就活今昔6〜転落

さて、そんなわけで楽しい時間を謳歌していた僕ですが、ここから一気に地獄に突き落とされます。

平成20年、とある会社に正社員前提で派遣社員として入ったのですが、いわゆる契約切りにあいました。
何もかもうまく行っていたのにここから一気に崩壊していきます…。
その後、転職フェアで訪問した会社にどうにか内定はいただけたのですが・・・。
配属が北九州と聞かされて、行くかどうかものすごく悩みました。
正直東京での生活は楽しかったし、すぐ実家にも戻れる距離だった。新しい土地でやっていける自信は全くない。本来ならここで踏ん張るべきだった。
しかしここで自分のネガティヴな考えが頭を支配します。それは・・・
「ここを逃したら就職なんてできるわけがない。あれだけ見栄はった手前、生活苦で実家に帰るというのは情けない。下手をすればいい笑いものだ。
ここで働かなければホームレスになるほか道はない!」
更に当時親戚連中(特に仲の悪い従兄弟。こいつが親戚の支配権を握っていた)からも立場が安定しないことを責められ、後がなかったというのもあり、結局北九州行きを決めます。
ここで追い打ちをかけるように大学の時の友人(いや今となっては友人ではないのですが)から暴言を吐かれます。
「これで東京はまた平和になる!害虫がいなくなったからな!」と嬉しそうに言われたときは殺意すら湧きました。
「東京に戻ったらただじゃおかねえからな!」とまで捨て台詞を吐かれて、当然ながらその後付き合いはなくなりました。

そして北九州に赴任した結果・・・仕事面では最悪でした。
初日から三畳一間の社員寮に住まわされ、公私の区別のつかない生活。結局耐え切れず小倉駅近くのマンションに移るのですが、反逆者扱いを退職の日までされる羽目になりました。
そして1年程経った日、夜10時頃だったと思いますが、会社から駅に向かう途中でめまいが襲ってきて、その場で倒れ、しばらく動けなくなりました。それまでも左半身がしびれて動けなくなったりはありましたが、大事には至らなかった事、その後も異常がなかったため油断もあったと思います。
その日は何とか帰宅し、翌日から仕事に就いたのですが気分のだるさが抜けず、病院にて診察の結果、適応障害と診断されました。
が、のちにこれが誤りだったことが判明します。
散々もめた結果、休職となり、実家に戻ります。そして関東の病院で再度検査を受けた結果・・・実は適応障害などではなく、脳梗塞でした。
就業状況を再度確認され、実は月残業時間が180~220時間が半年ほどあったこと。更に通常時でも最低100時間だったことを医師に伝えると、この程度で済んで良かったといわれました。今も後遺症があり、左腕が動かなくなるときがあります。

休職期間も終わりに近づき、復帰の話が出ました。本音は復帰などしたくなかったのですが、辞めれば就職は絶望的、更には両親、親戚から復職するよう強く責められ、泣く泣く復帰します。更には脳梗塞で休職したことについて、先述した従兄弟からは「親戚の恥!」となじられ、最終的には絶縁するに至りました。

しかし、本当の地獄は復帰後からでした。復帰後更に風当たりが強くなり、何かと暴力は振るわれる、無茶振りされるようになる。更に残業も100時間前後させられ、産業医にはあらかじめ指示された答えを言うよう強要される。
もうね・・・今でいうブラック企業ですよ。しかも全員それが正しいと信じてるからかなりやばいタイプのね。
当時からその言葉がありましたが、会社の事をそういえば袋叩きにされるので言えない雰囲気でした。
こんな状況だから、何度も退職を申し出るも受理されず、生活もすさんでいく一方でした。
更には同僚がmixi日記をコピーして上司に渡すという暴挙を働き、こちらの生活まで密告していたことも判明しました。
医師から脳梗塞再発の恐れがあるとまで言われ、強行に近い形で退職できたのは平成25年9月でした。
しかも辞めた後も上司から計178回も仕事に関することで電話があり、更には日曜日に文句をつけてきて、遂に僕もブチ切れて、大衆の前で怒鳴りつける事態に発展しました。そして、その後然るべき機関に相談し、対処してもらうに至ります。

本当につらい5年間でしたが、プライベート面での人間関係は良かったです。
この時に得た友人の支えのおかげでどうにか生きていけたと言っても過言ではありません。
今も感謝しております。

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