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発達障害は何のために生まれてきたのか

発達障害は何のために生まれてきたんだろう、そう考えるときがたまにある。どんな病気や障害もつらいけど、発達障害はタチが悪いからすごく困る。しかも、小中高はレールの上に載せられて、決まったクラスで自分が嫌でも授業は進んでいくものだったけど、大学に出て期限までに教材を買わないといけないかったり、社会人になってケアレスミス勃発で大人になってはじめて気づく「大人の発達障害」というのも多い。しかも障害なのである程度治す努力をして身に着けることはできるけど、完治することはない。
心や頭のどこかしらに「生きにくさ」を常に抱えて死ぬまで生きていかなくちゃならない。なかなか人生ハードモードだ。

しかも「発達障害」のワードは広まりつつあるものの、その中身までは意外と認知されていない。たとえば「アスペルガー症候群」(ASD)の名前が広がった時、「アスペ」、「アスペはコミュ障」というのが流行った。ASDだけじゃなく発達障害は全てグラデーションなのだから、みんながみんな「コミュ障」でもないし、なんならそう言っている人よりも私の方が話上手いですけどね、ペッと唾をかけて対抗したくなる。じゃあそのアスペについて説明してくださいよといったところで、「コミュ障」という知識しか一般人には無いのだから聞いたところで堂々巡りになるだけだ。じゃあ教えると言ってASD/ADHD/LDのことを話したって伝わりやしない。というかいきなりそれをしたら発達障害みたいな行動になる。急に私を知ってだなんて、おこがましい。のかな。

依然違う記事の中で、発達障害はエラーだと書いた。工場で人間が大量生産されている中のバグ。たまたま発生したエラー。だから、特別な使命も、ギフトも持っちゃいない。想像力に長けている人なんてフツウの人と同じくらい希少で、アインシュタインだとかイーロン・マスクと一緒にしないで欲しい。この前気まぐれでバーに入って自分は発達障害があると言うと、マスターから起業しなよ!想像力を生かしてね、と言われた。それが無理なんだ。うーん、発達障害自体のつらさもあるけれど、妙に期待されている感じもつらい要素の一つだと思う。私は凡人に発達障害の嫌な特性を付け加えた「メンドクサイ女」と自負している。でもこうやってnoteに書くのは苦じゃないし、誰かのためになっているならいいことだと思うけどね。ほら、凸凹でしょ。

そのアインシュタインやイーロン・マスクとかの著名人たちのおかげで、発達障害者は健常者と比べて「発達しすぎている」という説がある。だから健常者(フツウの人)はついていけない、あるいは理解が難しい時があるし、人と違った感性を持つことで革新を生み出すこともできる。これは私は一理あると思う。私は彼らみたいな発明はできないけれど、日常でのアイデアはポコポコ生み出すことができる。証拠として、noteだって毎日更新してる。一日に2,3記事だすこともある。休職中だから書けるということもあるんだけど、専業noterでもないのに自分の中ではなかなかのアクセス数を叩き出せていると思う。だから、数打ちゃ当たる理論でやってるけど、なかなか満足している。

もうひとつの説を伝えよう。それは、「発達が人よりゆっくり進んでいる」という説だ。説と書いたのは、どちらも確立しているかもしれないけど、私の中ではまだ完全体な論理じゃないなと感じているのと、発達障害自体歴史が浅いので”説”とあえて表現している。まだまだ解明されていないことだってたくさんあるのだ。この、ゆっくり発達説では、いまはたとえばコミュニケーションなどで上手くいかない理由は、コミュニケーションが上手くいくようになる発達過程が発展途上国であると考えている。これについて私は半分賛成、半分反対だ。賛成の部分は、例えば衝動性は年々穏やかになっていくことが予想されるし、実際私もそうだったから。反対の部分は、障害者雇用で働いていた時、中年男性でもそれはそれは生きづらそうに自分の障害と闘っていたのを間近で見ていたからだ。ゆっくり発達しているなら、いくつになったら完全体だと示してほしい。でも医者さえハッキリとは示せない。ゴールのない暗いトンネルの中をずっと走り抜けているようだ。

本当に発達が進むなら、然るべきときに、人生が最も成熟するせめて40代までには発達が健常者と同じレベルになっていて欲しい。私はそれを切に願う。

最後に。

私は、発達障害を持って
生まれてきたことに後悔はしていない。

していないが、
もし、発達障害を持っていなかったら、
どんな世界が見えていただろうと、時々考える。

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