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小山田圭吾氏は本当に悪いのか 〜無責任に批判する人々〜

1.はじめに

この記事を読もうと思ってくださった方にまず感謝を申し上げます。そして最初に皆さんに謝っておきたいのは、このタイトルは少しでも多くの方に見ていただきたいと思った為にやや大胆なタイトルにしてしまいました。基本的に誇張的なことはあまり好きではないのですが、そうでもしなければ一人の人間がある情報による推測に基づいた正義感の集団リンチによって妥当ではない名誉の棄損を受け、社会的に抹殺されるレベルの仕打ちを受けたままになってしまうと思ったからです。もちろん当事者ではない私自身が見た情報の集積による推測なので誤りもの可能性も多分にありますが、多くの方々もある記事の一部を見ただけで彼の人格を推測しているので「こういう風にも彼の行動や人格を解釈できるのではないか?」という少し違った提案を私がしてもそこまで差し支えはないかと思いました。

(なお現在や過去にイジメの被害になって大きな傷を負っている当事者や障がいを持つ方々、ならびにそのご両親はこの記事に気分を害される可能性もおおいにあります。しかし私なりに精一杯の配慮をもって記事を書かせいただいたつもりなので、ご容赦ください。)

まずこの記事は前提として、彼が自身のイジメについて語った雑誌 『Quick Japan』95年3号 「いじめ紀行 第1回ゲスト 小山田圭吾の巻」を元に彼のいじめについての私なりの評価をしたものです。私の記事を読む前にぜひ上記も読んでいただけたらと思います。(Twitterで検索するとすぐにその記事を見つけることができます)
また私は彼がオリンピックの理念に相応しい人間かどうかと言った話や、掲載誌の倫理感等については言及するつもりはありません。あくまで記事を元に小山田氏の人間性について世間がそこまで批判できるのか?というメッセージを多くの人に投げかけようと思っただけです。以降の本題は読解力のない方はいまいち理解できない論理構造の文章になっているかもしれませんができれば最後まで読んでほしいです。

2.記事を読んだ感想と私の経験にもとづく考察

元記事を読んで私がまず最初に抱いた感想は「広く出回っているものには露悪的なピックアップや誇張がなされているな」というものです。小山田氏がおそらく直接的に行っていないものも含まれており、それらは彼に対してのヘイトを助長するものであると判断しました。
そして小山田氏の行動に感じたのは、知的障がい者の同級生を「関わるのが面倒なアンタッチャブル」として恣意的に自分の意識やコミュニティから切り離した外側へ置くのではなく(とても簡単な言い方をすると「無視」のこと)、「鈍臭くて変わった同級生」と解釈して健常者のコミュニティの内側(つまり健常者と同じ情報処理のスピードや不文律の水準を備えていることが前提である空間)へ引き込んで融和させようとする子供が起こしてしまう不器用で残酷なコミュニケーションの結果だと思います。この抽象的な感覚はある程度の大人になって今改めて振り返ったからこそ言語化できたわけで、少年時代の私はこの感覚についてはずっとモヤモヤしたままはっきりとは知覚出来ていませんでした。と言うのも、私も中学時代に軽度の知的障害を持った同級生がいた経験があるからです。当時その同級生は同じ部活動にも所属していましたが、私自身はあまり積極的に関わろうとすることはありませんでした。しかし、中には彼の鈍臭さに対してちょっかいを出す人もおり、場合によってはそれがエスカレートしている時もありました。私自身はそれに距離を置き、場合によっては苦笑いでその場をやりすごしていました。地域柄もあり荒っぽいコミュニケーションがしばしば横行していたので、私自身も粗暴なコミュニケーションの当事者でもありました。 (粗暴なコミュニケーションとは遊び半分で肩や腹部を殴ったり、殴られたりするようなものです。これらは私がいた学校では頻繁にあるもので、私はやる側とやられる側の両方でした。私自身は体が虚弱で口達者といったタイプで「ヒットアンドアウェイ」が常であり、あとはしゃべりでその粗暴なコミュニケーションをなんとか乗り切っていました。どうでもいい情報のように思えるかもしれませんが、私は体が弱い分ターゲットにされる頻度も比較的多く辛いときもありました。しかしやられっぱなしだと、客観的にもいじめられっ子のように見えることが状況をさらに悪化させると本能的に感じ、さらにはプライドもそれを許さなかったので様々な手段で抵抗しました。恐らく同じような荒っぽい環境にいた方はなんとなくこの「粗暴なコミュニケーション」については分かってもらえると思います。つまりは私は今の価値観で言うところの"いじめ"にも、"いじめられること"にも片足を突っ込んだ経験があります。)

少し脱線しましたので話を戻します。そういった粗暴なコミュニケーションの中で軽度知的障がいをもつ同級生に対する嘲笑や暴力が時にいじりの範囲を逸脱しているのを横目にしながらも、それに対しては関わりを持つことなるべく避けた私は、面倒ごとに関わりたくないだけではなく、そもそも彼に対しても最初から真面目に関わる気がなかったのではと今になって少し思うところがあるのです。一般的な感覚の人からするとやはり彼は会話のテンポになかなかついては行けず、またスポーツにおいても動きが鈍いところがありました。健常者の友人ならそういった鈍臭い振る舞いに対してちょっと小馬鹿にした感じで笑ったりすることは容易いのですが、彼に対してはなかなかそうもいきません。彼はコミュニケーション自体には比較的積極的でしばしば友人に話しかけ、意図してボケたりすることもよくありました。しかし当時の私はそれに対してどう反応して良いかわからず、話を早めに切り上げて去って行ったことがしばしばありました。
対して粗暴なコミュニケーションを行なっていた人たちは、彼に対して良くも悪くもフラットに対応します。変わった発言をしたら頭を叩いたり、「バカ」だといってからかったりすることも厭わないやり方です。しかし彼らは少なくとも私よりかは知的障がいのある同級生に対して多くの時間を費やしたコミュニケーションをとっていた様にも思えるし、当事者も時にはちょっかいをかける彼らと楽しそうにしているような瞬間が少なからず見受けられました。そして小山田氏の件も、元記事を読むとそれとどこか似たものを感じるところがあるのです。

元記事を読むと、小山田氏の障がい者の方々への積極的なアプローチが見て取れます。その中には客観的に見て明らかに見下した態度で被害者の尊厳を傷つけるようなものが多いが、友人的な振る舞い(頻繁に鼻水を垂らす沢田さん<仮名>へテッシュを買ってあげたり、卒業式の挨拶の話など)のエピソードも出てきます。そして記事の最後にはその沢田さんから届いた年賀状も載っているのですが、たどたどしい字で「明けましておめでとうございます。手紙ありがとう。三学期も頑張ろう。」と書かれています。これは推察ですが、小山田氏は沢田さんに年賀状を送った数少ない同級生の一人がだったのではないか。文面からは先に送ったのが小山田氏であるようにも見受けられます。

恐らく小山田氏はいじめ被害のパーソナリティについて皮肉にも他の同級生より多くを知っていたのではないでしょうか。彼といじめ被害者は関係性こそ歪であったにせよ小山田氏は沢田さんにとっての数少ないコミュニケーションの相手だった様にも思えます。(しかしご両親のお気持ちなどを考えるとこの推論は憤りを感じるものであることは承知しておりますので、現在知り得る状況から判断される小山田氏のいじめ行為を安易に美化するべきものでもないと考えております。)

3.いじめ問題に関する私の考えと、この記事を私が書いた理由

私は「いじめ」はいじめる側が悪く、責任も加害者にあると思っています。しかしいじめの原因は加害者と被害者の双方、そしてそれらを取り巻く環境こそががとりわけ大きく寄与するものであると断言します。(いじめられる方にも「原因」があるということは憚られる言葉ですが、「責任」はないと念のためもう一度申し上げておきます。なぜなら「原因」とは気の弱さや体の弱さなどのターゲットにされやすい性質という意味も含まれるからです。)

学校は閉鎖的で治外法権じみたところがあり、そこにさまざまな性格や能力を持った子供がないまぜになっている環境です。その中では性格のミスマッチは当然起こりうと思いますし、そのフラストレーションの解消が「暴力や暴言」、「仮想敵によって得る連帯感のための排除」に発展することを避けるのは困難であると思います。後者は大人でもしばしば見られる現象でもあります。いじめは「極めて構造的な問題である」と私はここで多くの方に強く認識していただきたいと思っています。

また私がこの発信をする意味があると思った理由は、こういった複雑さが推察される事情を彼自身の口から発することはとても困難な作業であり、一部恣意的な誇張されている部分が仮にあったとしても実質弁解は不可能なことだと考えるからです。当時からは大きな年月が立ち、いい大人と言える年齢である彼自身、おそらく行なったことの一部に対する自省は少なからずありながらも、どこか関係を持とうと試行錯誤し(そのエスカレートは悲劇的なものも見受けられますが)、第三者の私はたちからは図ることのできない友情の意識も心にほのかにあるが故にこの件に関しては謝罪したくない気持ちもほんの少しあったのではないかと思います。というのも謝罪すれば彼の行なってきた様々なコミュニケーションが「鈍臭くて変わってるユニークな同級生へのからかい」から、全てが「障がい者いじめ」になり、「障がい者」として距離を置いて無関心を決め込み、できればあまり関わりたくないような気持ちでいた私のような周囲の人間と同じような認識(つまりは無意識の見下し)で彼らを常に見ていたと周りに無理矢理認めさせられることになるからです。

また、著名人や顔出しのインフルエンサーの方々はこの話題に触れること、また小山田氏を擁護したりする発言に対するリスクが多分にあると思うので匿名のフォロワーも少ない、かつ軽度知的障がい者の同級生を持っていた私のような者だからこそ出来る擁護であると思ったのももう一つの理由です。

4.おわりに

私の結論としては小山田氏の行為は「粗暴なコミュニケーションが度を超えた、人間の身体や尊厳に危害を加えるいじめと認識される類のものであった」と想定し、当時の倫理観の欠如に加え、それを面白おかしく振り返りながら話した行為は一般的価値観から言って批判されて然るべきものであると考えます。しかし小山田氏の一部行為だけではなく、無責任にも彼の人格やクリエイティブまで一刀両断して批判してしまった方々は私の書いた記事からおそらく言わんとしたいことが少しは理解していただけると思います。とりわけ文化人やインフルエンサー、マスコミでこの件を性急に人格と結びつけて評価した方々は、無根拠なヘイトを増強させた責任が多分にあると思います。オリンピックの開会式も終了し、この件は次第に記憶から少しずつ薄れていくことになってしまうかもしれませんが、今のままの理解のされ方では人々に「ろくでなし」や「最低の人間」とだけ記憶され、彼の今後の音楽文化への貢献機会を奪うことにもなりかねません。彼の人格が不当なまでに批判されることもさることながら、彼の音楽を聴いてもいない人間、もしくは音楽的な文脈や音楽への造詣がまったくない人間が軽口で書き込む小山田氏の音楽への侮辱的評価は何より最低なものだと思っております。(私は小山田氏の関わる音楽をそこまで熱心に聴いてきたわけではありませんが、音楽好きの端くれとしてフリッパーズギターやコーネリアスのアルバムは聴いたことがあり、前者は少し前の音楽シーンでプレゼンスのあったシティポップとつながりのある渋谷系、また後者は独自性のあるリズム感や空間を意識させるトラックメイクで音楽の創作もチャレンジしたことがある身としては尊敬に値する音楽的感性を持っており、日本の音楽シーンにに大きな貢献をしている方であると認識しております。音楽的な部分の説明は記事とあまり関係がないのでここまでにします。)

最後にお伝えしたかったことをまとめて今一度申し上げますが、いじめ問題は第三者が安易に断罪するにはあまりも難しく非常に構造的です。またTwitterを筆頭とするSNSでは多くの人が想像力を働かせず無責任に他人を批判しすぎている状況があります。想像力には個人差があるのでその有無は責める対象ではありませんが、何かに向ける批判、とりわけ一個人に浴びせる批判には極めて慎重になるべきです。イジメと言う行為自体が批判される風潮自体は社会的道徳感情の機能として健全かも知れませんが、主観的・感情的な判断で他人の人格まで断罪する行為は極めて傲慢で、そういった方々はいじめ問題を評価するレベルではないかと思います。

最後になりますが、私自身学生時代の時に軽度知的障がいのあった同級生とのコミュニケーションどうするべきだったのかは結局答えを出せないまま、そもそもそんな考え自体が自らを「健常者」という優越的地位に定義する人間が「社会が障がい者と定義する人間」に対して行なう極めておこがましいものではないのかといつも振り出しに戻ってしまいます。


補足
*いじめによる心体への傷が深い方で、この記事に不快感が募った方には改めてお詫び申し上げます。本記事は小山田氏が実際に行ったことが事実である可能性が高いいじめ行為自体については、社会的に擁護すべきでないと言う認識は持ちながら、アンモラルな行為をした人間の人格やアウトプットを丸ごと侮辱することに対する警鐘がメインテーマです。

*文中に出てきた「読解力のない方は理解できない論理構造の文章」という非常に高慢に聞こえる発言は、私の冗長な文章をなるべく最後まで読んで頂きたいがための下らない煽り文句です。不快な発言であることは自身でも分かりきっているのではっきりとお詫び申し上げます。

*この記事と同様の趣旨を私はツイッターでも呟いておりますが、かなりセンシティブなテーマであるため字数制限を意識した文章の論理的欠陥や盲点をなるべく排除したものを書くことも重要だと考え、これを書きました。

*後に誤字や文章表現の重複などを発見し、数回編集しております。本題の論理構成等に関しては手を加えておりません。




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