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【父娘】人生で一番辛かった"失恋"を克服した話

私は誕生日を自分独りで過ごすようにしています。365日に一回だけまわってくる自分が誰よりも特別な24時間を1秒も余すことなく付き合ってあげるためです。2年前は独りで南アルプスでテント泊登山、1年間は富士山の袂でキャンプをしました。今年はどうしようと考えていたところ、ちょうど友達が9月に北海道で登り鮭を釣りに行こうと誘ってくれたので、滞在を伸ばして誕生日をそこで過ごすことに決めました。

合計で17日間の滞在になります。こういう時は、私の車の出番。この車は2年前、4年間の長い交際期間を経て経験した別れの衝撃緩和剤として思い切って買ったもので、1年をかけて家族や友達や元彼に手伝ってもらい "キャンピングカー" に改造しました(制作風景のYoutube動画はこちら)。

バンライフ仕様に改造した車

行く場所が決まったらそれで旅の計画はそれで終わり、あとはその場任せというのが私が好きな旅のスタイルです。

人生の短さにプチパニック

ある日のこと。ふと「あれ、人生って思ったよりも短くない?」と体に衝撃が走りました。どう考えても、自分がなんとなくやりたいなと思っていることの数が、人生の尺度に当てはまらない訳です。しかも外(世の中)と内(自分)にあることの理解を深めるほど、自分の意図に関わらず勝手にやりたいことが追加されていく次第。時々、人生の大先輩方がぼやく言葉で「人生なにもしなかった。◯◯すればよかった」というものがあります。私はいつも「世の中にはのんびり何もせずに生きている人もいるもんだな」と思っていましたが、それはその言葉の本質を分かっていなかったためです。これは、どの山にも登らなかった人の後悔の台詞ではなく、ある山を一生懸命登っている終盤のふとした小休止に、両手を伸ばし深呼吸をして周りの景色を見渡すと、遠くの方にもっと登りたい山があったことに気がついた人の気づきの台詞なのです。どの人も、人生の毎日をその人のそのタイミングの中での全力で生きています。努力の総量の話ではなく、努力の宛先となるベクトルの舵きりの難しさというのが、この言葉の意味の本質なのです。

私はパソコンでGoogle スプレッドシートを開き、やりたいと思うことを全て書き出しました。ふむ、やはりどうあがいても人生という尺に対して容量オーバーしている。頭を抱えました。私は今の会社に入って5年経ちますが、最も感謝していること。それはめちゃくちゃハードコアな優先順位付けを教えてもらったことです。最もインパクトがあるもの、今やらないといけないもの、私がやらないといけないもの。期待できる効果は?自分の想いから一旦離れて、ドライに分類分けしていきます。条件を入れてリストをソートし、順序ごとに並び替え、100個ほどあったやりたいことリストが 20個程度のリストにまで絞り込まれました。なんとなく実現性が帯びてきました。

やりたいことリスト

リストを作った後は、短期アクションの計画です。リストの中で最も至急性の高いものを向こう半年の人生に組み込みます。予定することの意味は、その時間を先んじてブロックすることです。どうしても人は目新しく飛び込んできたものに意識がいってしまいます。その時、重要性やら至急性なぞ関係ありません。だって楽しそうだもん。魅力的なんだもん。そんなフワフワ浮遊する人の心にNOを突きつけ、元の線路にぐいっと引き戻してくれるのが予定の役割。ということで、早速その場で予定を組み、自分の時間を大切なことにコミットさせるようロックします。

往復8万円のフェリーに乗り込むまで

私のやりたいリストの上位にあることの一つが、父との2人旅行でした。そもそも父と2人で旅行など考えたこともありません。父と私は今でこそ気兼ねない仲ですが、私が学生だった10年間は振り返るだけで心が痛くなるような親娘関係でした。父は長く勤めた会社を辞め起業し失敗。それは私が幼く多感な時期に重なり、あれだけ大好きだった「パパ」は、できることならいなくなってほしい「あいつ」に変わりました。私は社会人になり、父も東京を離れ、私たちは少しづつ関係を取り戻してきました。それでも私は父と話す時、父の目に後悔の色が写っているのに気がついていたし、その瞳の中にいる娘側も、後悔という感情に何よりも強く支配されていました。

私はずっと子供が欲しかった。今も欲しいという気持ちは変わりませんが、2年前とは理由が全く異なります。当時の理由は「子供を作ることで、父親との関係を取り戻せる」というものでした。父は子供好きな人で、私は小さい頃に本当によく遊んでもらいました。子供を持てば、父とまた遊べる。父も私も後悔を捨てて、新しい親娘関係を気付ける。例の大失恋の時に、その考えは大きく重大な間違いをいくつも(本当にいくつも)はらんでいることに気がつきました。そのうちの一つが、自分が実現したい大切なことに「XXしたら〜できる」という条件付けをすることです。やりたいことを実行する時に、条件など必要ありません。実現したいことがあれば、今できる範囲でできることをやるまで。それが一番の近道で、よく意味のわからない条件付けは今できることから逃亡するための言い訳でしかありません。

父の誕生日に、初めて電話をかけました。「誕生日おめでとう。」父は驚いていて、会話はお互いしどろもどろで1分もなく終わりました。不自然な沈黙のあと、私はなんとかこの言葉を滑り込ませました。「だいすきだよ。」父が お、とか、あ、とか何かしらの音を出したのを聞いて、私は電話を耳から高速で離し、通話終了ボタンを急いで押しました。2年前のことです。

私は父と遊びたい。父が元気で、私が自由である《今》だからできること。《私と父》しか実現できないこと。私は誕生日は独りで過ごすと決めていますが、今回は特別。父を北海道旅行に誘うことにしました。「えぇ、ホテルとか高いんじゃない」と質素倹約家(といえば聞こえはいいけどドケチ)な父。「大丈夫、私の車で寝ればタダだよ。」父はタダという言葉にホイホイつられ、北海道旅行に首を縦に振りました。

北海道旅行が近づくにつれて、面倒臭いなぁという気持ちが大きくなります。車中泊の用意はしないといけないし、仕事も一旦切り上げないといけないし。しかし否応なしに予定は迫ってきます。全ての手配をギリギリでこなし、茨城県大洗から出発する北海道行きのフェリーに乗り込みました。18時間の船旅です。

まっしろな北海道

雪に覆われていない北海道を初めて見ました。雪はすべてを真っ白に染めて、空の青さと木々の影のコントラストを美しく照らします。私はその下にある色とりどりの存在を想像をもしていませんでした。緑と茶色が一面に広がる背景の上に、ぽつんと配置されるトラクター。丸い屋根をもつ牛舎小屋や、異国の雰囲気を醸し出すサイロ。「カルビーのCMみたい…..!」高尚なリファレンスポイントのない自分を少し恥ずかしく思いましたが、気分は海外旅行。独りで車を転がしている間、何度も道端に車を停めて車を降りました。目の前に映る景色に、瞳孔が開いていくのを感じます。

北海道滞在10日目に、父は飛行機で合流しました。7時に女満別空港で落ち合うということ以外、旅程は一切ありません。どこに行くかも、どこに泊まるかも全くの未定。北海道という雄大な地の上に、7日間の真っ皿の白紙が広がっています。最悪どこでもこの車を停めて寝れるから、とその瞬間何がしたいかを2人で合意形成しながらの超衝動的プランで旅を進めました。私がバードウォッチをやりたいと言えば来た道を戻り野鳥センターに行き、父がホーストレッキングをやってみたいと言えば2時間かけて乗馬研究会に行き。相手の提案をとりあえず受け入れ、やってみる。と、新しい世界に出逢う。好きなもの、そうでないものを感じる。知らなかった自分の部分を知る。他人を受け入れることの醍醐味は、最終的に自分の中に既に存在していた未開の部分を知ることにあるな、と改めて思いました。

で、肝心な「大失恋」のはなし

多くの人にとって、一番最初の失恋というものは「異性の親とのリレーショシップ」なのではないか、と思います。最も守られ、与えられ、安心できる関係。かつ、その終わりにはその分だけつらい失恋が伴ったものでもあります。少なくとも、私にとってはそうだったなと。あの時の "失恋" が原体験となって、親密な人間関係で出現する自分の不可解な弱さの原因になっています。父への "失恋" で感じた心のパターンを、恐ろしいほどパートナーや親友との関係に見いだせるのです。私の場合「信頼からの失望」そして「失望からの脱却の期待としての攻撃性」。大小強弱はあれど、全ての親密な関係にそのままコピーペーストされている様は異様でありながら、私を深く安心させました。私はずっと、自分の中に潜む、しかししっかりここぞというところでヌウっと出てくる亡霊のような存在に恐れを感じていました。それが出てくるたびに自分を心から嫌悪しました。嫌悪は罪悪感となり、恥となります。その恥は、いくら小手先の行動や言葉を正しても自分の中にジメッと張り付き、自分だけの静かな時間にうずき、私を苦しめます。

私は、亡霊を恨んでいました。しかし、その亡霊をやっと見つけ、認めることができたのが今回の「克服」の意味です。


その亡霊は、父に "大失恋" した13歳の私でした。自分が傷つかないように、大きな声を叫んで目を瞑って周りを攻撃することで、自分を守ろうとする私。私はずっとその子のことを深く暗い部屋に閉じ込めていました。そして父との関係を彷彿させるような親密性、尊敬、信頼、安心を伴う関係を構築した誰かを目の間にすると、13歳の私がドアをガンガン叩きます。私は聞こえないふりをします。静まらないと、「うるさい!」と一喝します。一向に声は大きくなるばかり。一番最悪な状況だと、その13歳の私がドアから出てきて相手とやりあい始めます。それを傍観して「おいおい何やってんだよ」と頭を抱える私の声はまったく何の効果もありません。そしてまた、新たな恥が生まれ、べっとり不着するのです。

2年間にも及ぶ父との関係再構築は、13歳の私を閉じ込めていた重く暗いドアを開けて「大丈夫だから出ておいで」と言えたことで一区切りをつけられました。父の不完全さを受け入れることは、傷ついた私を癒すことでもありました。こうして人生最大の失恋に終止符を打つことができたわけですが、ひとつ「。」を書き込めたからといって、その章が一生開かないということはないでしょう。でも、一旦その章にずっとついていた書きかけマークとしての付箋を抜き取とる、ということを、やっとできたのでした。

愛ってなんだ?

この"大失恋" からの克服の副産物、いやむしろ一番の戦利品だったのは、愛の定義を再構築できたことです。私は、小さいころの私と父の関係が今までの親娘関係の超えられないベンチマークでした。私がやりたいことを聞き入れ、叶えるために力を添えてくれる父。私という人間を理解し、受け入れ、与え、守ってくれる父。それが私の知る、最高で最良の愛の形でした。

しかしこの旅で、受け取る者 <> 与える者 、守られる者 <> 守る者 という関係は固定化しておらず、つねに流動的でダイナミックに変化しました。父を守り、父の弱さを受け入れ、父のやりたいことを叶える。その逆もしかり。そしてそれは常に変化し、全体で見ると両端でよくバランスが取れていました。

父は、ずっと農作業ができない冬の間、暖かいところで長期的に滞在し旅行したいと言い続けて5年経ちます。父はどうやらこの私との適当旅で、新しい旅のスタイルとそれを行うモメンタムをつけたようで、「Google Mapの使い方を教えてほしい!」と私に聞きます。私は勇気をつけて目を輝かせる父を見て、こころから嬉しく思います。父の可能性が広がっていくことを眺めるのが、私の幸せなのです。それをもし支える一端になれちゃったりしたら、それは心からの幸せなのです。ありがとう!そんな気持ち。

網走の丘で

最後に、私が好きな本の一つ エーリッヒ・フロムの "The Art of Loving" の一節を紹介して終わりたいと思います。

"愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏みこむ」ものである。愛の能動的な性格を、わかりやすい言い方で表現すれば、愛は何よりも与えることであり、もらうことではない、と言うことができよう。" 

エーリッヒ・フロム『愛するということ 新訳版』鈴木晶訳

愛することは、怖いものです。赦すことも、譲ることも、時に痛みを伴うから。期待や恐怖が邪魔をして、足を震わせるから。しかし与えている限り、私たちは愛に包まれることができる。ってことは、愛って常に自分がコントロールできる。愛は常に味方。愛こそ真実✌️

これをを長い期間かけて教えてくれた愛の伝道師 元彼Gianくん、本当にGrazie Mille! 

/っつーことさ\


みなさんの、本当に自分がやりたいことはなんですか?本当に《今しか》、本当に《自分しか》できないこと、一緒にやってきましょう🔥

Andiamo Cazzo!

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