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【ブラタムラ】京都 山科|後追いブラタモリ

こんにちは。
実は街歩きや地理が趣味のすけです。

もっと様々な街の地理・歴史・街歩きが好きな人が増えてほしい!と思い、ブラタムラ(本名が田村です)と称して、個人的な趣味をnoteに投稿する試みです。

今回は2023年5月20日放送されたNHK番組「ブラタモリ」を後追いする記事を書いてみようと思います。普段から自分用にメモしていたので、アウトプットの場もほしいなと思って書いてみます。

屋久島に旅行予定の方、行ったことのある方たぶん面白いと思うので是非ご覧ください〜!

テーマ|要衝・山科は何を生んだ?

京都の大学に通っていたのですが、山科は通過したことしかない、、
ただの住宅街のイメージしかなかった山科が何を生み出したのかブラブラ歩いて解き明かします。

地図を見てみるとイオンがあるんですね。市街地に行きやすくて、買い物にも困らない点で桂とか雰囲気は近そう。

地形も京都市街地と同様、典型的な盆地です。

百人一首にも出てくる逢坂山

最初にやってきたのが、山科盆地の北東部、逢坂山。何か聞いたことあると思ったら、百人一首で三首も詠まれているんですね。その中の一首をピックアップ。

これやこの 行くも帰るも 別れては
知るも知らぬも 逢坂の関

第10首 / 蝉丸

聞いたことある、、!

「これがあれや、都に行く人も帰る人も、知り合いも知らん人も、別れるたり会ったりする逢坂の関でんがな」
(「会う」と「逢」が掛かっています)

という意味だそうです。

つまり「逢坂関は人が多かったよ」ってことが書かれています。

京都から滋賀への帰り際に別れる人たち

昔から重要な交通ルート

人通りが多かったのはやはり交通の要衝になっていたからですね。海運・陸運ともに山科は多くのルートが交わる結節点でした。

瀬戸内海方面(淀川経由)と日本海方面(琵琶湖経由)の水運
逢坂関で交わる街道

短い峠が交通の要衝を生んだ

ではなぜ山科は交通の要衝となったのでしょうか。
それは地形的な必然がありました。

逢坂山の峠まで行ってみると、現在は道の部分だけ山が切り崩されているのが分かります。

近代以前はきっと峠のままでした。

さてこの峠なのですが距離が非常に短いことが分かります。
Googleストリートビューで峠を移動してみてください。直線距離で300mほどしかないそうです。

この短い峠の秘密は地形にありました。

南北から押されてたくさんの断層ができた

地形図をみると南北に高い塊があることが分かります。この塊がぶつかり合うことで、間は凹んだ地域ができました。

南北に挟まれた谷間

そして周りから押されることで小さな断層ができたのですが、そのうち2つの谷が両側から迫る場所ができました。その場所こそが逢坂関です。

谷に挟まれて短い峠になった


人が多く行き交う山科は多くのものを生んだ

そんなこんなで多くの人が行き交った逢坂関。近くの山科は必然的に交通の要所となりました。

そして多くの人が集まる要所には、歴史的に重要なものがたくさん生まれます。

何が生まれるのか?次回noteに記そうと思います。

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