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いつかまた会えたら一杯話しましょう、お供はあなた手製のおにぎり

「やっぱ今年は帰省しづらいよね、親父と母さん、兄弟は心配してないけど、爺ちゃんとか元気にしてるか気になるし。一緒に飯食って一杯やれたら安心できるんだけど」

今年のお盆休みの過ごし方を話していて、友人から出た言葉に、そうだよねそんな感じになるよねーと賛同して、賛同してからふと気が付いた。
あ、世間一般的には、家族とご飯を食べながら一杯やるという選択肢があるのか。あと、おじいさんと酒を飲むという世界線があったのか。というか、なんでないんだろう、うち。


ひとつ目とみっつ目の気付きに対する答えは明確で、私の家族は軒並みアルコールに弱い。だから家族で飲むぞ、という発想が出てこない。
具体的に我が家のアルコール接触頻度がどのくらいかといえば、年末年始に浮かれて各々が好きな味のチューハイを買い物カゴに放り込み、合計1ダースほど買ったところ、正月休み中に飲みきれずに桜が咲く頃にもまだ数本が冷蔵庫の中で冷えている程度だ。決して嫌いじゃない。ただ量を飲めないだけだ(と言い張る)。

父は時々ビールを飲み、母は毎年庭で採れた梅で梅酒を漬けるけれど、それぞれまさに嗜好品といった感じで、ちびちびと飲む。少なくとも夫婦ふたりで晩酌みたいなことをしているのは見た記憶がない。
私はお酒の種類にもよるけれどだいたい1度の飲み会で良くて3杯が限界で、妹もお酒は嫌いじゃないはずだけど私より少しマシか似たようなものだ。
そんな家族の中でも兄はてきめんに弱くて、1杯でもお酒を飲めば顔が真っ赤になり目がとろんとしてくる。この人はこれで、付き合いの飲み会も多いだろう営業マンとしてどう生きているのか密かな謎である。


そんな子と孫を持ちながら、珍しく酒に強かったのが祖父だった。
母方の祖父母宅は私の実家から片道10分くらいのところにあった。両親は共働きで、小学校からは祖父母宅の方が近かったから、私たち孫3人は学校が終わると学童保育よろしくそこに転がり込んで、親が迎えに来るまでの時間を過ごしていた。
それから私たちが中学校に上がって、祖父母宅に寄らずにまっすぐ自宅に帰るようになるのと、数年間がんで闘病していた祖母が亡くなったのがほぼ同時期だった。それから10年近く、祖父はそこで一人で暮らしていた。

中高生時代は祖父母宅に寄り付かなくなったかというとそういうわけでもなく、時々誰かが上がり込むことはあった。
お邪魔すると、だいたい祖父はテレビの前に置かれた食卓で、テレビを見ながらたばこを吸っているか、新聞を読んでいた。
あとは煮物とか漬物とか卵焼きとか冷や飯とかおにぎりとか焼いたウインナーとかの、残りご飯と一緒にカップ酒を口に運んでいたのだった。そう、たぶん特に漬物とカップ酒は常に食卓に出ていた。

ここでふたつ目の疑問に戻る。じゃあ何故うちには、少なくとも私には、そんな酒飲みのじいちゃんと酒を飲むという世界線がなかったのか。
これもまた思い出してしまえばシンプルな話で、私が成人するほんの少し前に、祖父は酒を飲めなくなってしまったからだった。


私が20歳になる年の春、祖父は脳出血で倒れた。
このまま逝ってしまうかもしれないからと、遠方の親族や、大学で家を出ていた私が実家に呼び戻されたのは確か私の誕生日の10日前のことだった。

倒れている祖父が発見されたのは、当時実家から大学まで電車通学をしていた兄の存在ゆえだった。
地方あるあるで、私の実家は最寄駅が大して最寄っていない立地だったので、ほぼ毎朝祖父が兄を駅まで送っていたのだった。
でもその朝はいつまで経っても祖父がやって来ないし電話にも出ない。どうかしたのかと兄と出勤前の母が祖父母宅に顔を出してみれば、倒れている祖父が見つかったのだという。

その現場を見つけてしまったのは、実家で暮らしていた家族にとっては良かったのか悪かったのか分からない。
見つかったからギリギリ間に合ったけれど、それでも遠方から駆け付けた親族や私に「あの光景を見ていないお前らが今後に何を言うんだ」と八つ当たりたくなる程度にはショックだったらしい。

新幹線で駆け付けた親族と特急を乗り継いだ私が駆けつけてみれば、そこはいきなりICUだった。
祖父は体のあちこちを管に繋がれ、頭は包帯でぐるぐる巻き、顔は出血でぱんぱんに腫れ上がり、出血時の痛みで苦しそうにゆがみ、一瞬誰なのか分からなかった。それは確かにショックな光景だった。生死も不確かで、病院でもない家で見てしまったらきっともっと。
ああ本当に、じいちゃんはここで終わるのかもしれない。だって周りの大人たちはもう泣いているもの。


そう覚悟して数日。何とか少しずつ容態が安定し本当の生死の危機は脱した祖父は、それでもそこから、要介護5の完全寝たきりになった。
私たちの話していることは聞いてくれる。でも祖父から言葉が出ることはない。水を飲んだり飴や氷を舐めることはできる。でも食事はできないし、最終的には経管栄養になった。動く方の手を握れば握り返してくれる。でも何か握れば手は震え、達筆だった文字はもうほとんど読めない。意思疎通の方法は、言葉にならない声と、首肯と、首を振る代わりの抗議のパンチだけ。

だから一緒にお酒を飲むなど、できるわけがなかった。その発想すらそもそも湧かなかった。
生き残ってくれたとわかった時に「あぁこれで成人式は見てもらえる」とは思ったのに、お酒を一緒に飲めるという発想が出てこなかったのが今思えば不思議だけれど。
それでも、生き残ってくれたから、伝えたいことを伝える機会は残された。


私は祖父に、どうしても伝えたいことがあった。
私が大学受験のときに助けてくれたこと、そのお礼。

実家は平屋だった。どこにいても家族の声や足音が聞こえて、勉強など手につかなかった。特に妹がよく歌う鼻歌と、掃除が趣味な母の掃除機をかける音が死ぬほど嫌いだった。
学校の自習室は静かすぎて、ペンケースのジッパーを開けることすら憚られて逆に集中できない。塾には行っていなかったから利用できる塾の自習室もない。勉強できるファーストフード店やカフェなどこの街にはない。それでもそれぞれ適応した環境を見つけて、みんな勉強に励んで進んでいる。
思い詰めた私がシェルターに選んだのが、祖父がひとり静かに暮らす祖父母の家だった。高3の冬、センター試験まで2ヶ月を切った頃だった。


「私、これから講習の帰り、小学校の時みたいにじいちゃん家に寄るから。冬休みまでの間だけでいい、洋間だけ貸して」
そう言って突然家にやってくるようになった私を、祖父は静かに受け入れてくれた。頑張れとわざわざ言うこともなく、必要以上に気にかけて様子を見にくることもなかった。
ただ私が祖父母宅に着いて洋間に入ると、間食とメモ書きが添えてある。合格祈願にかけたスナック菓子、ディズニーキャラクターの絵がパッケージに描かれたお湯を注いで食べる温かいうどん、おにぎり。

祖父のおにぎりは、なぜか孫みんな好きだった。最後まで祖父母宅に帰ることの多かった、そして甘やかされた末っ子である妹すらも好きだった。
「じいちゃん、お腹減ったら食べろってお菓子とか食べるもの置いといてくれるけど、あんまりどれも好きじゃなくて。あ、お腹は減ってるから食べたけど。でもなんかおにぎりは好きだったなあ。ちょっと硬くなってるけど、味のりの味の濃さが逆に冷や飯にちょうどよかった」
そうやってひっそり優しさを注いで、静かに同じ屋根の下にいてくれるだけだった。


一度だけ、勉強中に祖父が洋間にやって来たことがあった。
何か用事かな、出かけるのかな。家族が来たからついでに一緒に帰れとかだろうか。そう思って、どうしたの、と聞いた。
たった一言、祖父は「うるさくないか」と聞いた。

「何も聞こえないけど、なんかしてるの」
「テレビをつけたもんで」

テレビ。テレビのある居間は、確かに同じ階だけれど、廊下を挟んで数メートルは歩く距離だ。外にも漏れ聞こえる大音量にでもしない限り、ここまで聞こえるわけがない。
それを、この人は気にかけてくれたんだ。家でも気にかけられたことないのに。家族みんな、同じ家に住む受験生がいてもいつもと変わらない暮らしをしているのに、たった数週間、1日に数時間預かってくれるだけでいい祖父が。

というかじいちゃん、そんなこと気にしてたの。もしかして今までテレビつけてなかったの、絶対聞こえないから安心して見てくれていいよ、好きなの見てよ。今までこの家でうるさかったことなんてないから。気にしてくれてありがとう。
私はそんなことを言って、そうか、と祖父は居間に戻っていった。その後トイレに行くついでに、ドアの隙間から居間を覗くと、かすかに漏れ聞こえてくる程度の音量でテレビを見ながら、祖父はお酒を飲んでいた。


たったそれだけかもしれないけれど、その記憶は私の中でずっと、金平糖みたいに小さくきらきらしていた。その気持ちと支えが嬉しかった。
冬休みに入ると学校に行くこともなくなって、自然と帰りに祖父母宅に寄ることもなくなって、それでもセンター前日に久しぶりに顔を出すと、手紙が置いてあった。達筆だった、祖父の文字。

「だいじょうぶ 根性をだし 最善をつくし 頑張れ きっと合格するよ」

いつ書いてくれたんだろう。いつ置いてくれたんだろう。私が来て読んでいないことに気付いていただろうか。でも、今日来てよかった。間に合った。
申し訳なさと切なさと嬉しさとありがたさでぐるぐるになりながら、その手紙を撮った。センターの2日間、その手紙を待ち受けにした。
センターは元々の点が低すぎたのもあるけれど、本番がどの模試よりも点数を取れた。自己ベストを100点は更新した。おかげで受けられる大学が見つかった。じいちゃん、あの合宿のおかげだ。そう思った。


実家を出て最初の敬老の日。祖父が家で過ごしていた、最後の敬老の日。
下宿先から、祖父がひとりで住む家に手紙を出した。あの時のお礼。だから今ここにいますと。
祖父はあえて何も言わなかったし、返事もこなかった。けれど、あとから母に「敬老の日に手紙が来たって言ってたよ。仏壇に手紙置いてあった」と言われた。届いた、受け取ってくれた、よかった。

でも大学に入るのはゴールじゃないから、卒業してちゃんと大人になるまで見てほしいのだ。あなたが支えてくれたから入れた大学を出て、あそこを出られたからここにいられるのだと言いたかった。
それを聞いてくれるかのように、祖父は寝たきりながら生き続けてくれた。

私の成人式、兄の卒業と就職、私の卒業と就職とあと転職。妹の大学入学と卒業、成人式と就職。
従弟の高校卒業、大学入学と成人式。従妹の高校入学と卒業、大学入学。
従妹の成人式には届かなかったけれど、それでも振袖姿の前撮りは届いた。1番下は中学生だった孫たちが、みんな成人するまで見届けて、倒れてから5年目に祖父は力尽きた。
だけど祖父は孫の誰ひとりとも、毎日送り迎えをしていた兄とさえ、最後までお酒を一緒に飲めなかったのだ。


ねえじいちゃん、あれだけお酒を飲むあなたの背中を見ていたのに、一緒に飲めなくてごめんね。早く大きくなれなくてごめんね。
私が下宿先に戻る時はいつも、私が紅茶を好きだと覚えてくれて、特急で飲めとペットボトルを持たせてくれたよね。牛乳の紅茶がええんやったな、と言いながら甘いミルクティーとお菓子を渡してくれた。あれが楽しみで嬉しかった。
なのにじいちゃんの好きだったもの、ちゃんと覚えてなくてごめん。


じいちゃんがよく飲んでいたお酒は、おそらく軒並み私には強すぎて飲めそうにないけれど、じいちゃんが飲んでいたボトルの日本酒をお猪口に少しくらいなら味見できたかな。そういえばじいちゃん何飲んでるのって、話せるうちに聞いておけばよかった。

ごめん、自分のことで精一杯な孫だから、じいちゃんが生きてるかどうかしか気にかけられなかったうっかりだから、じいちゃんと飲めないままお別れしてしまったことに、一周忌が終わってから気付いたよ。


私はまた、じいちゃんのおにぎりが食べたいです。
じいちゃんの住んでいたあの家はもうなくなってしまったけど、それでもあの家でじいちゃんのおにぎりを食べながら、じいちゃんと本当に同じものを飲んで食べてみたかった。

また会えたら、おにぎりを作ってくれますか。
飲んでいた銘柄を覚えられなかったから、好みかはわかないけれど、じいちゃんの分のカップ酒と私が飲めるお酒か自分用の割り材を持っていくから、一緒に飲んでくれますか。爺ちゃんと飲むって友達の話を聞いて、今更羨ましくなっちゃったんだよ。
卵とウインナーくらいなら焼いていく。だからおにぎりを食べながら、一杯飲もう。いっぱい話そう。孫たちみんな成人したから、総出でお相手するよ。

お墓に行けるようになったら、今度のお参りの時にそう言いに行くから。いつかまた会えたら乾杯しようねって、どうか聞いてください。


何かを感じていただけたなら嬉しいです。おいしいコーヒーをいただきながら、また張り切って記事を書くなどしたいです。