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【短編小説】 微かな恐怖 絶望の穴

 「最近、ヤバいんだ、あたし」
 望月もちづきあやが長い髪の先をいじりながら言う。
「どうしたの?」
 私は驚いて聞く。綾は、くっ、と私の目を見て、それから自分の指先に視線を落とした。
 まるで、何かを諦めて、力が抜けていく時のような目の動かし方だった。
「ん、どうした……、ってわけでもないんだけどね、何か、最近、何もする気が起こらないんだ。無気力、っていうかね、……何か調子悪いんだよねー……」
「……」
 私たちは、ショット・バーのテーブル席に向かい合って座っていた。繁華街のビルの地下にある、こぢんまりとした穴蔵のようなバーだ。 
 綾は大学の時からの親友で、卒業後も私達は時々こうして二人で落ち合って飲んだ。彼女は美人で、目が大きく、カラーリングされていない黒い髪を長く伸ばし、シャギーを入れてところどころアトランダムにくるんと巻いたヘアスタイルがとても良く似合っていた。決して派手なタイプではないが、二十代前半の女の子にふさわしい、弾むような仕草と生き生きとした表情を持っており、彼女の幸せそうな笑顔を見ることで、周りにいる人たちも幸せな気分になるような、明るい魅力に満ちた子だった。

 そんな綾が意外なことを言うので、私は本当にびっくりしてしまった。でも言われてみれば、彼女の様子は確かに元気が無く、いつもの明るさや可愛らしさはどこにも見受けられなかった。それで私は最初何を言っていいかわからず、手元のメロン・ダイキリをひと口飲んだ。
「……」
 綾は、綺麗にネイルを施された自分の指を見つめたまま、さっきと同じように、諦めて力が抜けていった時のような目つきをして、じっとしている。とても虚ろな目だ、と、私は思った。

「……何かあったの?」
 ゆっくり聞くと、綾は、考えるように少しの間瞳を左右に動かしていたが、やがて、小さく呼吸を整えてから話し始めた。
「別に、何か大きな出来事があったってわけじゃないの。返って、何も無いくらい。平和で平凡で、それなりにちょっと楽しいこともあったりして……。笑いながら、静かに毎日が過ぎていく。……かと言って、別に退屈してるわけでもないのよ。私、今の生活に不満は持ってない。自分は恵まれてる、幸せなんだ、って思うことができるの。でも……」
「でも?」
「……うまく言えないな。わかってもらえないかもしれないけど、私、本当に、今の状態に満足してるのよ。だけど……」
 彼女はそこで口をつぐみ、モスコミュールを少し飲んだ。そして、肘をつき、手を頭にあて、しばらく考え込んだ。何度もまばたきをし、眉をひそめて、とてももどかしそうだった。
 ――彼女は、私に理解してもらいたくて必死なのだ―ー、と彼女の様子を見ながら私は思い、彼女の話を根気強く聞いてあげなくては、と思った。
 彼女はまた話し始めた。
「でもね、満足しきって、幸せなのって、不安よ。……これから先、自分はどうなるんだろう、って考えた時、何も浮かばないの。……でも、それと同時に、すぐにわかるのね。すでにわかってるの。私は今の私のままで、今以上にも以下にもならない、ってことが。そして、それはそれで、私自身が望んでることなのよね。〝このままでいい〟って……」
 彼女は話しながら、もどかしくてイライラし始めた様子だった。
「……行き止まりよ。私という人間はここまででおしまい。あとはもう、ストンと暗い空洞に落ちていくだけ。……そんな感じがする。……ねえ、私の言うことって狂ってるかな?」
「そんなことないよ」
 私は答える。
「でも、行き止まりなんかじゃないわ。あなたも私もまだ若いし、この先いっぱい色んなことあるわよ。辛いこともあるだろうし、楽しいことも。こんなに早くから、何もかも諦めてしまっては駄目よ」
 この言葉は、彼女を励まそうと思うと口をついて出てきた言葉なのだったが、言い終わるか終わらないかのうちに、私は気まずくなってしまった。なぜなら、自分の発した言葉があまりにもありきたりで、それだけに、彼女に対して無責任に響いてしまったのではないかと心配になったからだ。
 私も綾も、まだ若いというのは本当だし、これは出発点であり、現在の状態だから、私にはそれをはっきりと言うことができる。でも、この先のこと、綾にも私にも起こるであろう将来の出来事については、実は私には希望的なことは何ひとつ言えないことはわかっていたのだ。――結婚して幸せになる? 可愛い赤ちゃんを産む? そして、愛する旦那様と、一生楽しく暮らす――? これは、女に共通の夢かもしれない。だって、確かに、好きな人の子どもを産んで、その人とずっと愛し合っていけるなんて、最高だもの。女として、これらのことを経験するのは、とても重要なことだと思う。

 でも、それだけ?

 それを望んで、その上まだ何か望むのは、贅沢なことだろうか? 私には、とてもそれを一番の望みだとは思えない。何か、私だからこそできる、やるべきことがあるはずだ。……でも、それは何? 私は、何を成すために生まれてきたのか? 人は、次の世代の人を産み出すためだけに、存在していていいのだろうか。否。次の世代を産むことのほかに、その人自身が生まれてきたことに感謝し、自分のために生きることだ。私は何かをしたい、と思っている。だけどそれはいつも雲のようにつかみどころが無く、たまに形を成したと思っても、すぐに消滅してしまう。私はそれを探りながら、毎日を過ごしている。そして、無意識のうちに、綾の場合と同じような漠然とした不安を、私もまた感じているのだ。

 こんな風に、同じような悩みを抱えているのに、綾にあんな通り一遍の言葉を返してしまったことを、私は後悔した。あんなことを言わなければ、私の考えを表明して、綾と二人、同じ思いを分け合うことができたのに……。これだけ考えていても、たった一往復の会話で、私は自分に対して嘘をつき、綾には、相談を軽く受け流したような印象を与えたことになってしまった。
 どうしてだろう。私はいつも、本当に自分が考えていることとちぐはぐなことを言ってしまう……。後になって、これを言えば良かったのに、と考えはするが、いつでも後の祭りだ……。本当に、これは私の弱点だ。それも、かなり深刻な……。人と話している時に、その人の気持ちにかなった、当意即妙の答えを返せたらどんなにいいだろう、と、いつも思う……。

 自分の浅はかさに急激に落ち込みながら、ちらっと綾のほうを見ると、案の定、彼女は、何か理解できないことを言われた時のように、怪訝けげんそうな表情をしてから――それくらいさっきの私の言葉は、お義理で、実のこもっていないというのが見え見えで、宙に浮いたようにそらぞらしかったのだ――、侮辱ぶじょくされたかのように、すねた顔になった。多分、私にはぐらかされたと思ったのだろう……。
 しかし、彼女はモスコミュールをひと口、ふた口で飲み終えると、こう言った。
「ありがと、聞いてくれて。もう、それだけで、ちょっとスッキリした感じよ」
 そして、お義理のお返しのように、取って付けたような笑顔を見せた。それは、結局、私が何の力にもなってやれなかったということを明白に意味していた。
「うん、でも、さあ……また、話したかったらいつでも言ってよ。あたし聞いてあげるからさ」
 私も、気まずさを隠すためにこう言った。綾もうん、と言ったが、その顔には寂しそうな表情が表れていた。

 何だか、私はもうどうしていいかわからなくなってきていた。そして同時に、急にひどく面倒臭くなった。どうしてそんな気分になったのかわからなかったが、さっきまでは、あんなに綾に同情して、自分の悩みさえも打ち明けたいとさえ思っていたのに、もう今では、綾の悩みも何もかもどうでもよくなってしまっていた。それよりも一刻も早く自分の部屋へ帰りたかった。

 折からこちらをちらちら見ていた若い男の二人連れが、今にもこのテーブルめがけてやって来そうに、機会をうかがっているのが目に入った。男たちは、私の左斜め前のほうのカウンター席から、そのサインを送ってきていた。二人ともダーク系のスーツを品良く着こなし、大企業のサラリーマンといった風貌で、互いによく似た綺麗な顔立ちをしていた。

 綾の席からはその二人が良く見えなかったので、私は大学時代よくやっていたように、綾に、トイレに行くふりをして立ち上がり、男たちの前を通りながら吟味し、声をかけられたらどうするか考えるというゲームをもちかけた。綾もそのころを思い出したらしく、にやっと笑って立ち上がった。そして、興がのったらしく、男たちのカウンターの前を通り過ぎる時、彼らにチラっと目線を送り、その、わりと肉づきのいいグラマラスな体を、とてもセクシーに、しかし下品にならない程度にくねらせて歩いた。
 そういう挑発的な態度をとる時、綾は最高にカッコイイのだった。それは綾の後ろを目で追う彼らの表情を見てもわかった。なぜなら、彼らの目は綾の姿に釘付けだったから。
 私は愉快な気分になって、ひとりでクスクス笑った。

 そのころから店は段々混み始めてきて、音楽もボリュームが上がり、騒々しくなった。さっきの男たちも、新しく入ってきた女の子たちのほうに忙しく目を走らせていたが、トイレに行っている綾のことが気になっているというのは、一目瞭然だった。

 私はメロン・ダイキリのグラスを空け、今夜これからは綾にまかせよう、と思った。彼女が楽しく過ごせるように、あの色男たちが、彼女の夜を明るく盛り上げてくれるだろう。私ができなかったことを、つまり、綾を無気力から立ち上がらせ、元気づけるという仕事を、今夜は彼らに担ってほしい。私はそう思い始めていた。

 五分後、自分が姿を消している間に一気に盛り上がった店内の喧騒に驚きながら、綾がトイレから出てきた。人の話し声と大音量で流れるヒップ・ホップの曲の波間から、彼女は私に目配せを送ってGOサインを出した。
 私は満面でにっこりと笑顔をつくることでそれに応え、綾の後ろについてこちらに歩いてくる男たちを、頬杖をついて待ち構えた。

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