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49|10 2020年9月1日 夜を泳ぐ

 靴下を履くのが面倒だったので下駄風のサンダルを引っかけて昼過ぎに電球を買いに出かけたが、あてにしていたデパートにはなぜか無く、他の店は夕方まで閉まっていたので旧市街を散歩するに留まった。いつもは音楽を聴きながら歩くことがほとんどだったが、すれ違う人や信号待ちの人たちの会話を少しでもスペイン語の聞き取りの練習代わりにするためにここ数日はイヤホンを使うことがめっきり減った。よさそうな電気屋は5時まで開かないので一度帰って昼飯を食べてから再戦することにした。相変わらず天気もいいし、外にいるのが心地いい気温だったのでシウダデラの木陰のベンチに座って本を読んだ。後ろを犬が散歩していくのが感じられる。数字の数え方を教えている孫とおじいちゃんの声が聞こえてくる。1秒が毎秒ごと過ぎていくのがわかる。
 冷蔵庫から鶏もも肉を取り出して、骨を取り除く。フライパンにオリーブオイルと刻んだにんにくを入れて弱火にかける。香りが立ってきたところで鶏肉を皮の面から焼く。塩と胡椒、乾燥したローズマリーを少し振りかける。蓋をして少し待つ。皮目に焼き色がついてきたら裏返して胡椒を振り、もう少しだけ待つ。部屋にパンがあるので、これとオレンジジュースをコップに氷と一緒に注ぐ。焼き上がったところで皿に盛り付けて、まな板とフライパンを洗う。胡椒を多めに振るといいアクセントになっておいしい。すこし味に深みが足りないので、次はパスタ用に買っておいたジェノベーゼかトマトソースを使ってみよう。料理用に安い白ワインを1本買っておくのもいいかもしれない。
 1か月ほど前に家探しをしていた時に少しだけやり取りをしていたマドリード出身のMが大学院のWhatsAppのグループチャットで他にパンプローナに到着した人はいないか、と聞いていたので、もう着いている、と返信した。他の学生たちは来週来る人がほとんどのようだった。返信するとすぐに個別のメッセージが届いて、コーヒーでも飲まないか、と誘われた。

大した用事もなかったのですぐに了承した。旧市街のカスティーヨ広場の近くに住んでいると言っていたので、飲食店もその辺りは多いので、8時ごろそこで待ち合わせることにした。他にも既にパンプローナにいる学生はいたが、どうやら誘ってはいないようだった。電気屋は5時から開いているが何となく明日でもいいか、と思ってシャワーを浴びて歯を磨いて8時を待った。7時半ごろに家を出て待ち合わせ場所に向かう。思っていたより人が多く、カフェやバルの外の席はほとんど満席になっているように見えた。
 8時を20分ほど過ぎたあたりでMからどこにいるの、とメッセージが来たので旧市街を歩き回っている、と返信した。「あと3分で降りる」とのことだったのでカスティーヨ広場のベンチに座って人間観察をしながら待っていた。ようやく日が傾き始めてきたので建物の上の方の階に夕日の焼けた色が映っていた。Mはわりとすぐにこちらを見つけられたようで、直接会うのは初めてだったがすぐにお互いがわかった。
「人がたくさんいてなかなか見つけるのが大変だったよ。」
「ここら辺では唯一アジア人だからわかりやすいと思ったけど。」
「みんなマスクしてるから顔が見えないでしょう。」
「たしかにそうだね。」
「名前はなんて発音したらいい?」
「”はやと”だよ。」
「"Jayato"?」
スペイン語では日本語や英語のような、は行の音はないので喉の奥から強く出すJの音になってしまう。
「”J"じゃなくて”H”だから英語のように発音したらいいよ。」
「イントネーションは?」
「”は”を高くする。Mはこれで合ってる?」
「うん。」
「難しい名前ではないよね。」
どの店に行くかは決めていなかったので、目の前にあるパンプローナではおそらく一番有名な“カフェ・イルーニャ”に行くことにした。ヘミングウェイの『日はまた昇る』に登場するカフェだ。
 席に着くと、Mがシャルドネの白ワインを注文したので同じものをもらうことにした。初対面の人と、それも2人きりで話すのは何を話せばいいのかわからないから苦手だ。しかもいくら英語が通じる相手とはいえ、基本はスペイン語で話すことになるのでハードルがいくつもある。もちろんスペイン語が分からなくなったら英語と混ぜて話す、と逃げの弁解をあっさりしてしまった。でもこれが残念ながら事実であり、現状だ。運良く、Mは日本に旅行に行ったことがあったのでしばらくはその話をした。東京や京都、大阪に行ったことがあるようで、特に大阪と東京の秋葉原が気に入ったらしい。大阪には7階建てのポルノショップがあることや、東京で見た制服を着た小学生が可愛かったことなどを話してくれた。
 居酒屋の何たるかを簡単に説明したところで、次の店に行くことにした。スペインではバルを何店もはしごして、酒とつまみを少しずつ味わうのが伝統的な呑み方だ。2軒目はMが既に何度か来たことのある店で、揚げ物が特に美味しいという。Mは、名前は忘れたが、この地方で良くとれるキノコのコロッケとシャルドネを注文し、僕はハムとチーズのコロッケとビールを注文した。そのハムはたぶん思ってるのとは違うよ、と言っていたが、”ハムとチーズ”と書いてあったし、なによりも揚げてあるのがわかっていたので、うん、どんなのかわかっていたよ、と答えた。どちらも揚げたてで、衣はさくさくしていて中もチーズがちょうどよく溶けていておいしかった。キノコのも少し分けてくれたが、これもなかなかおいしかった。自分の注文した”ハムとチーズ”を食べながら、「子供の味だ」と言うとMは笑っていた。
 3軒目は何か食べたいものはあるか聞かれたので、いかにもスペインのものを、と言うと、生ハムの原木とにんにくがたくさん吊り下げてあるバルに連れて行ってくれた。Mはパンの上にカマンベールチーズをトマトの輪切りで挟み、甘く炒めた生ハムが乗っているタパスとマティーニのベルモットを注文した。僕は当然、という顔をしながらハモンセラーノとビールを注文。美しいスペインの女性と本場スペインの生ハムをバルで食べる。こんなに幸せなことがあるだろうか。ひと口飲ませてもらったベルモットは甘いシェリー酒にハーブのような香りがした。Mはベルモットのグラスに入っている1粒のオリーブをこれが好きなんだ、と言って味わっていた。
「お酒を飲むのは好きだけどたくさん飲めないのが残念だ。」
「なんで飲めないの?」
「日本人だからね。」
「日本人はお酒たくさん飲めないの?なんで?」
「わからないよ。日本人に聞いてみなよ。飲めない人が多いから。」
「わかった、日本に行って1人ずつ聞いて回るわ。」
「それがいい。」
「飲み過ぎるとどうなるの?倒れちゃうの?」
「倒れることもあるけど、吐いちゃうから。」
「安心して、その時は髪の毛つかんで助けてあげるから。」
「ありがとう。」
「本当にたくさん飲めないの?」
「本当だって。だから飲み放題なんてシステムがあるんだよ。」
「スペインでやったらお店潰れちゃうね。でも本当に抗生物質を飲んでるとかじゃないの?」
「違うよ。抗日本人物質を飲んだ方がいいかもしれないけどね。」
 4軒目ではMはもう食べられないと言い、シャルドネを注文した。僕はもう少し食べたかったのでタコのガリシア風と赤ワインを注文した。ここ数日は何をして過ごしていたの、と聞かれたので、最近は机を準備していると答えたらMは笑っていた。Googleの検索履歴の”パンプローナで電球を買う場所”はできれば見られたくなかったかな。
 Mの友達がシウダデラの近くで呑んでいるとのことだったのでそこまで2人で歩いて行った。カタルーニャの独立問題や、広島の原爆の話などをしながら静まり返ったスペインの街を抜けていった。日付も変わっていないのにこんなに静かなのはマドリードと比べて小さい街だからなのか、このご時世だからだろうか。Mの友達は背が高く少し中肉ぎみだったが、よく話す男で日本のホラー映画が好きだが、1人では見たくないと言っていた。
 クバ・リブレを1杯だけ飲んでから車で家の近くまで送ってもらい、ベッドに倒れこんだ。ラジオを聴きながら眠りに落ちた。

(9/2 21:58 パンプローナ自室にて執筆)


現在、海外の大学院に通っています。是非、よろしくお願いします。