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“俺、GODIEGO、好きだナ”

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  • 『走り去るロマン』に賭けた夢(ロマン)

    2025年1月、レコードデビュー50周年を迎えるタケカワユキヒデ(ゴダイゴ)。そのデビュー作『走り去るロマン』への道のり、そしてゴダイゴ結成までを詳細に綴る連載。週1回更新予定。

最近の記事

『走り去るロマン』に賭けた夢 連載17 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

第6章 『走り去るロマン』リリース&ツアー編 1975年 ①<75年元日、デビューシングル発売> 1975年1月1日、日本コロムビアよりタケカワのデビューシングル「走り去るロマン」(YK-2-AX/600円)が、アルバムからのシングルカットで先行リリースされた。 このシングル盤の価格について触れておきたい。73年秋以降の第一次オイルショックによる原材料、制作コストの高騰に対処するため、73年末から74年前半にかけてレコード各社はLP盤の値上げに追い込まれたが、各社は7イン

    • 『走り去るロマン』に賭けた夢 連載16 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

      第5章 デビューアルバム レコーディング編 1974年 ③<日本コロムビアからレコードデビュー決定> 全12曲で構成されたアルバムの原盤が完成。ここからはレビュー・ジャパンとして、三つの売り出し方をプランニングすることになる。 ①日本国内でレコードをリリースし、タケカワというアーティストを売り出す。 ②原盤輸出:海外に向けてアルバムの楽曲の版権、そしてタケカワという作家を売り出し、現地のアーティストに楽曲を使用(カバー)してもらう。 ③海外でタケカワのレコードのリリースが実

      • 『走り去るロマン』に賭けた夢 連載15 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

        第5章 デビューアルバム レコーディング編 1974年 ②<初めての “ゴダイゴ” 構想> 74年6月、ジョニーがタケカワにミッキーの話をした3日後に、帰国したミッキー本人からジョニーの元に電話が来る。その翌日にはジョニーはタケカワと、レビュー・ジャパンのスタッフの加藤悠を連れて、磯子にあるミッキーの実家を訪れた。ジョニーは過去にミッキーと面識があり、旧交を温めるのはもちろんだが、タケカワのデモ録音のアレンジを相談する目的も兼ねていた。持参したデモテープをミッキーに聴かせて

        • 『走り去るロマン』に賭けた夢 連載14 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          第5章 デビューアルバム レコーディング編 1974年 ①<74年もデモテープ制作でスタート> 1974年に入り、タケカワは奈良橋と共作した新曲(連載13参照)のデモ録音に早速取り掛かる。『HOME RECORDING DEMO ARCHIVE SERIES』VOL.1の19~22曲目に収録されている4曲分は『TAKE & YOKO』と題され、年始の1月に録音されている。このときは長兄・芳弘が住んでいたマンションで、彼が所有する4チャンネルのオープンリール・テープレコーダー

        『走り去るロマン』に賭けた夢 連載17 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

        • 『走り去るロマン』に賭けた夢 連載16 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

        • 『走り去るロマン』に賭けた夢 連載15 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

        • 『走り去るロマン』に賭けた夢 連載14 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

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        • 『走り去るロマン』に賭けた夢(ロマン)
          18本

        記事

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載13 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          第4章 レビュー・ジャパン編 1973年 ③<1973年のコンサート活動> レビュー・ジャパンと契約1年目のタケカワは、東京外大2年としての学生生活との両立もあり、“専属作家”としての活動はのんびりとしたものだったという。たまに会社からの依頼でCMソングのコンペ用に書いたものが不採用になったり、当時100曲ほどあった自作曲のデモテープを事務所に持ち込み、ジョニーに聴かせて感想を訊くぐらいだった。 恒例となったソロコンサート『TRECNOC』も、前年7月に日本青年館で開催し

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載13 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載12 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          第4章 レビュー・ジャパン編 1973年 ②<タケカワ、レビュー・ジャパンと専属作家契約> 話は1973年春に戻る。同年3月、前年の秋からレコードメーカー各社のディレクターとの橋渡しをしてくれた、ヤマハ音楽振興会の雑誌『ライトミュージック』編集者の大久保光枝からタケカワに電話が来る。 前年に都内の主要7社のレコード会社と交渉決裂に終わっている上に、大久保も結婚のために近々ヤマハを退職する予定だという。今回の会社でダメだったらもう紹介できないと言われて、もしそうなった場合は

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載12 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載11 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          第4章 レビュー・ジャパン編 1973年 ①<MCA日本支社「レビュー・ジャパン」> タケカワが二度目の受験生生活を送っていた1972年2月。後にタケカワのプロデューサーとなるジョニー野村は、妻の野村(奈良橋)陽子と共に日本へ帰国する。ニューヨーク滞在中に知り合った、MCA(Music Corporation of America)社長のサルヴァトーレ・T・キャンティア(Salvatore T. Chiantia)からの依頼で、既に設立していた同社の日本支社にあたる「株式会

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載11 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載10 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          第3章 大学1年生編 1971~73年 ③<レコード会社と契約寸前…も?> 都内レコード会社のディレクターと口論を繰り返し、レコードデビューの交渉決裂が続いていたタケカワ。だが例外的に、ビクター音楽産業(現・ビクターエンタテインメント)だけはいい感じで話が進んだ。これまで必ずネックとなっていた、英語詞についても「とりあえず詞の件はおいといて、ぜひレコードデビューの契約をしたい」と同社の制作ディレクターが提案してきた。 「契約書を見せてください」と言うタケカワに対し、ディレ

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載10 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載09 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          第3章 大学1年生編 1971~73年 ②<第2回『TRECNOC』で東京に進出> ワンマンの自主コンサート『TRECNOC』の、2度目の開催を決定したのは72年5月。日程は7月22日(土)、会場はこれまでの浦和市内から東京に進出し、千駄ヶ谷の日本青年館ホール(77年に解体された初代の青年館で、ホール収容人数は1,000人程)を手配。準備期間2か月、バンドメンバーはまだ集まってない上に、楽曲も構想だけでまだ完成しておらず練習以前の話。リハーサルの場所を借りるお金もなく、大き

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載09 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載08 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          第3章 大学1年生編 1971~73年 ①<初めてのホールコンサートを共催> 横浜国大へ入学する前月の1971年3月。古い友人からタケカワに電話が来る。彼は白幡中学時代の同級生で、桐朋学園大学の演劇科に進学することが決定していた。お互いの近況を話しているうちに、その友人から相談を持ち掛けられる。なんでも、武蔵野音楽大学の学生だった彼の姉が、つい先日の卒業演奏会でベートーベンのピアノソナタ第23番「熱情(アパショナータ)」を第一楽章しか弾かせてもらえず、全楽章を披露する機会が

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載08 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載07 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          第2章 高校生編 1968~71年 ④<初めてのレコードデビュー話> 石川鷹彦との交流によって、思いがけない話が飛び込んでくる。石川の友人のミュージシャン、麻田浩から持ち掛けられた、レコードデビューのスカウトだ。 麻田は明治学院大学在学中の1963年に、マイク真木らとカレッジフォークのグループ “モダン・フォーク・カルテット”(アメリカで同時期に活動していた同名グループとは別)を結成。67年に1年間の単身アメリカ放浪を経て帰国し、71年にCBSソニーからレコードデビュー。

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載07 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載06 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          第2章 高校生編 1968~71年 ③<初めてラジオ、テレビで曲がオンエアされる> マネージャー役のクラスメイトがタケカワの楽曲を “売り出し” しようと、「深夜放送で、曲のテープ送ったら流してくれるそうだぜ!」と教えてくれたのが、TBSラジオで深夜24:30からオンエアされていた『パックインミュージック』。ザ・フォーク・クルセダーズの元メンバー、北山 修が69年4月から水曜深夜のラジオDJ(ディスクジョッキー=現在のラジオパーソナリティ)を担当しており、リスナーからの自作

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載06 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載05 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          第2章 高校生編 1968~71年 ②<夜の店を転々と> 高校1年の2学期から始めた、金町のサラリーマンコンパでのアルバイトは、わずか2か月半で「店を改装するから」と一方的にクビを告げられていた。またも彼らバンドの演奏場所がなくなり、練習バンドに逆戻りする。 69年当時はまだ、首都圏ですら現在のようなライブハウスというものがなく、ジャズ喫茶(ジャズのレコードをBGMで流す純喫茶とは別物)やゴーゴーホール(ディスコティーク)など、箱バンの演奏がある業態の店が、現在で言うとこ

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載05 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載04 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          第2章 高校生編 1968~71年 ①<“浦高” 入学> 1968年4月、タケカワは埼玉県下でも屈指の進学校、埼玉県立浦和高等学校に入学する。“浦高” は男子校で、校訓は “尚文昌武”(しょうぶんしょうぶ)。「文を尚(たっと)び 武を昌(さか)んにす」、すなわち「文武両道」の精神が同校の理念である。毎年春に新入生歓迎マラソン(10km)、11月には隣県の茨城県古河市までの“強歩大会”という名称のマラソン大会(50km)という過酷な恒例行事もありながら、生徒の自主性を尊重した

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載04 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載03 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          第1章 誕生~小中学生編 1952~68年 ③<ビートルズのコピーバンドとして始動するまで> 楽器初心者が集まったバンドだったため、アンサンブル以前に各々が楽器を弾けるようになるところからのスタートである。練習は毎週日曜、メンバーの家の物置が練習場所。ドラム購入前は椅子を叩いてドラムの代わりにしていた。タケカワは少しギターを弾けて、練習曲の各パートの耳コピ(聴音)は得意なものの、他人に教えた経験がないのでなかなか進まない。ほんの数小節のフレーズをタケカワがギター担当のメンバ

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載03 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載02 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

          第1章 誕生~小中学生編 1952~68年 ②<初めてビートルズの音楽に触れる> 小学5年の終わり頃、次兄・光男が買ってきたシングル盤のレコード「抱きしめたい/こいつ(ジス・ボーイ)」(1964年2月5日リリースの日本国内デビュー盤)を聴いたのが、ザ・ビートルズとの最初の遭遇となる。その時点では「別に特別とは思わず、ただうるさいだけでピンとこなかった」というのがタケカワの感想だった。どちらかといえばA面よりB面の「こいつ」の方が好きだったという。当時、家族が所有するステレオ

          『走り去るロマン』に賭けた夢 連載02 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~