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"なし"だらけでアフリカ布ブランドを立ち上げた私の#自己紹介

はじめまして、沖田紘子です。
(はじめまして、でない方、ありがとうございます。
はじめましての方、アパレル未経験でアフリカの伝統生地を使ったAFRICLというブランドを立ち上げました、沖田です、よろしくお願いいたします。)

恥ずかしい、照れくさい気持ちもありつつ、
農家さんの顔が見える野菜じゃないですが、AFRICLを身近に感じていただけたら嬉しいな、ということで、自己紹介をさせていただければと思います。

何を知っていただけたら、いいのかな、と迷いつつ、
AFRICL、というブランドは、小さい頃からの夢だった、

”生まれた場所による不平等の解消に貢献すること”

に対して、自分がどうアプローチしたいのか、できるのか、
10年くらい迷って、学んで、行動して、迷って、を繰り返して、行きついた答えなので、そのルートみたいなことをお話させていただこうかな、と思います。

沖田紘子、という人の話

最初に少しだけ、前提となる、沖田紘子(おきたひろこ)という人の話を。

埼玉県の田舎まち(埼玉というだけで「都会!」と言っていただいたりもしましたが、一番高い建物は中学校、バスは3時間に1本(私が子どもの時調べ)という感じの、平成の大合併にも合併せずいまだ”町”を貫く、吉見町(よしみまち)、というところで、共働きの両親のもと、三姉妹の歳の離れた末っ子として誕生しました。

名前が決まった瞬間出てきてしまった未熟児だったため?
産院の先生から、「何が出来なくても仕方ない」、と言われたそうで、
自力で母乳も飲めず、猫みたいな量のごはんを食べるのに2時間かかり(遊んだりしていたわけではない)、幼稚園まではかけっこをすれば毎回だんとつビリ、給食もお片付けなんかも決まった時間内に終えられない子でしたが、見守ってくれる周りの人に恵まれて、色んな事が出来ないことを気にせず、学校からの帰りみち、疲れたら、途中でお昼寝したりしながら、のんびりまったり育ちました。

好奇心の強さと、頑固さも昔からで、
これから語らせていただく、ベナンに一人で行ったのも、
そもそもこの夢を持つようになったのも、
それが今でも自分の人生のテーマなことも、
この性格故かもしれません。

小学校で体力がつくと、運動が出来るようになり、
中学校では、結構強い中学校のバスケ部に所属と同時に、陸上部にもレンタルされていたので、陸上のシーズン中は、

朝:陸上部朝練→バスケ部朝練
放課後:バスケ部午後練→陸上部午後練
夜:地域のチームにてバスケ夜練 or 自主トレ(ランニング)

という1日40kmほど走行したうえで、しっかりめのバスケの練習メニューもやる、というなかなかストイックな日々を送り、メンタルマッチョになりました。

人間性部分の形成は、さらに高校のカラーガード部での経験が大きいので、少し語らせていただきます。

県立高校にある珍しい部活で、その界隈では、所謂堕ちた強豪、というようなチーム。
もう一度全国へ、を目指しているものの、
日常的に指導いただける方はいない、
部員はほぼ全員が未経験者、
公立高校で資金もない、
自分たちで自分たち自身を強化する必要がある環境でした。

本当に盆も正月もなく、授業は部活のイメトレの時間、朝は6時に家を出て、23時に帰宅、そこからイメトレやら、明日の練習の準備やら、制服のままリビングで寝おちていることが日常。

メンバー選抜などはなく、部員全員が演技に参加するスタイルをとっていたため、全国大会を目指すには、まず「全員が、全国に行きたい、と思うこと」、そして「全員が、自分たちは全国に行ける、と信じられる環境を作ること」が必要でした。
カリスマ的な存在も、強い指導者もいない中で、手探りでそのアプローチ、自分が出来る行動・振る舞いを考え続ける日々、この経験は、ブランドにかかわらず、何かを誰かと目指すときの大きな糧になっているなあ、と思います。

そんな部活生活で経験したのが、

祖母を亡くした翌日、お客さんの前で演技をする、という機会、
そして、大会直前の母の入院(癌手術)がかぶる、という機会。

不安や悲しみ、が自分の中でどれだけ大きくても、
お客さんの前に立ったら、笑顔で演技をしきる、感動をお届けする、プロ意識と、
そういう演技をする中で、きらきらした顔になってくれる子どもたち、涙してくれる方々がいること、
自分たちが創り出したものが、人を笑顔に出来る楽しさ、
笑顔のパワー
、みたいなものが、私の中に深く刻まれました。

沖田紘子の夢のお話

私の夢のお話をするには、
人の「死」のお話を避けて通れません。
気分を害される方がいるかもしれませんが、ご容赦ください。

私は中学生のとき、叔父を交通事故で亡くしました。
高校生のとき、友人が自ら命を絶ちました。

昨日まで、笑って話してたのに、
なんの心構えもなく、突きつけられた、この二つの経験から、
心に刻み込まれたことがありました。

・明日、生きていることは当たり前ではない、ということ。
・心構えのできないお別れは、遺された人にとってものすごくやるせない、ということ。

これが、自分の人生の命題として、”生まれた場所による不平等の解消に貢献すること”を置くことにした、きっかけです。

なぜ、この経験からそう考えることになったのか?

それは、

 ・教科書に載っていた、弟と歩いていて、大きな音がして振り向いたら、弟がいなくなっていた、というカンボジアの地雷の話
 ・テレビで紹介されていた、金があったら何が欲しい?と聞かれて、「学校に行きたい」と答えたカンボジアの女の子の話

という、たまたま、その頃であった、所謂途上国の情報が、
自分の突然大切な人を失う経験によって、それがどれだけしんどいことか、突然リアルな感覚になったから、です。

世界には、たまたまそこに生まれただけで、
何か悪いことをしたわけじゃないのに、
こんな辛い経験をすること、が日常になっている人たちがいる、


何で私は、何か良いことをしたわけでもないのに、
これまで明日生きていることを当たり前だと思って、
食べるところ寝るところにも困らず、
学校も部活も自分で選べてるんだろう、

こんなしんどい想いが、もっと当たり前になっている世界がある、
なんで悪いことしたわけでもないのに、そんな当たり前の中に生きないといけないんだ、こんな想いをこれ以上増やしたくない!
と、いうことで、私は私の人生の役割を

「生まれた場所による不平等の解決、に貢献すること」

としました。

私、これするために生きてるんだな、という感じです。

そんな大げさな、と思われるかもしれませんが、
突然の別れを経験して、
「こんなしんどい想いをするのは自分だけで十分だ」
と思ったのも、
「このために生まれてきたんだな」
と思ったのも、
10代の時の、ある日のお風呂上りに、ふと、自然にそう頭に浮かんで、すとん、と胸に落ちたのです。
自分でも不思議ですが、そう思っちゃったし、納得しちゃったんだから、仕方ないのかもしれません。

ここからは、
じゃあ、それどうやって?を見つける旅、になりました。

夢の転換期

当たり前ですが、生まれた場所による不平等は、
世界のあちこちに、日本の中にも、いろんな場所に
ジェンダー、医療へのアクセス、教育へのアクセス、いろんな形で存在します。各領域内でも、ビジネス、公的機関、NPOなどの民間の非営利組織などなど、アプローチに参加する方法も色々です。

「じゃあ、私はどれにアプローチしたいのか、
私が一番価値を発揮できる領域はどこなのか」

当時、高校生だった私は、その答えを求めて、ありとあらゆる行動をとっていきました。

机上の勉強ももちろん、色んな国・地域に足を運び、色んな領域の組織でボランティアやインターンなどで学ばせていただいた結果、

支援といわれるものよりは、win-winの関係がヘルシーだと思う、そしたらビジネスかしら、とまでは思えたものの、

お金があれば幸せとも限らないし、
命が救われた後、あの時死んでしまいたかったと泣く人、
家の手伝いをやめて学校に通えたけどその後、職はなくて、こんなことなら家の手伝いをすればよかった、こぼす人、

色んな声を聞き、
国際協力と言われる世界でされている様々な活動は多くがとても意味のあることで、大切な事、必要な事、なんですが、私がどれだけ考えてこの領域が善いと考えても、それは所詮私の枠組みで見た善い事で…と沼にはまり、どのアプローチも選ぶことが出来なくなってしまいました。

人生の目的、を早くに設定しすぎて、それにとらわれているのかもしれない…国際協力にかかわることから一旦離れよう…と、
大学院に進学するつもりで、進学準備をしていましたが、本当にやりたいと思っていたら、いつでもその道に向かうことは出来る、と進学をやめ、後れ馳せながら就活の波に合流しました。

そして、普通の会社員になってしばらくたって、一人駅から家に帰っていた時、ふと

「心から笑っている瞬間は、その瞬間を切り取ればどこの誰でもしあわせなんじゃないなかな」

という当たり前のことが、頭に浮かびました。

高校時代に芽生えた、”笑顔”への思い入れ、
そして笑顔は連鎖する、一人が本当に笑顔になれたら、それを見た人も笑顔になれたりする、そんな循環の素敵さに、
ああ、これだ!とまたしても、すとんと腹落ちをして、

世界各地の色んな人をずーっと笑顔でいられるようにするのは難しいけど、笑顔の瞬間を増やす、世界の笑顔の総量を一秒でも増やすこと、
はきっと出来る、

そんなことを考えて、
「地球上の笑顔を1秒でも増やすこと」
を目指すことになりました。

AFRICLは国際協力?

ビジネスで、笑顔を増やす、
というところまで、お話してきました。

ここから、
なんでアフリカ?ベナン?
なんでお洋服?というところをお話させていただきます。

なぜ、アフリカのベナンという国なのか、というところは、
たまたまです。

インターンシップという形で数か月暮らしていて、大切な人たちがいて、そしてその人たちの生き方というか、文化というか、に惚れてしまったのがベナンだったからです。

ベナンで働いていた時、時間通りにことは一つも進まないし…情けない事・泣きたいこと、色んな事がありました。
でも、そういうときに、必ずベナンの友人たちが「Mais, C'est la vie」と笑ってくれました。

「Mais」は「けど」、
「C'est la vie」は、直訳すると「それが人生!」といった意味で、
ポジティブな場面では「人生最高!」みたいなニュアンス、
ネガティブな場面では「仕方ないよね」といったニュアンスで使われる言葉です。

思い通りに行かなかったり、悔しかったり悲しかったり、程度によっては人を責めたくなったり、自分の運命を嘆きたくなったり、そんなことが人生ってたくさんあると思います。
でも、そんなことがあることも、「人生」と受け止めながら、笑顔で生きる、しなやかさ、軽やかさを心底かっこいい、と思いました。

そして、こんな生き方が出来たら、日本の笑顔も増えるんじゃないかな、と。

物質的に豊かなはずの日本、もっと笑顔にあふれてて良いんじゃないかな、と思っています。
自分の好きなもの、自分がしあわせだ~と思うものに素直に、お金とか時間とか、自分の資源を使って、自分をしあわせにできることが当たり前になったらいいな、と思っています。

また、ベナンを始め、所謂途上国に対して、
経済的な成長の真っただ中にある国の、豊かな文化を、経済的に成長した未来にも繋ぎたい、と思いもあります。

ベナンをはじめ、多くのアフリカの国々では、あたたかさ、おおらかさに溢れた人たちが、照り付ける太陽のもと、今日もパワフルに暮らしています。

そして、同時に、これらの国々は、多くの組織からの支援や外国資本の流入を受け、追いつけ追い越せの成長の入口あるいは真っただ中でもあります。
パワフルさの裏で、伝統的な生地の消費は細り、ハイブランドの中古品や偽物をは身に纏い得意げにしている若者が増えている、それもまた今の姿です。

日本が、明治維新や高度成長期に、欧米の国々からの補助やサポートの中で、追いつけ追い越せの物質的な発展をしてく中で、それらの国々の文化が重用されて、それまで日本で大切にされてきた文化の多くが失くなってしまったり、細ったり、日本人の価値観もたくさん変わったのだと思います。

それは一概に悪い事ではないかもしれないけれど、それで失ったものもたくさんある、それは残念な事だったんじゃないかなあ、と思っています。
そして、成長期を迎えている今の各国の様子に、かつての日本を重ねてしまいます。

「今に至るまで、彼ら自身が大切に紡いできた精神的、文化的な豊かさや伝統が、物質的な発展の先にも繋がり、その国の人々が誇りに満ちた顔で笑っている未来を描きたい」これがベナンをはじめとする国々に対する、AFRICLの願いです。

 そして、ベナンで私が心底惚れた、職人さんの高齢化、若者がかっこいいと思っていない…といった課題を持った文化が、バティック(ろうけつ染)だったこと、

直接会えない人も笑顔にしたい、と思ったら何が出来るか?一時的な笑顔ではなくて、出来るだけ長く笑顔を生み続けるには?と考えた答えが、お洋服でした。

私自身、お洋服の力を借りたことが何度も何度もあります。

自分の身体を綺麗に魅せてくれる服で気分を上げたり、
ちょっと張り切って買ったジャケットに自信を借りたり、
大切な人からもらった一着に、安心感をもらったり、
お洋服がなかったら、笑えなかった日が、たくさんありました。

だからこそ、
AFRICLのお届けするときめきが、日本の方の笑顔のきっかけになること
そして、ベナンの伝統文化への賛美が、ベナンの職人さんたちの笑顔と、それを未来に繋ぐことに繋がること、
をAFRICLは目指します。

おまけ&ありがとう

ここまで、長々と語ってしまいましたが、
お付き合いいただき、誠にありがとうございます。

AFRICL、というブランドに込めた想いは、
アパレル未経験の私が自分のブランドに込めた想い
でも語っておりますので、よろしければご覧ください。

自己紹介のつもりが、結局AFRICLについて語ってしまった…

"私"の情報を少し補足させていただきますと、
ちょろっとお話した会社員時代は、
3年くらいサラリーマンというものをやってみる、のつもりが楽しくなってしまって6年弱勤めました。
サラリーマン時代の属性は、生保でシステム開発、システム企画を担当していて、金融×IT の人でした💡

夢を持ったうえで、生保という業界を選んだ理由は、
大切な人とのお別れ、という出来事を
淋しい、悲しい、だけじゃなく、家族の生きる選択肢をも奪う出来事、にしないための商品、が生命保険だと考えたから。

日本では広く浸透しているけど、海外ではそもそも概念として浸透していない国も多く、そういう国ほど、稼ぎ手、に何かあった時の家族の生活への影響が大きい。
0を1にはできないけど、大きなマイナスが発生しうる状況で、そのマイナスを補填する備えをする考え方を伝える、商品を提供する、それが出来るのが生命保険、と考えて、新興国市場に力を入れている生命保険会社、に就職しました。

ITという畑も自分で志願して行かせていただいたのですが、
世の中の仕組みはITで作られているから。
ずーっと文系だった私ですが、色んな物事の枠組みであるITにアレルギーがない人でありたい、基本的なところがわかる人になりたい、そんなことを考えてIT部門を志願。
結局、これが楽しくて…、この畑に骨をうずめることも考えたりで、3年のつもりがのびのびになりました。

そこを飛び出るきっかけは、自分の年齢と女性という属性。
私はできれば"母親"というものになりたい、今年30になる女です。
そして、母になれたら、「自分の好きな事して生きな、自分の人生のドライバーは自分だけだよ」とくさいことを背中で語りたいのです。

そう考えたときに、ずっと追いかけてきた自分の人生の目的、を人生の端っこにおいた生活をしたままの自分で良いのだろうか、人生のど真ん中にAFRICLという夢の実現方法を置いて生き始めるのは、母になりたい、ということを考えると、今がラストチャンスなのではなかろうか、と、2020年に思いきりました。

退職まで、相談に乗り続けてくれた上司、先輩、
そして今もどうしてる~?と気にかけ続けてくださる会社の皆さま、
安定のレールをはみ出す決断に、いいね!と言ってくれた家族、友人
ものすごく心配かけたけど、AFRICLのサンプルを纏って、かわいい!!と笑顔になってくれた両親、
アパレル未経験で、ご迷惑をおかけしてばかりの私に、一つ一つ教えて下さり、お付き合いくださっている皆さま、
アフリカとの深いネットワークもない中で、ご縁を繋ぎ、サポートしてくださるアフリカ関連コミュニティの皆さま、
発売もしていないブランドのSNSをフォローして、嬉しい反応をたくさん下さる皆さま、

"ない"だらけで、私がAFRICLの準備をここまで進めてこられたのは、
一人で運営をする中で、不安につぶされずにここまで歩めたのは、皆さんのおかげです。

本当にありがとうございます。

これまでもお世話になった皆さん、
そして、はじめましての皆さん、
これからもよろしくお願いいたします。


これから

これから、noteでは、下記のようなお話をさせていただく予定です。

<AFRICL関連>
🌈AFRICLのメディア(HPやSNS)でお話することではないのかな~
と思う、けれどもAFRICLにかかわるような内容(裏情報?)
🌈AFRICLのメディアでは語り切れない細かい情報
<その他>
💡個人事業を始めてみて、困ったことや学んだことのメモ
💡自分自身が考えていることの発信(ジェンダーとか、サステナブルとか?)

マガジンに分けて作っていく予定なので、
興味のあるところだけでも、読んでいただけたら嬉しいです♪

改めまして、これから、どうぞよろしくお願いいたします!

<リンク>
・AFRICL関連マガジン
「AFRICLの中の人」
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