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『走り去るロマン』に賭けた夢 連載07 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

第2章 高校生編 1968~71年 ④

<初めてのレコードデビュー話>

石川鷹彦との交流によって、思いがけない話が飛び込んでくる。石川の友人のミュージシャン、麻田浩から持ち掛けられた、レコードデビューのスカウトだ。

麻田は明治学院大学在学中の1963年に、マイク真木らとカレッジフォークのグループ “モダン・フォーク・カルテット”(アメリカで同時期に活動していた同名グループとは別)を結成。67年に1年間の単身アメリカ放浪を経て帰国し、71年にCBSソニーからレコードデビュー。76年にはトムス・キャビン・プロダクションを設立して、海外のニューウェーブ系アーティストを日本に招聘するプロモーターとして、数多くのコンサートを実現させている。

麻田はモダン・フォーク・カルテットの頃から石川と交流があり、前述の『フォークビレッジ』に二人で出演したのを機に、石川が同番組の音楽監督に就いた経緯がある。70年当時、麻田は同年11月に新設されるレコ―ド会社「ワーナーブラザーズ・パイオニア」(以下、WBPと略す)のプロデュース業務に携わることになり、会社の上部からの「最初にやるのは、お前が好きなヤツを連れてきてもいい」との言伝で、高校3年のタケカワを推挙することとなった。

麻田は後年、インタビューでこう述懐している。

「実はゴダイゴのタケカワユキヒデ君は高校生の頃から知っていて、彼のデモテープを聴いた時に『才能のある奴だな』とすごく驚いて、レコード会社に売り込みに行ってたんですよ。ただその頃のタケカワ君は英語でしか歌を書いたことがなかったので話がまとまらなくて、その後ジョニー野村がマネージメントをしてゴダイゴでどでかく売れたんですよ。」

ウェブサイト『Musicman』麻田浩氏スペシャルインタビュー 2005年1月14日公開/エフ・ビー・コミュニケーションズ

英語の詞で進める前提だったが、リライトの希望を出してからしばらく音沙汰なしとなり、結果的には頓挫している。

「英語でやりたいと言ったらOKが出て。当時は僕が80%書いて友達が20%くらい書いていたんですけどどこか我流なところがあって。英語をちゃんとできる人を紹介してほしい、歌詞をやり直すからという話をしているうちに別の英詞のアルバムが出ることになってしまったんです。麻田さんはお前の音楽はまだ早いから何年かコンサートをやってればいい、そうすれば声はかかるよ、と言ってくれて。」

『B.PASS ALL AREA』vol.15 PP. 137-138 連載「“モンキー・マジック”とゴダイゴの夢」vol.2 田家秀樹著/2023 シンコーミュージック・エンタテイメント

情報を整理するが、WBPは当初、米国の総合メディア企業である「ワーナーブラザーズ」と国内音響メーカーの「パイオニア」、そして芸能プロダクションの「渡辺プロダクション」の3社が共同出資して設立されたレコード会社。設立は70年11月で、翌71年1月には第1回新譜として洋・邦楽のLP、シングルが一挙リリースされている。日本人アーティストは当然、“ナベプロ”に所属する歌手がメインとなるところだが、当然ながら同プロ所属の歌手は既に東芝やキングレコードなど他のレコード会社と契約済みだった。一例を挙げれば、70年に日本コロムビアで「経験」が大ヒットした、ナベプロ所属の辺見マリは翌71年にWBPへ移籍している。また、71年以降にデビューした小柳ルミ子やアグネス・チャンはWBP系列のレーベルからレコードをリリースしている。設立当初のWBPは新たな日本人の契約アーティストを擁立する必要があった。

その一方で、WBPはナベプロ勢を中心とした日本の歌謡曲・邦楽のレーベル以外にも、米国の“Atlantic”レーベルの配給権を得ていた。そのAtlanticレーベルからレッド・ツェッペリン、CSN&Yなどの洋楽作品を日本国内でリリースする他に、グループサウンズブーム終焉以降のニューロック(アートロック)の日本人ミュージシャン、バンドたちの作品がAtlanticレーベルから発表されることとなる。以下は同レーベルから、71年上半期にリリースされた、国内ニューロックの作品群である。

・3月… 柳田ヒロの2ndアルバム『HIRO YANAGIDA(七才の老人天国)』(元エイプリル・フール~フードブレイン解散後のソロ2作目。2曲の英語詞曲以外はインストゥルメンタル)

・4月… “フラワー・トラヴェリン・バンド” の2ndアルバム『SATORI』(元4・9・1のジョー山中、元ザ・ビーバーズの石間秀樹らで結成。前年10月に1stアルバム『ANYWHERE』をリリースしたフィリップスから、WBPに移籍)

・6月… “スピード・グルー&シンキ” の1stアルバム『前夜』(元ザ・ゴールデンカップスの加部正義、元パワーハウス~フードブレインの陳信輝が在籍)

・7月… “ジュニ&トゥー・マッチ” の1stアルバム『TOO MUCH』(元ザ・ヘルプフル・ソウルのジュニ・ラッシュが結成したバンド。71年2~3月録音で、ボストン留学前のミッキー吉野もオルガン、ピアノ、メロトロンで4曲にゲスト参加)

ここからは筆者の推論になるが、タケカワが述懐するところの「別の英詞のアルバムが出ることになって~」とはこれらのAtlanticレーベルの国内ミュージシャンのいずれかの作品ではなかったかと考える。いくらタケカワのデモテープに才能を感じたとしても、その時点でバンドを組んでもいなく、オリジナル曲でのライブ経験も少ない高校生をすぐさまレコーディングさせるのは現実的ではない。GSブーム期を含めてライブ経験が豊富なメンバーがいるニューロックのバンドを即戦力としてレコードをリリースする方が当然ながら現実的であろう。

また、麻田が言ったとされる「タケカワの音楽はまだ早いから~」の言葉は、体のいい断り文句のようで、実は当時の音楽シーンの状況を的確に捉えている気がしてならない。フォークソングブーム前夜の時期で、ソロのシンガー・ソングライターが台頭するにはまだ時期尚早。しかも英語詞を乗せたポップなメロディをソロで歌うスタイルは、やはり70~71年の段階では異端に映ったのだろう。逆に、無理矢理にバックバンドをつけて、タケカワの楽曲をヘビーなブルースロックに仕立てて歌わせるとなると、タケカワの個性が殺されるのは火を見るより明らか。70年当時のデビュー頓挫は、逆になくてよかった、というのが筆者の見解である。

不思議な因縁だが、これから10年後の1980年、トムス・キャビン・プロダクションが倒産した麻田に「うちにおいでよ」と声を掛けたのがジョニー野村。麻田はジョニーが社長を務めるゴダイゴの運営事務所、ジェニカ・ミュージックグループに入社し、ルースターズら同社所属バンドのブッキング業務を担当することになる。麻田はジェニカには3年程在籍したが、83年にほぼ時を同じくジェニカを退職した日高正博と共に、後のフジロックフェスティバルの運営会社となる“スマッシュ”を設立する。

<ヤマハ音楽振興会との接点>

70~80年代において、アマチュアのミュージシャンにとってヤマハ音楽振興会が主催する各種コンテストはプロデビューへの登竜門だった。通称 “ポプコン” の「ポピュラーソングコンテスト」(最初期は「作曲コンクール」の名称でプロ対象だったものが、72年からアマチュア対象に変更)は余りにも有名である。70年代の半ばになってくると、ポプコンのグランプリや最優秀賞を受賞したシンガー・ソングライターがレコードデビューし、ヒットチャートを賑わせることとなる。小坂明子(73年、第6回グランプリ)、八神純子(74年、第8回最優秀賞)、中島みゆき(75年、第10回グランプリ)、世良公則(77年、第14回グランプリ)もポプコンを足掛かりにしてデビューしている。

そのポプコン以前に行われた、ヤマハ主催のコンテストに「ヤマハ・ライトミュージック・コンテスト」(67~71年開催)がある。同コンテストはフォーク、ロック、ヴォーカル、ジャズの各部門でアマチュアの音楽家たちが競うもの。特に69年開催の第3回全日本グランプリ大会では赤い鳥、ジ・オフ・コース(後のオフコース)、ザ・フォーシンガーズ(後のチューリップの財津和夫、吉田彰が在籍)を輩出した伝説の大会として語り草となっている。

タケカワはコピーバンドを結成していた高校1年時、当時入り浸っていたアサヒ楽器店の店員の計らいで第2回コンテストの東京都内のオーディションに初参加。ビートルズの楽曲を演奏するも予選落ちに終わる。そして2年後の70年10月、今度はソロとして第4回コンテストの東京地区大会に二度目の出場を果たした。タケカワはここで「WATER SHE WORE」を披露したが、この時も予選落ちしている。曲を聴いた審査員から言われた、「この曲ってきっと色っぽい歌詞なんだろうね。僕の持ってるポルノ小説に同じタイトルのものがあるんだけど、知ってる?」という、およそ楽曲の良し悪しとは関係ないコメントが思い出に残っているらしい。

地区大会に出場した縁からか、タケカワは同年11月8日(日)に、ヤマハ主催の「合歓ポピュラーフェスティバル'70」(三重県・合歓の郷ヤマハミュージックキャンプ屋外ホール)で審査員を務めている。同コンテストはプロの作曲家を対象にしたもので、69年~72年(72年のみ本歌謡祭の名称)の計4回行われ、この70年大会のみアマチュア枠の審査員制度が採用された。同大会のグランプリは中村八大作曲の「涙」(歌・雪村いずみ)。歌手部門の新人奨励賞として赤い鳥「翼をください」(翌71年2月にレコード化)が入賞している。タケカワは東京地区のアマチュア審査員として参加。三重へ新幹線で向かうのが前日の早朝で、高校最後の実力テスト2科目を欠席したため、学年400人中386番に終わる。すでに進路として音楽大学志望を担任に伝えており、テスト欠席も大目に見られたという。

タケカワはヤマハのコンテスト入賞とは縁がなかったが、これから2年後に、同じヤマハが発刊する音楽雑誌、『ライトミュージック』の編集部へ訪れた際にひとつの転機を迎える。これは第3章で後述したい。

<初めてのNHK出演で味わった悔しさ>

大学受験間際の1971年2月21日、NHK総合テレビの番組『10代とともに』に出演する。

1971(昭和46)年2月21日(日)7:35~8:00放送。同日の日本経済新聞の16面テレビ欄には、出演者として「武川行秀」との記載あり

大人世代の司会者と10代の若者たちがスタジオで討論する番組で、70年度に放送された討論テーマとして「長男」「先生」「長髪族」「男女同権」といったキーワードが並ぶ中、タケカワが出演した回の討論テーマは「ギター」だった。当然、英語詞の自作曲をギターで歌ったが、悔しい想いをする結果となる。

「それはひどい言われようでした。(中略)日本語を大事にしない若者が現れたという扱いだったんです。僕は自分の音楽を聴いてくれる人がいる、と一生懸命歌ったのに“ほら、こういう風に日本語を大事にしない若者がいるんだ”と言われて。まさかそんなことを言われるとは思ってませんでしたからね。生放送だったんで憮然としたまま終わったんですよ。こういうことを平気でするんだ、と思ったけど今でも当時のテレビの人たちはひどいなぁと思いますね。」

『B.PASS ALL AREA』vol.15 P. 137 連載「“モンキー・マジック”とゴダイゴの夢」vol.2 田家秀樹著/2023 シンコーミュージック・エンタテイメント

それ以前にタケカワが出演したラジオ、テレビ番組は若者を対象にした番組であり、音楽をメインとした内容だからこそタケカワの音楽を評価してもらうことができた。しかしこの『10代とともに』は大人と若者のジェネレーションギャップから発生する、討論テーマを提起するがための番組だったらしく、言ってしまえば若者文化を大人側のサンドバッグにするような内容だったのではないかと思われる。筆者は同番組を未見のため推測の域を出ないが、過去のエレキブームやGSブームのときと同様、到来しつつあった70年代前半のフォークブームに対する、大人側からの “拒絶反応” もあったのではないだろうか。番組の性格を知らないまま、18歳のタケカワが番組の「噛ませ犬」となった気がしてならない。

<大学受験、そして浦高卒業>

進学校である浦高にあって、大学への受験問題は避けられない。高校2年の頃に進路に迷い、「大学に行かず、音楽をやりたいんだ」と言うタケカワに、父の寛海が勧めたのは東京藝術大学の作曲科への受験。「オレは入れるのか?」と訊く息子に対し「まあ入れないことはない」と答えたという。

浦高サイドは音楽大学進学についての指導は範疇外のため、生徒側は自力で受験準備を進めなければいけなかった。藝大の受験にはピアノと和声学が必須のため、タケカワはそれまで一度も習ったことのなかったクラシックピアノを練習し始めることになる。受験までの一年半、音大の受験対策をしてくれる先生について勉強したものの、その先生の知っていることしか教えてもらえず、また音大にありがちな“徒弟制度”(音大受験の前からその大学の教授にレッスンを受ける慣習)も知らなかったために、タケカワの「絶対に落ちるはずがない」自信とは裏腹に前途多難な状況だった。

タケカワが受験を迎える1971年当時、国立大学の入試制度は3月上旬受験の一期校と3月下旬受験の二期校に分かれていた(79年1月の大学共通一次試験導入により、一期・二期校制は廃止されている)。一期校は本命の東京藝術大学の音楽学部作曲科を志望するが、二期校には音楽を専門にしている大学は存在しなかった。いわゆる “滑り止め” として二期校を検討する中で、友人が横浜国立大学を受験すると聞き、タケカワもそれに同調する。

「ホントに仲のいい友達がいたんですけど、僕ら埼玉県じゃないですか。で、彼が(横浜国大)理工学部を受験するんだ、って。へえー、横浜ってカッコいいなあって。埼玉県人としてはね、遠ければいいと。『実はさ、向こうに親戚がいてさ、そこ泊まりながら受験するんだ。そこのメシが旨くてさ』って僕に自慢するんですよ。『もう楽しみでしょうがない』って。そりゃいいな、って。それで、受験日を迎えて、旨いメシを食って(笑)」

『いつみても波乱万丈』1995年10月29日放送回/日本テレビ

結果的には、私立の国立音楽大学作曲学科と上智大学外国語学部英語学科、国立の一期校の藝大には不合格。なんとか二期校の横浜国大の経営学部に合格(一緒に受験した友人は不合格)したため、浦和の自宅からの通学に片道2時間かかる横国大に入学することになる。だが、この時点では藝大への夢も諦めきれずにいた。

こうしてタケカワの、浦高での濃密な3年間は過ぎていった。音楽活動を除けば、高校時代の一番の思い出は3年の夏休み、友人たち4人での5泊6日の山陰旅行だったという。東京から鈍行を乗り継ぎ22時間かかって鳥取砂丘に辿り着き、わざわざ持参したベニヤ板を雀卓にして、炎天下の砂丘で麻雀をしたという型破りなエピソードを残している。

なお、タケカワは同校卒業後も、幾度か講演会の講師として登壇。創立100周年の節目にあたる1995年には「勝て浦高突き進め(百年歌)」を作曲(浦和高校百年祭実行委員会が作詞)して同校に贈った他、「浦高100周年同窓会フェスティバル」では当時のバックバンド "That's on Noise" を率いてソロコンサートにも出演した。


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