『人間の建設』No.53「批評の極意」 №1〈「論語」と「国家」〉
岡さんがプラトンに話題を変えて、小林さんに振りました。哲学の専門書ではないと小林さんが言いますが、わたしはプラトンは正に哲学じゃないか、現に以前「国家」を読もうとして挫折したのだから、と思います。
小林さんは、また「頭をはっきりと保って」と言います。でも小林さんだからいつでもそうできるのだろう、わたしなどはごく「まれ」にしかそうできない頭の造りなんです、と思ってしまいます。
でも、小林さんの話を読んでプラトンに再挑戦するのもありかなと思いました。挫折してもまた哲学に挑むことは、女性へのアプローチに似ていないでしょうか。一押し、二押し、三に押しというではありませんか。
小林さんがつづけて、プラトンの政治学に焦点を当てます。政治学が哲学なのかどうかは私にはわかりませんが、政治哲学という学問分野があるそうなので哲学の一部と認められてはいるようです。
小林さんがいう「今日の政治理論の最大の弱点」が将来の計画や空想から政治を論ずる、という当時1960年代の状況でしたか。東京オリンピックや大阪万博開催を前に高速道らが整備され……
夢があった時代、といえば聞こえもよく、当時の人たちもそれにあやかっていたこともあると思います。高度成長、三種の神器、アニメ番組やタレントの庶民文化の勃興など。でも、光と影の関係がどうしても出てきます。
小林さんはそこまでは言っていませんが、政治がポピュリズムに傾けば、見かけ上うまく働いても、そこには表面的で空疎な営みを嗅ぎとる人たちもいたと思います。こんなことで大丈夫なのか、日本は、日本人はと。
あと、プラトンがやはりキリスト教以前で、キリスト教と関係していないという意味が大きいと思われます。その意味で「国家」は日本人には分かりやすい。「論語」並みにわかりやすいとはいえないまでも。
小林さんは、プラトンの政治論から人の心や教育論に敷衍しています。経験に基づいた日常的、人間的な政治論が必要だ。計画とか空論に負う政治論では人間は納得しない。岡さんの「情」理論に通じる話とも思いました。
――つづく――
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