認知症とともに生きること
今日は「アリスのままで」という映画を観ました。
主人公のアリスは言語学者でことばを大切にして、生きてきました。しかし、アリスは50歳にして若年性アルツハイマーを発症し、彼女にとって、とても大切なことばがどんどん抜け落ちていくのです。そして、この病気は彼女の最愛の家族に遺伝することがわかりました。そんな中である日アリスは認知症の当事者として、講演会をすることになりました。私はその時の講演の内容にとても心が打たれたので、以下にその内容を載せます(ネタバレになるので、これから観ようと思っている方はとばしてください😂)。
私の人生は記憶に満ちています。記憶は私の最も大切な宝になりました。…私が人生で蓄えた全てが、努力して得た全てが剥ぎ取られていくのです。想像するようにあるいはご存知のように地獄です。もっと悪くなる。前と変わってしまった人間をどう扱うのか?おかしな行動と言葉のせいで人の私たちを見る目が変わり、私たちも自分を見る目が変わる。奇妙で無能力で滑稽な存在になってしまう。でも、それは私たちではない。私たちの病気です。病気であるならば、原因があり、進行もする。治療できるかもしれない。…私はまだ生きています。生きているのです。心から愛する人がいて、やってみたいことがある。ものを忘れる自分に腹が立つけれど、喜びと幸福に満ちた瞬間が今もあるのです。私が苦しんでいると思わないで。苦しんではいません、闘っているのです。世界の一部であろうとして。かつてそうだった自分であろうとして。だから、瞬間を生きています。瞬間を生きること。それがわたしのできるすべて。自分を責めないで。(太字筆者)
私は認知症を生きる人に初めて出会った時のことを今でもはっきりと覚えています。この人はおかしい。こんな風になりたくない。この人は可哀想だ。というネガティブな思いや感情が溢れ出してきました。認知症を生きる人々を私とは異なる存在として、モノ的に見ていました。今思うと、私の視線はとても差別的であったと思います。しかし、関わりを続けていく中で、いつの間にか偏見はなくなり、この人たちはどのような世界(時間性、空間性)の中で生きているのだろうという純粋な疑問を持ち始めました。認知症を生きている方々は、時折断片的な記憶について、お話をされたり、同じ空間にいるはずなのに異なる空間の中で生きていたり(施設の中であるのにその人には仕事場に見えているなど)、同じ時間が流れているはずなのに時間の流れが異なる(客観的な時間、時計で視覚的に見る時間の中では生きていない)のです。いや、そもそも私たちは同じ世界を生きているようで、みんな異なる世界を生きているのです。認知症を生きる人々との対話や関わりを通じて、客観的な世界そのもの、私たちが見てる世界そのものを問い直していきました。認知症を生きる方々の存在が私たちに問いかけているものは大きかったのです。アリスが言うように認知症を生きる人々は、全く奇妙で無能力で滑稽な存在ではありませんでした。
また、認知症があると、何度も同じことを繰り返すことや人の顔や名前を忘れてしまうことがあり、私は何度も同じ回答を繰り返したり、何度も自己紹介をしていました。正直に言うと、めんどくさいなぁと思うこともありましたが、私たちはこの瞬間瞬間に何度も出逢いなおしていると考えると、ロマンチックですよね。この状態を可哀想と私たちは外側から勝手にマイナスな意味付けをしてしまいますが、実は当事者の世界から見ると、認知症とともに生きる人生が不幸せとは限らないのです。勝手に人のいのちや人生そのものの価値を決めてはいけないですよね。
この映画は認知症とともに生きるとはどのような事であるのか、を考えるきっかけをくれままだまだ書き足りないことは沢山あるのですが、また次の機会に( ᵕᴗᵕ )
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