たった15cm浮かんだ空中庭園を繋げているヘルW。何のこっちゃ、と思ったし、ヘルWという謎めいた名前の人物についても何者なのかわからない。にもかかわらず、語り手とヘルWの間に交わされる会話の醸し出す、このほっこりとした空気感はいったい何だろう。〝ドイツ幻想〟の物語のひとつというだけあってメルヘンチックな感じもする。わけわからんなりに、その雰囲気に浸るのがただ楽しくてたまらない、といった作品である。

 というわけで、絵本から始まり膨大な数の漫画を経て小説に至った私の読書遍歴をざっとご紹介させていただいたわけだが、今、小説を書いたりするようになった自分にとって、小説=物語とは何なのかということに、もう一度立ち戻ってみたい。

 自分にとって「小説を読む」ということは、まず何を置いても「楽しい」。

 それにはいくつかの段階があって、それは以下のように深まっていく。

 「小説を読む」ということは、没入感の深さを尺度とするならば

 ある物語=出来事または人生を、追体験出来る
 ↓
 イマジネーションの中で、それを実体験出来る
 ↓
 その小説の世界に丸ごと入り込む

 たまに、あまりに没入していたが為に、読後にこちらの世界に戻ってくるのに時間がかかることもあったりする。私にとって、これはいい小説である。

 また、映画やドラマには無い、

 「自分固有の世界の中に遊びに行ける」
 「限り無い想像力を生き生きと遊ばせることが出来る」
 「時間も空間も、姿かたちも思いのまま、まるで夢の世界のようなところに連れて行ってくれる」

 という特典がある。

 勿論、昨今の映像技術の発展には目を見張るものがあって、事実漫画の実写版映画などは俳優の演技力の高さとも相まって、観てそのクオリティーの高さに圧倒され、映画を観終わったあと「すごい時代が来たなあ」と圧倒される仕上がりになっているものがとても多い(キングダム3作、ゴールデンカムイ観て感動しました。今年アカデミー賞視覚効果賞を受賞したゴジラ-1.0もまだ観れてないけど絶対観ようと思っています)。

ビジュアル最高な映画! 
紫夏のくだりでは号泣してしまいました
キャスティング大成功! と思う 
原作読んでないので読みたくなりました


 ……だが、映像を追って物語を理解していくことと、
 文章を追って自分の頭の中で物語の世界を構築していくことには違いがあると思っている。
 活字の物語に感動するということは、そののちの人生に大きな影響を与えることがある。物語に没入し、それを〝体験〟することによって成長したり、ものごとを深く考えるようになったり、救われたり、新しいもの/ことを知ったり、ものごとの理解が深まったりする。私は物語の〝体験〟を経て、そうした経験をしたことが何度かある。
 そしてその経験は、言わば受動的とも言える、映像によって物語を追うということと比べると、とても〝深い〟。他人によって与えられたイメージではなく、自分で自分の中でこしらえたイメージである為、一生ものの記憶になり得るのだ。

 小説を書くことは100%能動的な作業だが、
 小説を読むということも、負けず劣らず能動的な作業だ。
 活字を追い、文章を頭にインプットして、自分の内部で自分だけの映像をつむぎあげるのだから。だから私は、活字の読書をすることは「自分の中の〝世界〟を〝創造〟する能力を鍛える」ことだとも思っている。

 そういった意味では子供の頃から物語を読むのが好きで好きでたまらなかった私は、読むことで自分の内部に自分だけの世界を作り上げるトレーニングは、幾度となく繰り返してきたのだと思う。初めは絵本の挿絵に吸いつけられていた目は、漫画という作画とストーリーを同時に追う濃密な経験を経て、やがて小説の活字を追いながら脳内に展開する風景に向かっていった。
 そのおかげで、今も目を閉じればハッキリとそのシーンや情景が浮かぶ小説がいくつかある。

 だから私にとって小説とは、脳内に果てしなく広がるイマジネーションの世界を築き上げる為に、読むことによっても書くことによっても情熱とエネルギーを注ぐに足る大きな価値のあるものなのだ。ものごころついた時からそうであったし、おそらくこの先もずっと、私の生活において大きな比重を占めるものであり続けるだろう。

 また、私にとって小説を書くこととは、自身のイマジネーション、アイデア、思いついた提案などを表現するひとつの方法、そして願わくば芸術の範疇はんちゅうに入ってくれればと願うことでもある。
 それだけでなく、自分の中にある不条理なこと、分散してしまうバラバラの思考を何とかひとつのまとまったものにしようとする作業、それをすることによって人生に落ち着きを得、何らかの意味や価値を与えられるような気のするものなのだ。

 過去のふんわりとした幸せだった記憶、失敗、恥ずかしかったこと、二度と思い出したくもない辛い経験、挑戦というものをしてみた時の勇気、怖かった気持ち、優しくしてくれた人達、逆にコノヤローってなぐらい冷たくしてくれた人達。かなり仲良かったと思っていたのにいつの間にか去ってしまった人、逆に最悪の別れ方をしたのになぜかまた会いたいなと思う人、会ってもいいし会わなくてもいいかな、と思う人……。長く生きてきていれば、まあ色々ありますよ。みんなそうですよね?

 これまでの人生で味わった全ての経験を、余すところ無く書き残したい。小説の中に、今生きている人生の経験を入れ込むことで、それらに何らかの意味を与えたい。きっと「色んなことあったけど、全部無駄じゃなかった」と最期に思いたいのだと思う。

 もちろん、小説である以上、私の物語は全部フィクションだ。でも時には実際にあったことをそのまま書き起こして作品に生かすこともある。強烈な経験であればあるほど、そうしたい欲求は強い。

 そして、なぜ小説を書くのか? 
 その動機については、

 ・言いたいことを世に(自分以外の誰かに)伝えたい

 ・美しい世界を描きたい

 ・味気ない現実から遊離して、(何でもアリの)イマジネーションの世界へ行きたい

 ・とにかく夢中になれて、楽しい

 といったことがある。

 更に贅沢を言うならば、
 「生きよう」っていう応援メッセージというか、
 鼓舞のようなものを作品に入れ込みたい
 あわよくば、それが読んで下さる方に伝わるなら……

 という願いを込めて
 私は小説を書いている。


 今回は、「自分にとって小説とは」というテーマで自由に好き勝手に今思っていることを書かせていただきました。今後このスタンスが変わることがあるかもしれませんが、自分の中に確固としてある基本的な考えとしては、以上の通りです。

「自分にとって小説とは何か」というと、皆様、それぞれの思いをお持ちだと思います。

 それは間違いなく、「自分だけの」「一番大切なもの」であるはずなので、ずっと大事に持ち続けていきたいですね。

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