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飲食店へのネガティブレビュー、それ相応の"責任"を持てますか?

悲しく痛ましい出来事が起こらないとコトの重大さに気づけないのは、人間の悲しい性質だなぁ…とつくづく思うわけですが、どうやら僕たちが成長していくためには、この繰り返しで学んで行くしかないみたいです。

今一度、この問題について考えてみたいと思います。

「心を動かしてしまう」ことへの責任、持てますか?

飲食店のレビュー文化がここまで発達し、一般化したのは、僕たち人間が「失敗したくない」という心理を強く持つ生き物だから、という説があります。

ご自身の過去を振り返ってみていただけたらと思うんですが、きっと食べログやGoogle mapのレビューを見るときの観点って、「どんなものが美味しいんだろう?」よりも「このお店に低い評価付けてる人いないかな?自分がここに行って、ガッカリすることはないかな?」の方が強いのではないでしょうか(前者の役割は、SNSが果たすことが多い)

偉そうに言っている僕も、バッチリこれです。カフェは先入観を持たないために自分の感性を最優先しますが、その他の飲食店ではかなりレビューを参考にしています。

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ということは、レビューを見るということはすなわち「誰かによって書かれた主観的情報」の影響を受けに行っているということで、裏を返せばレビューを書く時点で「誰かの心を動かしてしまう可能性と責任」が発生しているのです。

この流れが既に、文化として定着してしまっています。

飲食店という"ハコ"を批判しているつもりでも、その先にいるのは"ヒト"だから

レビューによって心を動かされるのは、お客さんだけでしょうか?

そうではありません。むしろ、お店の店主さんや関わるスタッフさんの方がその"声"を聞いて、心を動かされています。

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レビューではしばしば、お店で提供される商品や空間での滞在体験などについて言及されます。

商品や空間は、"ヒト"ではありません。ここでは、"ヒト"以外の全ての要素を内包する言葉として"ハコ"と称しましょう。

ヒトではないから、感情を持たない。
だから、ハコの批判なら遠慮なくしても良い?

そうじゃないんじゃないかなぁ……と、僕は思いますよ。

そのハコは、店主さんやスタッフさんの「来てくれるお客さんに喜びや幸せを届けたい」という願いが形になった商品や空間です。

「他のお客さんが悲しい思いをしないために」という"正義感"のつもりでハコを批判することが、その先にいるヒトの努力やこだわり、想いの批判につながってしまっている可能性がある、ということを忘れてはいけません。

お客さんと同様、お店の人も「心を動かされに」レビューを見に来ます。

衝動的に書きたくなった強い言葉でのそのレビューが、読んだ人の心を動かした結果、何らかの行動を生み出すかもしれません。

……その行動の結果に、責任を持つことが出来るでしょうか?

今、僕たちが直面しているのは、こういう問題です。

それでもネガティブレビューをしたくなったら

僕がこのnoteで言いたいのは、「ネガティブレビューはするな!」ということではありません(勘違いを生みそうなので、一応)

ここまでお店の人側の目線で書いてきましたが、一方で「あー、お腹すいた!このお店の○○、写真で見たらすごい美味しそうだったな。楽しみだなー!」という"幸せへの期待"を抱いてお店に来たのに、フタを開けたら料理も接客もがっかり……ということも、たまにはあるわけです。悲しいですよね。

まさかお店側も、お客さんを悲しませようとして営業しているわけではないと思うので、適切なフィードバックが次のお客さんの幸せにつながる可能性もあります。

大事なのは「伝え方」です。

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感情に任せて何から何まで否定してしまうと、傷つく人をむやみに増やすだけです。そうではなくて、

・「批判」ではなく「愛ある提言」というスタンスで言葉を選ぶ
・主観(意見)と客観的事実を切り分ける
・書き込む前に「なぜ、自分が今悲しかったり、怒ったりしているのか?」について俯瞰的に自分を見てみて、整理してみる

このような一工夫をすると、相手に的確に届く伝え方が出来て、より良い飲食店という空間になるんじゃないかなと思います。

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