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「でんでらりゅうば」 第5話

 翌朝、八時きっかりに安莉のアパートを訪れた阿畑は、開口一番、改めて昨日の自分の不手際を詫びた。
「――本当に申し訳ありません、随分心細い思いをされたでしょう? ……私ときたら、抜けたとこばっかりでですね、普段からこうあるんですよ、いや、ホント、もっとしっかりせなんと……若い娘さんばお預かりしとっこと、ちゃんと自覚しとかんばいけんですたいね」
 平身低頭になるあまり、途中から地の言葉が丸出しになっていた。安莉はそれが可笑しくて、笑いながら「もう大丈夫です」と許した。
「ところで、親御さんには言うて来たとですか、その……まあ、あんまりプライベートなことをお聞きしては何かとは思うばってんが……」
 一度せきを切ったら止まらなくなった丸出しの方言のまま、阿畑は問うてきた。ええ、まあ……と、安莉は曖昧に濁すしかなかった。
 何年も顔を合わせていない母親のことを、久しぶりに思い出した。酒と煙草、不健康に痩せた体、厚塗りのファンデーションと口紅とアイシャドウの匂い、そしてそれに上乗せされたどぎつい香水の匂い……。世のなかのだらしなさをすべて身に纏ったような女だった。そして安莉にとって、決して理解できない女だった。幼い娘が目の前にいても、いつも心はほかのどこかにあるようで、じっと窓の外や前方のあらぬ空間を見ていることが多かった。安莉は置き去りにされているような、やり場のない気持ちをどうにか上手く分散させることに心を砕いて育ってきた。
 そんなわけで、母親とはずっと折り合いが悪かった。そして物ごころつく前にはもうすでにいなかった父親のことは、想像することすらできなかった。
「まあ、あんまりプライベートなことはですね。すみません。ま、こんな山奥ん村に来て、親御さんが心配されんとよかっですけど……」
 阿畑は申し訳なさそうに言い、想いの淵に今にも沈み込みそうになっていた安莉を引き上げてくれた。そのことに感謝を覚えながら微笑みを浮かべると、安莉はこう言った、
「大丈夫です。全然心配とかしてないですから」
 
 ――〝郷の駅〟と呼ばれているその建物は、村の中央に位置していた。村中の人間がかかわっているので、どの家から通うのにも不便のないようにという民主主義的な理由からその場所を定めたのだということだった。それはすべて黒い焼成木材で建てられた趣きのある平屋建てで、昨日着いたときに見た村の目抜き通りに向いて入口のある、三角屋根を頂いた長方形の建物だった。
「来るときにわかったと思っとやけど、この整備もされとらん酷い山道ですけん」
 自ら所長と名のる、|古森《ふるもり
》佐助という五十絡みの男が、遠慮のない胴間声で喋った。
「農産物やらその加工品やらを、ここで製造して、山ん下の村にわしらが運んで売ってくっとです」
 どうやら名称だけは〝郷の駅〟としているが、実際ここでは販売等は行わず、製造、加工だけを行う作業場ということらしい。目の前に並んでいる作業員と思しき人々も、皆それぞれ頭に三角巾を被り、白い割烹着を着込んでいる。
 なるほど、と安莉は思った。客商売ではないことは、むしろ気安い。人との距離の取り方がわからず、大勢の見知らぬ人々と接するのをことのほか苦手としていた安莉だったが、ごく少数の人たちとあまりにも近い距離感で過ごすこともまた気まずく感じる性分だった。だが、ここにいる人たち程度の人数となら、何とか無難に過ごせそうな気がした。子どものころから極端な人見知りで、愛想笑いということができず、親戚の集まりなどに出るといつも母親に渋面をされていた。そんな風になったのはあなたのせいじゃないのか、と詰め寄る術も知らないままに大人になった安莉は、接客というのはもっとも自分に向かない仕事だと承知していたから、そのことは返って有り難かった。
 
 「では、皆を紹介する――」
 再び所長の胴間声が響いた。人望や指導力よりも、声の大きさで人々を取り仕切る典型的なタイプのようだった。その証拠に、その場に居並んだ作業員たちの内の何人かはくすくす笑いをこらえきれず、この所長が皆から尊敬を得られていないことがあからさまに露呈していた。
 ともあれ、古森は無骨な太い指で指しながら、メンバーを紹介していった。作業員は七人。安莉を入れれば全部で八人になる。左側に女性が四人、右側に男性が三人、皆同じ割烹着姿のためか、似通った風貌に見えた。一番左端から御影みかげみつ砥石といしかつ、古森りん、阿畑えん、御影頼彦、阿畑せいえん、そして星名せいなすみたつ。なぜか申し合わせたように女は皆名前が一文字で、男は二文字だった。左端にいる御影満と砥石勝だけが年配で、後は皆十代から二十代の若者だった。
 そして一番端に立っている、星名澄竜という男がやけに目を引いた。ここにいる若いものは全員が皆平均より大柄で手足が長く、均整のとれた細身の体型をしているのだが、そのなかでも澄竜という男は特別に容姿がよかった。安莉も思わず見とれてしまったものだが、地面から真っ直ぐに生えた竹のように細くしなやかな体、その立ち姿の美しさ、そして明るく光を放つかのような滑らかな白い肌をして、切れ長だが力のある黒い瞳の目の上には、色香すら漂わせるくっきりした眉が乗っていた。そしてその眉と同じく漆黒の髪はやや長めに伸ばされて後ろへ向かって流れている。澄竜だけが三角巾を被っていなかった。薄くも厚くもない形のいい唇は少しひねくれ者のような性格の発露なのだろうか、僅かに歪んでいたが、しかしそれへ向けて潔く真っ直ぐに下りる矢のように尖った鼻は、すべてを整然と取りまとめてその顔に気品と抗い難い魅力を与えていた。
 所長の古森がこまごまとした作業内容を実地で教えてくれているあいだも、安莉は心ここにあらずといった気持ちで、澄竜のことを意識するあまり、澄竜のいる方向を見ることもできないでいたのだった。
 ひととおりの作業工程を見学し終わって、安莉が本格的に作業に加わるのは明日からということになった。作業メンバーは基本的に毎日代わり、明日にはまた別の村人が来るとのことだった。
「初日からこき使ったら可哀想やっけん」
 若者のひとりが言った。澄竜の印象が強過ぎて、安莉はまだほかの二人の区別がつかない。
「ほんなこつ、そげんことしよって、逃げられでもしたらかなわんばい」
 冗談めかして、もうひとりの若者が言った。ほかの作業員から、軽い笑い声が起こった。
 
 アパートに戻ると、昼近くになっていた。安莉は冷蔵庫のなかの食材を使って簡単な昼食を作った。この地方で生産された緑茶が台所の湯沸かしポットの脇の茶筒に入っていたので、それを入れて飲んだ。鮮やかな緑色を出すそのお茶は、安莉がこれまでに一度も飲んだことがないほど香りがよく、美味しかった。
 食事とお茶を楽しむあいだは、居間のガラス戸から見える雄大な景色を眺めていた。テレビは見ることができたが、国営放送と全国版の民放放送が二局受信できるだけだったし、しかもそれらはこの非日常の環境にいる特別な気分を損なうように感じられたので、すぐに切ってしまった。どこまでも続く青い空と、遠くの山脈まで見晴らせるその眺望は時間が経つにつれて段々と微妙に色を変え、いつまで見ていても飽きなかった。
 昼食の片づけを終えると、安莉は満を持して机に向かった。仮書きのときにはいつもそうするようにシャープペンシルを手に取り、文字を書こうとすると、今朝見た澄竜という青年のイメージが鮮烈に甦った。こんな山奥の小さな村に、あんな美しい青年がいるなんて。歳は自分より三つか四つ下だろうか……、安莉は想像した。そして、目の前に広がる村の東側の雑木林の風景を見ていると、ふと書きたい文章が浮かんできた。安莉はシャープペンシルを持ち直し、携えてきたノートの上にさらさらと走らせ始めた。
 ひとしきり文章を書き終えると、夕方になっていた。疲れた頭をリフレッシュするために夕食の前にシャワーを浴びるつもりで、寝室のタンスを開けたときだった。
 ゴロッと音がして、何か固いものが引き出しの奥で転がった。
 手を突っ込んで探ってみると、それは口紅だった。開けて中身を繰り出してみると、使いかけのようで、ピンク色の口紅が半分ほど残っている。荷解きをして衣類を入れたときには気づかなかったが、どうやらそれはずっとそこにあったらしい。
 安莉は少し気味悪く思った。いったい誰のものなのだろう? そして、どうしてこんなところに?
 今度、阿畑に聞いてみよう。そう思った。

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