『走り去るロマン』に賭けた夢 連載03 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~
第1章 誕生~小中学生編 1952~68年 ③
<ビートルズのコピーバンドとして始動するまで>
楽器初心者が集まったバンドだったため、アンサンブル以前に各々が楽器を弾けるようになるところからのスタートである。練習は毎週日曜、メンバーの家の物置が練習場所。ドラム購入前は椅子を叩いてドラムの代わりにしていた。タケカワは少しギターを弾けて、練習曲の各パートの耳コピ(聴音)は得意なものの、他人に教えた経験がないのでなかなか進まない。ほんの数小節のフレーズをタケカワがギター担当のメンバーに根気よく教えている間、手の空いている他のメンバーが野球やサッカーで遊んでしまう。やがてタケカワらも一緒になって遊びの輪の中に入る、そんなことの繰り返しだった。遊び友だちの延長線上にあるバンドだったため、メンバー同士でビートルズの映画『ヘルプ! 4人はアイドル』("HELP! "、日本公開65年11月13日)を観に東京の有楽座に行ったり、中学3年の頃には池袋まで出てザ・タイガースのコンサートに行ったりもしていた。
彼らが初めてコピーしたのは実はビートルズではなく、スウェーデンのグループ、ザ・スプートニクスの65年のヒット曲「霧のカレリア」。エレキギターのインスト曲だが、主旋律はゆったりとしたリズムの楽曲。同年の1月にはザ・ベンチャーズが2度目の来日を果たし、日本にエレキブームが到来したが、同時に “エレキは不良がやるもの” とのレッテルが貼られ、学校内でもバンド活動はいっさいの内緒ごと。66年6月にはビートルズが初来日して社会現象になり、当然ながら中学校のクラスの間でも話題になるが、バンドのメンバーたちは教室の中ではビートルズの話題に加わらず、バンドメンバー同士しかいない時に思いっきりビートルズの話をする。「ビートルズはまるで自分たちの合言葉のようだった」とタケカワは述懐する。
その後、バンドメンバーは何人も入れ替えがあり、当初タケカワにバンド結成を持ち掛けた友人も脱退。その後に野球部のチームメイトがギターで加入し、彼が他のメンバーに楽器を教えるのを手伝ってくれたことと、楽器が揃ってきたことで、ようやくビートルズのコピーのための練習を始められるようになった。
彼らがコピーの手本としたレコードが、日本で初めてリリースされたビートルズのLP盤『ビートルズ!(MEET THE BEATLES!)』(東芝音楽工業、1964年4月15日リリース)。アメリカでリリースされた『MEET THE BEATLES!』とは異なり、日本独自に選曲された曲順で、「抱きしめたい」「シー・ラヴズ・ユー」「フロム・ミー・トゥ・ユー」「ツイスト・アンド・シャウト」「ラヴ・ミー・ドゥ」…といった当時のベスト曲集のような構成のコンピレーション盤だった。彼らはまずA面1曲目の「抱きしめたい」から練習するが、「1曲目をマスターするまでは2曲目はやらない」とバンド内でルールを決めたため、「抱きしめたい」をようやくマスターしたのがバンドを結成してから1年半後の中学3年時。だが、1曲目さえマスターすれば2曲目の「シー・ラヴズ・ユー」以降は次々とマスターしていく。結成当初はタケカワが他のメンバーのパートの面倒も見ていたのが、各自が自分のパートをできるようになり、彼らはビートルズナンバーのレパートリーを増やしていくことになる。
<作曲は一時封印>
作曲は中学生になってからも続けてはいたが、相変わらずポップス調の曲に仕上がらない、そんな日々が続いていた。タケカワの好きなジャンルのメロディを書きたいと思っても、学校の校歌や、NHK『みんなのうた』(1961年放送開始)のような唱歌タイプの曲になってしまう。この頃のタケカワは、五線紙に音を書きとることばかりを考えた結果、どんな音楽をきいても全部ドレミで聞こえるようになり、曲を書くのがつまらなく感じた時期もあったという。ドレミではなく雰囲気で作曲したい―ドレミで表せない歌い回しを使うことが多い英語詞の歌への憧れは募るばかりであった。
中学1年時、現代詩を書くのが好きなクラスメイトがいて、彼の作った詩に曲をつけてみた。その結果、出来たのは「お前はだれ、お前はだれ!」と連呼する奇妙な曲。そんな曲がいくつも出来上がった。
帰国子女のクラスメイトが書いた英文を元に、今度こそは!とばかりにタケカワはビートルズやニール・セダカのようなポップな曲を想定して作曲してみたが、「トム・ジョーンズが歌ってた、『007 サンダーボール作戦』(1965)の主題歌みたいな、とんでもなく渋い、大げさな曲」になったという。
やがて中学2年になって、バンドメンバーのひとりが自作の詩を「タケ、これを英語に訳して曲を作ってみてよ」と渡してきた。それは「サンキュー」というタイトルで、
“サンキュー これだけ
サンキュー 君だけ
サンキュー アイラブユー”
といったラブソング風の詩だった。家にあった和英辞書を引きながら英語に訳したが3時間ほどかかり、3行程度のサビともう1行ちょっとで力尽きる。中学2年レベルの英語で訳した詞で曲を書いてみたら、ようやくポップなサビのフレーズが出来上がった。
ポップなメロディは自分で書けたが、中2レベルの英語力で1曲フルサイズの詞を英語に訳すのはまだまだ難しい、とタケカワは痛感する。この「サンキュー」にしても、メンバーが書いた元のフレーズの “サンキュー これだけ” を "Thank you, only this much" と英訳したが、「これだけ=唯一」という意味のつもりで英訳した "only this much" は “たったのこれっぽっち” の意味で、そういった英語のニュアンスの違いもひとつの壁だった。
<中学2年時の、タケカワの “横顔”>
66年の秋、後期生徒会の役員選挙に先立ったクラス会で、各組から候補者を決定するにあたり、タケカワが推薦されることになった。野球部(浦和市内の新人戦で、白幡中学野球部は優勝を果たしている)と秘密のバンド練習で忙しい中、「これ以上忙しくなりたくない」という想いと、生来の目立ちたがり屋の性格のジレンマを感じながら、一番当選しにくいと思っていた会長に立候補する。立候補演説会でナンセンスな内容の演説をすれば落選するだろう、という思惑で前夜に必死になって考えたが、緊張のあまり記憶が飛んだため、即興の演説をする。「生徒会は、運動会とは違います!」という、突拍子もない出だしの演説は、タケカワの予想に反して、場内の大爆笑から始まり、拍手喝采で終わる。その結果、3票差で生徒会長に当選してしまう。
生徒会長になったことによって、タケカワの中学校生活はさらに多忙なものとなった。放課後は野球部の部活でキャッチャーを務め、帰宅すればビートルズのレコードを聴き込んで全部のパートのコピーと歌詞の書き取り。夕食後は学級新聞に掲載する推理小説の執筆。何日かに一度は野球部を休んで生徒会の議事進行。そして日曜日はバンドメンバーの家に行きバンドの練習…といった具合だった。
生徒会長就任後、彼のクラスメイトが校内新聞に寄稿した、当時のタケカワの人となりを紹介したい。
この文を書いたクラスメイトは、小学校もタケカワと同じ岸町小学校に通っていたが、6年間で一度も同じクラスにはならず、この2年D組で初めて同じクラスになったという。席も隣り同士で、授業中にタケカワが彼のノートを覗き込んだら、パラパラ漫画が描かれており「オレにもやらせろ」と意気投合。二人で一緒に新聞委員になり、二人で考えた推理小説を載せた『古新聞』という名前の学級新聞を作っていた。彼はその後も中学3年から高校3年まで全く同じクラスで、現役で東京外国語大学に進学し、タケカワの創作活動のパートナーとなる。デビューアルバム『走り去るロマン』収録の「FRAGMENTS」、ビッグジョンのCMソングにもなった「SMILE」を作詞した、小山ジョージ(條二)は彼のことである。
<バンドの初ライブは卒業謝恩会>
68年3月、白幡中学校の卒業を迎える。卒業後の進路は埼玉県立浦和高校に合格。コピーバンド結成以降はあまり勉強をしなかったらしいが、中学3年の最後は受験勉強に本腰を入れて行い、タケカワが言うには「ギリギリで合格」したようだ。
中学時代を通して、タケカワたちのバンドは教師たちや他の生徒に内緒でやっていたため、人前で演奏する機会はなく、練習だけのバンドだった。3年の夏に野球部を引退してからはレパートリーも20曲位まで増えており、中学の卒業を目前にして「卒業式に人前で演奏したい!」とメンバー全員で盛り上がる。そこで、生徒会長の経験があるタケカワが教務主任の教師に「卒業謝恩会で演奏させてください」と交渉に行くことになる。その教師はギョッとした形相で、「まさか、エレキじゃないだろうな? エレキはダメだぞ」との反応。当時はまだまだ “エレキは不良” とのイメージも残っており、タケカワは咄嗟に「いいえ、エレキじゃありません」と答える。彼らのバンドの構成は一人がエレキギターだが、もう一人はピックアップマイクを後付けした生ギター、そしてタケカワはエレキベースだからエレキギターではない。そして「エレキを聴かせたいんじゃなく、歌を発表したいんだ」との主張が通り、なら一度聴いてやるから演奏してみろと、教師を相手にした “予行演習” が行われることとなった。
楽器とアンプを学校のリアカーで音楽室まで運び、教師たちを目の前にした“予行演習”。教師たちの間で話が広がったのか関係のない教師まで集まり、音楽室は30人ぐらいの教師で溢れかえっていた。しかも生ギター担当のメンバーが直前にエレキギターを購入しており、エレキギター2本とエレキベース、ドラムの編成となり、「なんだ、これエレキじゃないか!」と大騒ぎする教師たち。タケカワは「ともかく聴いてください」と教師たちをなだめて、セッティングを進めた。
腕組みする教師たちの前で緊張しながらも、1曲目にバンドの十八番の楽曲「シー・ラヴズ・ユー」を演奏し終えたら、予想外に教師たちからは拍手喝采。社会科の教師から英語で "Next number ? " とアンコールの催促。2曲目が終わった後も "Next number ? " が続く。4~5曲を演奏したところで教務主任から「いいんじゃないか」と謝恩会での演奏許可が出た。「その代わり、プログラムに書かないのは我慢してくれ。バンド演奏とか書くとエレキがバレて問題になって、演奏できなくなるかもしれないから」との条件付きだった。
本番の卒業謝恩会では、体育館の裏に楽器を隠してから他の同級生たちと一緒に謝恩会に出席。その終盤で教師がこっそりと耳打ちした。「出番だぞ」。席をこっそりと抜けて、体育館裏からマイクスタンドとアンプを持って、ステージへ向かった。あまりの緊張のため足が前に進まず、ステージの中央に置くべきマイクとアンプを下手側にサッと置いてステージ袖に戻ってしまう。そのため演奏している途中で「ヤバイ、なんでこんなに端っこなんだろう」と気付いたという。
体育館のステージ上で、生徒と教師を前に演奏が始まる。「ノー・リプライ」「ベイビー・イッツ・ユー」「ツイスト・アンド・シャウト」「シー・ラヴズ・ユー」の全4曲。緊張しながら無我夢中で演奏したため、その時の心境はよく覚えていないそうだが、歌っているうちに絶好調になった感覚は覚えているという。そして演奏後に起きた大拍手。このときの感動と成功体験が、タケカワにとって歌がやめられないきっかけになったとし、卒業謝恩会という大人数の前で演奏するきっかけをくれた当時の教師には今でも感謝の念を持ち続けている。
<中学卒業時点での、楽器遍歴>
ここまででタケカワが経験してきた、楽器を簡単にまとめてみたい。
①バイオリン … 5歳~中学入学時まで習う。あまり好きではなかったようだが、後々に『走り去るロマン』のレコーディングでストリングスの編曲をする際に、バイオリンの経験が役立ったという。
②ピアノ … 幼少のころから二人の兄がピアノを習っていたため、真似て弾いていた。実際にクラシックピアノを練習するのは、高校2年以降に音大受験対策でのこと。
③ギター … 中学に入り、自主的にギターを弾くようになる。バイオリンで倍音を学んだことが、自己流ながらギターで和音(コード)を見つけていくことに役立ったという。
④ベースギター … 同級生たちとのバンドでエレキベースを担当。それ以前の兄たちとのジャズ練習を通して、音程の取り難いコントラバスでベースラインを追うことを経験しており、ベースをプレイしながらの歌唱も行う。
歌唱時のメロディの取り方においては、小学4年時に長兄のラテンバンドの練習に付き合わされたことが、ハーモニーの何たるかを覚えるきっかけになったという。中学以降のバンドでビートルズの曲を歌う際に、当たり前のようにハーモニーを付けられたのは長兄に鍛えられた経験が活きているとし、後の音楽活動にも良いことずくめだったと評している。
当然のことながら、各楽器は大人の演奏者レベルではなかっただろうが、年齢レベル以上の基礎は一通り経験しており、総合的なスキルが身に付いたものと思われる。作曲についてはまだまだ、自分の目指す英語のポップソングには到達していなかったものの、高校2年以降に一気に “開花” することになる。
※本文中に登場する人物は、すべて敬称略にて表記しております。ご了承ください
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