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仏教語絵巻

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lineスタンプ用に始めた簡単な絵でしたが、リジェクトされた為に、仏教語を紹介するカード風のイラストになっています。
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2020年10月の記事一覧

仏道の修行中、修行に関係ない無用な雑談を、冗談と呼んでいました。
「冗」という字はは不必要、無駄、煩わしいという意味を表すので、冗談は無駄話という事になります。
それがやがて、ふざけた滑稽な言葉、あるいはユーモアのある会話などの意味に使われるようになりました。

お釈迦様が亡くなられた時、頭を北に顔を西に向け右脇を下にしていた事を「頭北面西右脇臥(ずほくめんさいうきょうが)と言います。
以後、僧侶が亡くなった際この姿勢に倣うようになり、時が経つにつれ頭を北に向ける事イコール人が無くなるという意味になって、縁起が悪いとされるようになりました

物事の移り変わりを「四相」と言い、誕生する事を「生相」存在を「住相」変化を「異相」消滅する事を「滅相」としていました。
「滅相」が尽きると命が消えてなくなってしまうという事から、「とんでもない」という意味から「滅相もない」」という言い方をするようになったのです。 #イラスト

仏教語絵本「不可思議国のアリス」の頒布受付を開始いたしました。
ネットで発表したものより文章を加筆し、絵も少し変更したり直したりしています。
絵本の表紙が中々に手触りが良いです。

kyoto-daisenji.jp

現在では病人の面倒を見る事を意味しますが、本来は僧侶が病人のために念仏を唱えたり仏法を説いたりすることによって病の苦痛を和らげるという、治療行為そのものを言いました。
中国語では今でも「看病」は病人の面倒を見る事ではなく、治療してもらう事を言うそうです。 #イラスト

過去・現在・未来の三世(さんぜ)の事を現します。
仏教では時間というものを実体として扱わず、存在するものの変遷として捉え、過去は現在の原因。
未来は現在の結果と考え、あくまで現在が重要なのだと説いています。
日常ではあまり聞きなれない言葉ですが、森鴎外の作品に二度使われています。

「有か?無か?」という意味で、「世界は有限か無限か?」「死後の世界は有るか?無いか?」のように使用されましたが、それらの問いにお釈迦さまは答えを出しませんでした。
これを「無記(むき)」と言います。
この事から「もやもやしてハッキリとしない」という意味で使われるようになりました。

日常的にではありませんが、「価値観や考え方、行動に囚われず、どんな状況でも最善の方法で臨機応変に対処するという意味で使われる言葉です。
元々は華厳経にある、この世にあるものは全てが繋がっており、互いに影響を与えている事を表す言葉です。

風が吹けば桶屋が儲かる的な感じでしょうか。

「平穏無事」の「無事」とは、仏教において「平穏で何の障害もないさま」を指します。
即ち欲や煩悩に惑わされる事なく、心が穏やかな状態でいる事です。
これが現在では事故や病気がなく、健康であることを表す言葉に変化しました。 #イラスト

一生に一度の出会いであるということを心得て、亭主・客ともに互いに誠意を尽くすという心構えを茶道では一期一会(いちごいちえ」と言いますが、この一期という言葉は人の生涯の間を表す仏教語です
例え同じ人との交わりも全く同じ事は二度となく、毎回異なることから無情に通じる言葉でもあります

「なまみ」ではなく「しょうじん」と読み、元々は人としての肉体や仏像の対義語としてお釈迦様自身の体を指していました。
それが後に仏陀や菩薩が,惑い苦しむ人々を救う為、現実世界に現れた際の様々な形(化現:けげん)の事を言うようになりました。 #イラスト

本日の京都新聞に仏教語絵巻に関する記事が掲載されました。

多くを求めず手に入れた物に満足する。
人と比べ足りないものを数えるのではなく、本当に必要なものを知り、それが満たされている事に気付く事を小欲知足と言います。
四字熟語のようですが、法華経の普賢菩薩勧発品第二十八の中にある仏教語なのです。 #イラスト

現在は高座と言えば落語寄席の舞台の事を言いますが、元々は僧が説教をするための高い座席の事でした。
インドから中国に伝来。
唐の時代から民間芸能の隆盛とともに元の意味以外にも使われるようになり、それが日本にも伝播したと言われています。 #イラスト #落語