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男性不妊検査を受けた時に考えたこと。 それと魚について。

「なぁ不妊検査受けてみてくれへん?」

妻がこう言ったとき、私は夕食の煮イワシを口にしようとしていた。

リビングダイニングのテレビでは『世界ふしぎ発見!』の女性レポーターが、ダ・ビンチがゴニャゴニャと私達へ熱っぽく語りかけている。

私はイワシの梅煮が好きだ。

その日はそれをご飯のおかずとして食べるか、はたまたビールの肴にすべきか悩んだ結果、半分はご飯と食べ、残りはビールでゆっくりと楽しむことに決めたのだった。私は既に濃口醤油と砂糖で甘辛く煮込まれ、つゆで骨まで柔らかくなった何尾かのイワシを、ビールの爽やかな旨味で流し込んでいた。もちろん一緒に煮込み、ひたひたになった梅干しも残さず白飯で楽しむつもりだ。贅沢な夕食だ。

我々夫婦は、妻が大阪出身で、私は東京出身だ。そのため会話は関西弁と関東弁が入り交じる。

妻のこの問いに、私は反射的に「えっまじで」と言っていたと思う。これは質問への返答としては、的を射ていないことには気が付いていた。

我々が子供を意識し、半年が過ぎていた。

妻は会社帰りに職場付近の産婦人科に通い『計画の進捗可能性が高まる日』を医師からアドバイスされていたが進展が見られなかった。

だから私も妻の言うことはよく理解ができた。

ただ私もひとりの人間に過ぎない。まずは感情が先行し「できれば避けたいし結果は見たくない」という気持ちを抱いたことを覚えている。

ただその感情もしばらくすると落ち着き、若干の理性を取り戻すと、その必要性はわかっていながらも「ん、そこまで必要かな…」とむにゃむにゃと言った記憶がある。

我々は論理的とまでいかないが、比較的理由が無いものには動かない、かつ手を出さない性格だ。もちろん趣味その他が一致しないこともあるが判断軸というか価値観は近い。

妻は「そこに問題があったら進まへんし調べてみたほうがええって」と言った。そのとおりだった。

私は「わかった。ちょっと検査に必要なものとか、どうすればいいかとか、病院で聞いといて欲しいです」と言った。

なんだかイワシの小骨のような些細な心配が胸に刺さったような気分だった。もし私の生殖細胞に問題があったとしたら我々二人にとって残念なことになるのだろう。

私はビールグラスを片手にテレビに目をそらし『世界ふしぎ発見!』をぼんやりと眺める。相変わらずダ・ビンチがどうこう言っている。すると何だか大げさではあるがダ・ビンチの絵画『受胎告知』について連想した。

私は古典絵画、特に西洋の宗教絵画や神話画の雰囲気があまり得意ではない。ただ知識として知る限りではそれらには『アトリビュート』という、このテーマにはこの要素を描くべしという約束事がある。

宗教絵画『受胎告知』は非常にメジャーなテーマでダ・ビンチの他にも様々な画家が作品を残しているが、このテーマの場合は『アトリビュート』として、必ず白花(白百合だったと思うが記憶が曖昧だ)を描く必要があり、さらにその白花には『雄しべは描いてはいけない』という約束がある。恐らく男性が関わらない妊娠であることを示唆しているのだろう。

ただ、ダ・ビンチのそれにはさらりと雄しべが絵描かれている。彼ほどの人物であれば、その約束事は間違いなく知っていたはずだ。あくまで私の意見だが、それは科学者でもある彼が論理的な整合性を考慮したと考えている。しかしながらその理由は、もはや彼本人しかわからない。

私はビールをもう一口飲み、その軽い苦味を感じる。テレビでは赤黒いスーパーひとしくんが陽気なBGMとともに没収されていた。

***

そもそも私達が子供を求める理由はなんなのだろうか。

私は経験をしていないことに関する想像が著しく苦手だ。そうした私には『子供がいる生活』はあまりにイメージが難しかった。また子供がいる知人への経験談を聞くが、各家庭で親子関係、環境、性格が異なるため、話の傾向も一様でなく、実感を得ることは難しかった。

妻ともこの点については改めて話をしたが、私達の場合はシンプルな理由に行き着いた。

それは子供がいるほうが楽しそうだということだ。私も妻との子と生活するのであれば楽しそうだと思った。私は妻との生活を気に入っている。何しろ食べ物の趣味が合うのは素晴らしい。ご飯も妻と子供も一緒であれば更に楽しくなるのではないか。

妻が検査の方法を医師に確認してくれた。思った以上にそれは簡単で単純だった。まず家で私の生殖細胞を採取し容器に入れる。それをその日のうちに病院に持っていき検査をする。結果はすぐにわかる。それだけだ。金額も数千円程度とのことだった。私達は、ある休日の午前中に受診と検査の予約をした。

***

受診当日、私は午前中に、やや苦戦しながらも私の生殖細胞を採取し容器に閉じ込めると、病院の無機質な封筒に入れた。そして封筒は妻の普段使いのハンドバックの中に埋もれていった。

身支度を済ませ、妻とともに阪急電車に乗って産婦人科へ行った。

ホームでしばらく待つと『電車が到着します』というアナウンスとBGMが流れ、あずき色に塗りつぶされた阪急の車体がしゅーっと滑り込んでくる。何気なく一両に目をやると、そこに白い花を形どった阪急電鉄のロゴマークが絵描かれていることに気が付いた。そのロゴマークの白花には阪急のアルファベットの頭文字『H』が組み合わされており、その『H』は力強い2本の雄しべのようだった。

春先で花粉症も残る頃だったと思う。土曜の午前中の車内は人もまばらだった。私達はあまり多く会話をしなかった。車内に差し込む日差しは柔らかで暖かく、眠りを誘った。妻と私と細胞は電車の揺れに穏やかに身を任せた。駅に到着すると、そこから数分歩いて病院に到着した。

妻が受付の女性に来訪を告げ、例の封筒を渡した。女性の看護師は事務的にそれを受け取ると、しばらく待ってほしいと言った。

私はかなり緊張していたが、産婦人科は清潔感があり一般的にリラックスできる雰囲気ではあった。そして午前中でもそれなりに人がいた。お腹の膨らんだお母さんが活発に歩き回る子を連れて来ていたり、私達のように夫婦で来ている方々や、もちろん女性1人で来られている方もおり、様々だった。それぞれが状況の異なる悩みを抱えていることを思うと不思議な気分だった。私とは比べものにならない困難な悩みに対処している方もいたかもしれないのだ。

そんな風景を見ていると私はタレントの新婚夫婦に「子供が何人欲しいですか?」とリポーターが質問することでさえ、はばかられるべきことのような気がした。本人達は気がついていないだけで、望んでも叶わない可能性がある。また私も、これから聞く結果次第では、仲の良い友人でさえ「子供はいいぞ」言われた場合、内臓を焼かれる気持ちになるだろうと思った。

待合室では時間が長く感じられ、やけに頭が冴えた。何の脈絡も無く様々な考えが浮かんだ。ふと私は小中学校時代に、授業で顕微鏡内の男性生殖細胞の小刻みな動きを見た時に貧血気味になったことを思い出した。クラスでも体調を崩したのは私だけのようだった。あの独特の動き、細胞が網にかかった魚のように細かに動く姿を見るとなぜか血の気が退けてくるのだ。

私も小刻みに揺れたい気分になる。どうも落ち着かなかった。

もっと様々な悩みを抱えている方がいるのもわかる。ただ私にとってはこれから聞く結果が重大事だった。結果次第では、数分後を境として、待合室で遊んでいる母子の見え方すら変わるなと思った。

名前が呼ばれ診察室に入ると、髪の毛を丁寧に整えた柔和な顔立ちの、少し鼻が大きな中年男性の医師がおり、私は簡単に挨拶をした。

私の緊張は最大限に達していた。これまでの人生で最も緊張した時間の一つだったと思う。脳が明らかに取り乱しており、彼にダ・ビンチの絵画に雄しべがある理由を聞いてみたくなった。彼なら全て分かっているような気がした。医師の指差したモニターには私のものと思われる生殖細胞が薄い水色の背景とともに投影されていた。それらはやや元気が無いように見えたがやはり小刻みに動いていた。

私は軽い貧血を覚えた。

そして医師はゆっくり私を見ると、柔らかい口調で「運動量が少し弱いですが、問題はありませんでした」と言った。

***

張り詰めていた緊張から解放され、気が軽くなったその先はあまり記憶が詳細ではない。

胃は精神的な問題と連結すると言うが、急に空腹を感じ、妻と駅近くの定食屋に行った。

私が煮付け定食を、妻は焼き魚定食を注文した。

定食が来るまで、お茶を飲みながら妻は関西弁で「良かったなぁ」と言った。私は「うん」と答えた。ただ妻の方に問題がある可能性も残されている。問題は解決したわけではなく、より複雑化していく可能性もあるのだ。

テーブルにことりと置かれた定食はカレイの煮付けで、湯気とともに甘辛く食欲をそそる香りがした。煮魚の大骨をつるりと剥がすと、小骨も簡単に身から抜くことができた。関西風の煮汁とともに、ほろほろの身を口に含む。ふとこの魚の細胞の一部が私の生殖細胞になるのかもしれないなと思った。

そしてその細胞が私の息子もしくは娘になるのかもしれない。

輪廻転生について、無頓着な私は考えたことは無い。ただ細胞から蛋白質の一部が受け継がれるという物理的な意味ではその可能性もゼロでは無さそうだと思った。

もしかすると私の最初の細胞も母が作り父が食した味噌汁の豆腐だったのかもしれないし、おでんのイワシのつみれだったのかもしれない。

***

数カ月後、妻は妊娠し安定期に入った。そして小さい男の子が産まれた。

その子が産まれてから数年経つが、それからはそれまでの人生経験とは別種の大変さを経験し、それは現在進行形だ。

大きく変わったのは時間だろう。これまで時間は自分でコントロールするものだったが、子供が産まれると時間を子供のために割かなくてはならず、自分の時間がほとんど持てなくなった。また様々なシーンで子供を優先する必要もある。私がある程度の経済的な自由を得、時間も自分で差配できるようなったのが20歳前後とすると、完全に自分の意思だけで物事を判断できた期間は10年程度しかなかった。ただ、つきなみな表現にはなるが、大変なことも多いが楽しいことも多い。

私は自分の子にもプライバシーがあると思っている。そのため現在の息子のことについて、ここで話すつもりは無い。

ただひとつ言うと、私の息子も魚が好きだ。

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