家の履歴書

 はい!やってまいりました。孝太の雑録。
 ちょっとネタがなくなってきたので、今回は自己紹介的なお題でいこうと思います。題して家の履歴書。まんま週刊○春のパクりでございます(笑)。併せて何で引っ越すことになったかについても書いていきましょうかね。

1 出生から成人まで

 僕は、東京都渋谷区で生まれました。その後、間もなくして埼玉県川口市のマンションに移ります。ここは2年位住んでいたのですが、足に異常が出てしまい、埼玉県川越市の一軒家に引っ越しました。ここも2年位いたのですが、地元の小学校が荒れている(小学生の時点で喫煙している)等の理由から、今の実家がある街の一軒家に移ってきました。尚、実家の場所については伏せさせて頂きます。 
 そしてここから社会人までずっと実家で過ごしました。なので僕にとって地元と言えばこの街になります。

2 1人暮らし(東京)

 「このままずっと結婚まで実家で暮らすのかな」と思っていましたが、25歳を過ぎたあたりから、頻りに両親から自立を促されます。最初は乗り気ではなかった僕ですが、周囲が1人暮らしを始めるのを目の当たりにして、ようやく考え始めました。
 最初に住んだのは、東京都武蔵野市の吉祥寺、1Kアパート。家賃は75,000円の6畳1間でした。とにかく何もかも初めてですから、分からない事だらけ。ただ、実家と比べれば自由でしたから、今まで出来なかった事をやりました。例えばテレビドラマを心ゆくまで見るとか、目一杯ゲームをするとかね(笑)。でも、結構速い段階で飽きてしまい、気づけば実家と同じ生活サイクルに戻ってました(笑)。
 ただ、とにかく便利でしたね〜。店も多いし、交通の便もいいから不自由はしない。唯一の欠点は物価が高い事ですかね。近くの井の頭公園には、よく散歩に行ってました。
 しかし、諸事情によりお金が続かなくなったので、安い家賃を求めて部屋探しをします。その結果、たどり着いたのが、練馬区氷川台のマンションでした。
 ここは1Kのマンションで9畳1間ですが、家賃は吉祥寺よりも安く、60,000円でした。その代わり部屋が地下にあり、更には最寄りの駅(有楽町線氷川台駅)もコンビニもスーパーも全て徒歩10分以上の場所にしかなく、更にバス停も近くにはなかったのでかなり不便でした。しかも通勤で使っていたのが大江戸線だったので、更に遠い練馬駅まで行かなければなりませんでした(徒歩20分)。都内で広い部屋になると、どうしても環境が厳しくならざるを得なかったですね。ただ、練馬自体は結構好きだったので週末よく自転車で行ってました。

3 1人暮らし(北九州)

 それなりに楽しい東京での1人暮らしでしたが、長くは続きませんでした。詳しいことは就活今昔に書いていますが、北九州への赴任が決まったのです。ここで住居までも一気に天国から地獄に変わります。就業規則にはなかったのですが、全寮制になっており、3畳1間の築45年の部屋に移されました。寮生同士の交流はあったものの、自由は全くといっていいほどなかったですね。学生寮の悪いところが全部出た感じで、寝ていれば起こされて、酒を飲まされる。休日は出かけても呼び戻される。でも会社で顔合わせるから無碍には出来ない。休みを取っても寮にいるから休んだ気になれない。こんな生活に耐えきれず、ついに1人暮らしを決意します。

 会社からより近い小倉北区にある1Kのマンション(家賃55,000円)を借りました。しかし、ここに至るまでが大変でした。裏切り者、反逆者のレッテルまで貼られて、待遇も悪化。でも考えてみてください。10代ならともかく30代で私生活まで管理されれば誰でも嫌になると思いませんか?人にもよるかもしれませんが、僕は耐えられませんでしたね。その代わり早めに出勤してました。これは「寮を出たからだらけた。」と言わせないための半ば意地みたいなものです。
 実は東京を出る時に、赴任の事を左遷だの「いい機会だから東京から出て行け!」だの学生時代の友人から散々罵られた事で、ぶち切れまして、縁を切るに至りました。また、残っていた友人も帰省しても東京に行く事が出来ない事から、疎遠になってしまい、以後東京に行くこともなくなってしまいました。
 更に脳梗塞になって休職した事が原因で家族や親戚とも険悪になり、東京はおろか埼玉にも自分の居場所がなくなりました。

 これらの事が原因で地元にも戻れなくなった僕は、ここにいるしかないと自分に言い聞かせながら新しい生き方を模索してました。そして多くの交流会に顔を出したことが功を奏し、いい友達に恵まれました。彼らの支えがあったからこそ今も生きていると言っても過言ではありません。
 とはいえ、帰巣本能が少なからずあったのも事実。総合職入社だったので転勤により本社への異動を期待していました。しかし、その望みすら待遇変更で絶たれてしまい、関東に帰ることを諦めました。

 帰ることを完全に諦めた僕は、この街で生きていこうと決め、東京と実家の事は考えないようにしました。今思うと、そうする事で精神の安定を保っていた気がします。

 しかし、仕事を続けていても疲弊する一方で、自分の命すら危うくなると考えた僕は、ようやく退職を決意します。2013年9月、紆余曲折の末、会社を辞めました。そしてその後、どうするか考えた末、福岡市博多区の1Kマンション(家賃48,000円)に引っ越します。

4 1人暮らし(福岡)

 2013年9月、僕は北九州市小倉北区から福岡市博多区に引っ越しました。こうなるに至った理由は、当時結婚を前提に交際していた女性が久留米市にいた事。そして最初は久留米で仕事を探すも見つからず、より選択肢の多い、福岡市に行った方が道が開けると考えたからです。

 再就職には1年かかりましたが、どうにか決まり、またいつもの日常が戻ってきました。働き出して最初の1年間は博多区にそのままいました。車を買ったのもこの頃です。とにかく楽しかった。この頃には両親との仲も険悪ではなくなり、福岡にも遊びに来るようにはなっていましたが、この時点では僕は彼女との結婚も考えていたため、地元に戻るという選択肢はありませんでした。その後、両親からの提案でもう少し広いところに移ろうと言うことになり、市内の南区に引っ越します。ここは2DKのマンションだったので広くて快適でした。駐車場込みで70,000円と福岡市にしては高めでしたが、風呂も広いし、部屋も増えたので住み心地は良かったです。が、この暮らしも長く続きませんでした。
 原因は、ずばり2度にわたる入院です。保険には加入していたし、社会保険もある程度おりて入院費は賄えたものの、その後の生活費に影響してきました。少しでも生活を切り詰めようとスマホからガラホと格安SIMに切り替えたのもこの時期です。しかし、それでも生活は厳しく、また前年度の所得が良かったため、高くなった住民税も影響し、引っ越すことを考え始めました。ちょうどその時、北九州から親友が転勤で福岡に移ることになり、一緒に部屋を探しているうちに、築年数は古いものの南区より更に広く、安い物件を見つけました。そして2016年7月に中央区の平和に引っ越します。

 さて、前と同条件ではありますが、家賃が10,000円下がったことで家計は大分楽になりました。最寄り駅からは遠くなったものの、歩くのは苦ではなかったし、近所にも行きつけの店が出来たので、毎日が楽しかったです。多くの人と会えて、プライベートではこの時が一番人間関係が充実していたかもしれません。そうして2年が経ちました。ここでまた自分の人生を変える出来事が起きます。

5 最後の引っ越し・・・そして帰還

 2018年は僕のその後の人生に大きく影響した1年でした。
 まず、彼女との破局。前年からその兆しはありましたが、決定的な出来事があり、完全に終わりました。理由は、そうですね・・・方向性の違いとでも行っておきましょうかね。バンドが解散するのと同じですよ。この後から僕の人生は変わっていきます。この年はね、前厄と言うこともあったのか、とにかく酷い1年でしたね。何もかもが裏目に出ていた。クレジット詐欺にも遭ったしね。ただ、この時点では地元に帰ることになるとは思っていませんでした。

 10月になって他県から来ている友達が地元に帰ることになりました。このあたりから気持ちが揺らぎ出しますが、まだ僕自身が地元に帰るという選択肢はありませんでした。同じ月、福岡で最後の引っ越しをします。彼女とも破局したし、一緒に住むために借りた広いマンションも必要なくなりました。更に働き方改革で残業規制が起こり、収入も大幅に下がったため、1Rの安いマンション(49,000円)に引っ越しました。場所は博多区美野島で駅からは少し離れているものの、各方面のアクセスが良かったのと親友の家から近いことが決め手になり、契約しました。
 ここでの生活も楽しいものでしたが、その後の僕の運命を決定づける出来事が発生します。

 それは叔父の死・・・。しかも孤独死のため死後何ヶ月も経ってから発見されたのでした。さすがにこれはショックでした。そして同時に両親の年齢も考え始めました。
「何があってもおかしくないが、今の状況ではすぐ駆けつけられない。」
この件を機に地元に帰ることを意識し始めたものの、まだ、この時は何年か先位にしか思ってなかったし、真剣に考えていませんでした。

 明けて2019年。またしても僕の考えを変える出来事が起きます。
 この年の2月、練馬区に住んでいた時の友達が、長期出張で博多に滞在する事になりました。僕は覚えてくれているかな、と不安はあったものの、真っ先に連絡を取り、会うことになりました。実に11年ぶりの再会でした。そこで彼に相談したとき、こう言われました。
「いつでも帰って来いよ。お前が帰る場所はあの街にもあるんだ。」
嬉しかったです。と同時に自分の器の小ささが嫌になりました。
「俺はなんて小さい奴なんだ。くだらない事に拘って、ふて腐れた挙げ句、勝手にひねくれて・・・」
自分の今までの考えを悔いました。そして本気で帰ることを考え始めました。

 最終的な決定打になったのは、夏の昇格の時ですね。本来なら喜ばしいことなのに上司から嫌みを散々言われ、挙げ句俺は昇格は認めていないと言われました。元々僕の住んでいたところにもケチをつけたりしてましたが、スルーしていたんですよ。でもこれには怒りを通り越して呆れた。挙げ句面談の際に「(彼女と別れたし)、もう福岡にいる意味ないよな。」ですよ。
 「上等だ!」と言いたいところでしたが、この時点で後1ヶ月在籍すれば退職金も出るのでわざと退職の時期をずらしました。退職の意思を伝えたら態度が豹変したのは笑いましたね。まあ、後がやばいと思ったので口止めみたいなもんでしょう。後は円満退職でした。条件も悪くなく去ることが出来ました。
 でも、いざ離れるとなると12年もいたのでこっちの友達の方が多くなって、別れの時は本当に辛かったです。みんな励ましてくれ、鹿児島の後輩は、「これで東京転勤の話を受けることが出来ます。孝太さんが関東にいるのなら心強い。」といってくれました。

 また福岡に来よう!その思いを胸に2020年2月29日、福岡を後にしました。

6 現在、この瞬間から・・・

 タイトルは織○裕二の1991年の曲のパクりです(笑)。
 2020年3月1日に実家に戻り、それから3ヶ月が過ぎました。戻った途端コロナ禍が起こり、思うように動けない日々が続いていますが、何とか打開すべく奮闘中です。
 これからどうなるかまだ分からないけど、北九州、福岡で多くの方に出会えたお陰で今の僕があります。今度は他府県から来て、ここの生活に慣れずに困っている人の力になれれば、と思っています。

 最後までお読み頂きありがとうございました。
 これからも宜しくお願い致します。

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