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起らなかったはずの戦争       ーーソ連の湾岸戦争開戦回避工作

 皆さまは湾岸戦争をご存知でしょうか??
 そう、多国籍軍がイラクに100時間で勝利を手にしたあの湾岸戦争です。
 では湾岸戦争は回避される可能性があったのはご存知でしょうか?
 実は、そう主張するソ連の政治家がいます。

 どうもミリタリーサークル
 『徒華新書』です。
 本日のミリしら(ミリタリー実は知らない話)です。
 @adabanasinsyo
 本日は久保智樹がお送りします。
 @adabana_kubo

 本日はちょっといつもと毛色を変えて戦争が起こるまでをテーマにします。

 湾岸戦争はどのような経緯で米軍が地上侵攻に至ったのか?
 どうして「起こらなかったはずの戦争」だと主張するのか?
 本当に戦争を回避するチャンスはあったのだろうか?

 本日はソ連とアメリカの外交官の回顧録を手掛かりとして湾岸戦争前夜の緊迫した外交戦のお話をさせていただきます。

 本日のお品書きです。


湾岸戦争の表面
ーーあるいは起きてしまった戦争の話

 

サダム・フセイン


 イラクの独裁者サダム・フセインは危機にありました。
 自らが仕掛けたイラン・イラク戦争は勝者なき泥沼の戦争となり、ただただ国庫を圧迫していただけでなく、主要な収入源である石油の価格も下落したことで追い打ちとなった。
 現状を打破するフセインは博打に打って出ることにしました。産油国クウェートの油田を確保しオイルショックを再来させるとともに、海への出口を手にするという博打。
 
 1990年8月2日イラク軍はクウェートに侵攻しました。
 そしてフセインは8月8日をクウェートを19番目の州にすると宣言する。
 
 アメリカはイラクの更なる拡張、即ち同盟国であり産油国のサウジアラビアの侵攻を危惧して、8月7日サウジアラビアを守るための兵力の集結作戦「砂漠の盾作戦」を発動しました。

 国連では安全保障理事会の緊急会合が開かれ、冷戦下では東西対立から不活発であった安保理は以外にもこの問題に素早く対応しました。折しも1989年のマルタ会談で冷戦終結が宣言され、新しい国際秩序の模索がされていた時期でした。
 わずか2ヶ月で10本の決議が採択され、イラクの行為は「平和に対する破壊」である点、イラクのクウェート撤退の必要性と経済制裁の実施が合意されました。

 対するフセインは9月には徹底抗戦を宣言します。

 安保理は1990年11月28日、安保理決議678号を採択し、その中で1月15日を撤退期限としてそれが満たされない場合、多国籍軍によるイラク解放の武力行使を認めました。

 1991年1月17日、アメリカはイラクの地上目標に対する航空攻撃「砂漠の嵐」作戦を発動し、作戦はアメリカの精密誘導兵器に代表される最新兵器によって成功裏に進んでいるとの印象が報道によってもたらされました。

 砂漠の嵐作戦は2月23日まで実施され、続いて2月24日に「砂漠の剣」作戦が実施された。高度に機械化された多国籍軍は空爆によって疲弊したイラク軍を相手に圧倒的な勝利をおさめました。2月28日にイラクは全ての安保理決議を受け入れクウェートから撤退すると宣言したことで地上侵攻から僅か100時間で多国籍軍はクウェートを解放したのです。

ソ連の主張
ーー起こらなかったはずの戦争

エフゲーニン・M・プリマコフ。

 ソ連のゴルバチョフ大統領の側近プリマコフは湾岸戦争は「もしかしたら避けられた戦争」であったと語っています。これは湾岸戦争が終結した直後の1991年6月に出版した回顧録とインタビュー『誰が湾岸戦争を望んだのか』の中の一節です。

 プリマコフという人物を簡単に紹介します。
 エフゲーニン・M・プリマコフ。
 1929年生まれ。1962年から1970年までプラウダ記者として勤務。そのうち5年間中東特派員を務め、この際サダムフセインら中東の主要人物と交流を持ちました。その後学者に転身して1977年から1985年まで東洋研究所所長を務め、1989年に政治家に再び転進。共産党の中央委員ならびに最高連邦会議議長とソ連政治家として高い地位につきました。1990年に大統領会議、1991年に国家安全保障会議と大統領の側近として活躍し、ソ連崩壊後のロシア連邦では首相の地位まで登りつめました。

 ジャーナリスト、学者、政治家という異色の経歴を持つ人物。この人物に注目するのにはある理由は、彼こそがゴルバチョフ大統領が任命したサダムフセインと交渉するソビエトの特使であったからです。それと同時に先述の回顧録の中で交渉過程をつまびらかにしており、湾岸戦争に対してソビエトがどう向き合ったのかを知る鍵であるからです。

 プリマコフは主張する。
 フセインはクウェートからの撤退条件を示していたのだと。

 1990年8月12日のフセインの演説の中で、中東におけるすべての占領問題が解決されない限りクウェートからの撤退は行わないと宣言しました
 要するにイスラエルの西岸地区やガザ占領とクウェート占領の「リンケージ」を試みたのです。リンケージとは、あえて直接関係ないはずの二つの問題を関連付けて両者を一挙に解決する外交手法です。

 プリマコフの基本的な態度は次のようでした。

イラクをクウェートから撤退させるべきかどうかというのではなく、いかなる手段で撤退させるべきだったかについて考えていただきたいのだ。他の国際社会と同様に、イラクをクウェートから撤退させるべきだ、という点についてソビエトの態度ははっきりしている。

 しかし一方で彼はこうも述べています。

アラブ・イスラエル問題のような、地域の安全にとってより重要な問題の解決に向けた起爆剤として、クウェートに端を発した危機の政治的解決を利用しようと期待するのはなぜいけないのか。

 このサダムフセインに報酬を与えるべきでないという原則と、一方でこの湾岸危機を利用して一気に地域の安全保障環境を変化させようという矛盾した立場はプリマコフ外交の基本路線でした。

 実際のソ連の外交は当初この線で行動しました。
 1990年9月9日のヘルシンキで行われた米ソ首脳会談の席でゴルバチョフはブッシュ大統領に対してイラクを政治的手段によって撤退することを求め、そのためにパレスチナ問題の解決をアメリカが主導すべきだと勧めています。なぜならイラクが「リンケージ」を主張する以上、パレスチナ問題が解決されつつあるのにクウェートにイラクが居座ればイラクは和平の妨害者として正当性を失うからだと。

 アメリカとの交渉の傍らでプリマコフは大統領特使として1990年10月に2度イラクに飛んでフセインと直接対話しました。その中で次のような言葉を彼はフセインから引き出しているそうです。

現実主義者として、私はある一定の状況の元では撤兵に同意することもありうる、と考えている。ただし、撤兵がこの地域における他の問題を解決するという条件付きでなければ、それを実行することはできない。

 フセインは確かにイスラエル問題に固執していたけれども、このイスラエル問題さえ解決すればイラクは名誉ある撤退が可能であるという立場でした。ただこの立場は梃子でも動かぬ固い決意であったために、プリマコフは直接対談しながらもフセインを撤退をさせることに結局のところ失敗しました。

 1991年1月15日の期限までに撤退は果たされなかったことで、1月17日より多国籍軍の空爆がはじまりました。
 ゴルバチョフは開戦の数時間前にブッシュ大統領からの電話で攻撃を知らされ、そしてすぐさまフセインに連絡を取りました。大統領はフセインにイラクが撤退を確約すれば、アメリカに対して停戦を仲介すると申し入れたがイラクはこれを拒絶し多国籍軍による空爆がはじまっってしまった。

 ソ連の開戦阻止の調停は失敗に終わりました。

 しかしまだ行われたのは空爆だけで、地上侵攻の回避の芽は残っている。

 これこそが「もしかしたら避けられた戦争」の正体です。

  2月12日プリマコフはイランを経由して爆弾の降るイラクに入りました。
 フセインは自分の側近を含んだ会談では強気の姿勢を崩さないままでしたが、プリマコフと二人きりになると核心に踏み込みました。

クウェートから撤退するイラク兵を背後から撃つようなことはないだろうか?撤兵後、イラクへの攻撃は停止するだろうか?撤兵を拒否したために国連決議により導入されたイラク制裁は、撤退をすれば解除されるのだろうか?

 プリマコフは再度、無条件撤退を言い渡したという。しかしフセインから明確な回答は得られずにいました。ただフセインはアジズ外相をモスクワに送り協議を続ける態度は見せているなど揺らいでいたのは確かです。

 2月18日深夜、ゴルバチョフ大統領はにアジズ外相がモスクワに来るのを眠ることなくクレムリンで待っていました。そしてその晩に交渉すぐに交渉を始めました。ここでソ連が求めたのは無条件撤退と期限の明示であったが、イラクは撤退は技術的な問題から6週間必要だと主張し、ゴルバチョフはそれを非現実的だとして退けました。最終的な妥協は「停戦が実現した翌日」に撤退を開始するというものでした。

 2月22日これがアメリカに伝わると、ブッシュ大統領は声明を発しました。
 クウェート市からの48時間以内の撤退、一週間以内にクウェート領内から軍隊を撤退させること、撤退はワシントン時間で23日の12時までに開始されること。
 これがアメリカの事実上の最後通告でした。

 これに対してゴルバチョフは、緊急の安保理会合を開き事態の打開を試みましたが、この提案は生かされませんでした。イラクが期限内に撤退を実施しなかった。
 結局ソ連の調停努力はまたもや虚しく終わり、地上戦「砂漠の剣」作戦が開始され、イラク軍は潰走しました。

 2月24日からの地上戦でイラクが壊走を始めるとフセインは「最短の期限で」撤退するという時宜を逸した親書をアメリカに渡すようにソ連に求めました。これを手交されたアメリカは「武器を持ったイラク軍部隊の撤退は、”敵の作戦”に過ぎない」として攻撃を続行します。

 2月28日イラクはすべての国連決議の無条件受け入れを表明し撤退しました。かくてクウェートは解放されました。

 プリマコフはインタビューの中で自らの努力をこう振り返る。

 彼のミッションの顛末を、「フセインを外部世界と繋ぐ、つまり文明世界を繋ぐ、ただ一本の糸がいつも切れずにつながっていたということ」であり、「彼が何か自暴自棄な過激な手段を取るのを防いだともいえる」点に肯定的な意味があると振り返っています。

 ここまで取り上げたプリマコフの主張はソ連の政治家が在職中に書いたものでありプロパガンダの色が強い点は無視できません。しかしプリマコフの主観として少なくとも2月22日の機会を活かせば地上侵攻の回避の可能性があっただろうというのはいくらか説得力を持つ議論に思えます。

アメリカの主張
ーーサダムのお気に入りの男

 

ジェームズ・A・ベーカー

 プリマコフ自らがフセインと文明世界とつなぐ糸だったと語ります。しかし本当にそうだったのでしょうか。
 この章では視点を180度変えてアメリカのベーカー国務長官(他国の外務大臣に当たる)の視点から湾岸戦争を眺めます。彼も湾岸戦争終結から数年後ホワイトハウスを去った後に回顧録を出版しています。
 『シャトル外交 激動の四年間』(原題”The Politics of Diplomacy”)を手掛かりとしてプリマコフの「避けられたかもしれない戦争」と言うテーゼの妥当性を探ります。

 まずは簡単な人物紹介を。
 ジェームズ・A・ベーカー。
 1930年アメリカ生まれ。法律事務所に勤務の後、1985年レーガン政権の大統領補佐官、財務長官を務める。ブッシュ政権では国務長官を務めた後、93年に政界を引退し法律家に戻ります。彼はブッシュ大統領の選挙参謀を務め、レーガン政権時代も副大統領だったブッシュと共に働いていたブッシュ大統領の腹心の一人でした。

 ベーカーの語るプリマコフ像は彼の叙述とは大きく違っています。
 彼の著書によればプリマコフはこんな男です。

外務省の名だたる親アラブ派でありフセインのお気に入りの男。湾岸戦争を利用してソ連の威信を回復させ政治局での自らの足場を固めようと画策した男。自らをゴルバチョフに売り込み、シュワルナゼ外相の権限を侵害した男。

 ベーカーは語る。プリマコフこそが米ソの結束を骨抜きにしようとした親アラブ派だと。彼こそがフセインにイスラエル問題とのリンケージを吹き込み国際社会による対イラク連合の足並みを乱すことをそそのかした男だと。

 そんなベーカーの視点から9月のヘルシンキ会談を覗いてみよう。
 ゴルバチョフはリンケージ案の形式として、アラブ地域問題の国際会議による解決を強く求めたという。これによって実質的にフセインの要求するアラブ・イスラエル問題の審議をすることになる。

 ベーカーは反対でしたが、アメリカ側にも一人だけこれに興味を示す人物がいました。

 ブッシュ大統領です。

「兵士たちをペルシャに送ったのは私だ。ほかのだれでもない、この私なんだ。彼らの命をむだに危険にさらさずにすむのなら、私は自分にできることは何でもする。もし戦わずに兵士たちを連れ戻せるのなら、私はその道を選ぶ」と声を荒らげて言った。

 最終的にアメリカは交渉の末に、国際会議は将来行うことを宣言するにとどまりました。ベーカー国務長官はより強い表現で米ソの団結を世界にアピールしたがったそうですが、しかしその強い文言は骨抜きにされたと感じていました。裏にいたのはプリマコフだと言うのがベーカーの認識です。

 1990年11月28日、国連安保理は安保理決議678号を採択しました。1月15日を撤退期限としてそれが満たされない場合には、多国籍軍によるイラク解放の武力行使を認めました。ベーカー国務長官によればアメリカは撤退期限を1月1日に求め、ソ連は和平工作のため1月30日を求めました。フランスのとりなしで間を取って15日と決まり、こうして湾岸危機は45日のタイムリミットが設定されました。

 プリマコフの3度目のイラク訪問。空爆の最中フセインに会いに行ったのは前章で触れました。フリマコフ回顧録の中ではアメリカはこれを承知していたと記述しています。しかしベーカーはプリマコフについて「”外遊”は不愉快」だとはっきりと書いている。

 そしてプリマコフは自らの回顧録には「無条件撤退」をフセインに求めたと言うがベーカーの証言は食い違う。

 プリマコフはサダムフセインのメンツを保つ方法、即ちパレスチナ問題の国際会議を開き、イラクが領有を主張するルメイラ油田の領有を認めることを訴えた。この提案はサダムに有利であり譲歩というより降伏に等しかった。彼の提案はソ連の友好国をかばう意図であった。

 これがベーカー国務長官から見たプリマコフの態度の一端です。

 プリマコフは、アメリカ側の彼の外遊に対する態度には「一定の期待感があった」と述懐しているが、べーカー国務長官によれば、ソ連の協力は不可欠なためゴルバチョフの立場を悪くしないように彼とその特使に個人的な感謝を表していたという。アメリカの行為はあくまでうわべだけであった。

 ベーカーからすればプリマコフの態度をゴルバチョフが容認したことこそ彼の立場の脆弱さを象徴していると回述しています。

和平の最後の駆け引き
ーー本当に回避する機会はなかったのか?

 ベーカー国務長官によると、2月15日ソ連から親書が送られてきたという。フセインの言動に「好ましい兆候」があると。プリマコフがイラクに入って手にした情報である。

 2月18日、イラクのアジズ外務大臣がモスクワを訪ねた日、再び親書が送られてきました。それは4点からなる和平案でした。

「第一に、イラクは撤退の意志があることを宣言し、撤退を開始する具体的な期限を受け入れること。第二に、撤退は停戦の翌日に開始されること。第三に、撤退は無条件であること。第四に、多国籍軍は撤退中のイラクを攻撃しないこと。」

 この提案を見るにプリマコフの取りまとめた和平提案がワシントンに送られたと考えるのが妥当でしょう。

 ただしソ連はこれと同時に、アラブ・イスラエル問題を国連が対処するように強く訴えるとの約束をゴルバチョフはアジズ外相に行っていました。プリマコフの言う「”リンケージ”なきリンケージ」という折衷案でした。

 これを聞いたベイカーは「巧妙なワナ」だと感じたという。アメリカから見ればそれは表現を変えただけで単なるリンケージであって、侵略者に報酬を与えると同義でした。

 アメリカはイラクが11の国連決議の無条件受け入れと戦争捕虜の交換を行うことが和平の前提条件だとソ連に通告しました。
 
 2月22日、再びソ連から和平案が送られて来ました。

無条件・即時撤退を停戦の翌日に行われる。停戦から三日以内に捕虜交換を行う。撤退完了した時点で他の決議は白紙に戻す。そしてリンケージは行わない。

 これがゴルバチョフからの提案でした。

 これに対する答えはご承知の通り23日正午までの無条件撤退要求でした。
 そしてそれが破られたために多国籍軍は地上侵攻に踏み切ったのです。

 ただしこの無条件撤退要求には大きなリスクがあったのでした。

 ベーカーはこう振り返ります。

もしイラクがわずかでも柔軟な姿勢を示していれば、私たちは簡単に混乱に陥ったはずである。とくにクウェートからの部分撤退がおこなわれれば、アメリカとしては地上戦の延期を考慮せざるを得なくなったはずであり、またソ連を対イラク連合につなぎ留めておくことは至難の業だったろう。

 確かに1991年の2月22日は本当の最後の機会だったのかもしれない。

 しかし、「もし」は起こらなかった。柔軟性のないイラクは撤退せず何千人ものイラク人の血によってその代償を払うこととなりました。

おわりにかえて

 湾岸戦争は本当に「起こらなかった戦争」だったのだろうか。

 歴史にIfはないとはよく言われますが、もしイラクが国際社会の圧力に応じて22日に部分撤退していたならば歴史は大きく変わっていたのかもしれません。

 しかし歴史は我々の知る通りです。

 改めてプリマコフとは何者だったのでしょうか。

 プリマコフの自称する姿は、中東戦争を食い止めようとして奔走した外交官であり、平和を求めるソ連の姿を克明に記しています。

 しかし視点を変えてベーカーから見たプリマコフは事態を引っ掻き回す厄介者に過ぎません。

 フランスの視点、イラクの視点、サウジアラビアの視点、イスラエルの視点、クウェートの視点、視点を変えればモノの見え方は全く異なります。

 最後にプリマコフの言葉で締めさせて頂きます。

もしイラクがクウェートに侵攻しなければ、もしイラクが今の国際社会がそれを許さないということをまったく理解せずにクウェートを併合しなければ、もしイラクの指導部が現実の理解と認識において絶えず破局的に遅れていなければ、もしにし一部の西側の人たちがソビエトの使命は利己的な目的に向けられたものだと評価しなければ、されにもし・・・と続いていけば戦争自体も戦争のエスカレーションもなかっただろ。

あとがき

 筆者の感想を述べるならば、外交の最前線に身を置いている米ソの全く異なる考えの2人の外交官が最後の最後に22日に「もし」という可能性を感じていた点に興味をひかれました。

 と同時に、プリマコフのプロパガンダをベーカー回顧録という補助線なしにそのまま理解していたら私はソ連のプロパガンダ発信者になっていたでしょう。資料の突合せ、特に証言については、念入りにやるべきでしょうね。
 
 プリマコフが何者であり、「起こらなかった戦争」というテーゼは妥当だったのかの判断は読者諸兄の感想に任せたいです。
 noteやTwitterなどでコメントいただけると嬉しいです。
 
 ミリしらでは引き続き隔週ペースで記事を連載予定です。
 夏のコミケに受かりまして、徒華新書として200ページくらいの同人誌も並行して書いているのでホントにキリキリ舞いです。

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 何か一つでも心に残ることがありましたら幸甚です。
 最後までお読みいただきありがとうございます。

参考文献

E・M・プリマコフ著。小林和夫監訳『誰が湾岸戦争を望んだか プリマコフ外交碌』日本放送出版協会、1991年
ジェームズ・A・ベーカー著、仙名紀訳『シャトル外交 激動の四年(上下)』新潮文庫、1997年
『歴史群像アーカイブVol.15 湾岸戦争』学研パブリッシング、2010
『湾岸戦争史』防衛省防衛研究所、2021
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