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『走り去るロマン』に賭けた夢(ロマン)連載01 <第1章>誕生~小中学生編 1952~68年 ①

<音楽一家に生まれて>

1952(昭和27)年10月22日、タケカワユキヒデ(本名・武川行秀)は埼玉県浦和市(現・さいたま市浦和区)で誕生した。

父の武川寛海は当時のラジオ東京(現・東京放送=TBS)の制作部第二課長、なおかつ同年に開学した上野学園短期大学の専任助教授にも就いていた。現在の裁判官にあたる判事を務めた武川佳海の息子であり、後にクラシック音楽評論家、ベートーベンの研究家としても知られている。ラジオ東京に入社前は1938年から43年にかけて日本コロムビアの文芸部に勤務しており、制作ディレクターとして活躍。後に息子のタケカワがレコードデビューしたのが日本コロムビアだったのは不思議な因縁と言える。

母の田代子は日本を代表するバイオリンメーカー、鈴木バイオリン製造の創業者・鈴木政吉の孫娘で、1952年当時に二代目社長を務めていた鈴木梅雄の三女、なおかつ後の三代目社長、鈴木 秩の姉にあたる。ピアノにも堪能で、後年90歳を超えてもショパンを弾いてみせたぐらいの腕前だったという。

父の寛海が東京帝国大学(現・東京大学)文学部美学科在学中に東京音楽学校(現・東京藝術大学)の聴講生となり、同学で作曲を師事していた縁で、童謡「たなばたさま」「かくれんぼ」でも知られる作曲家の下總皖一(しもふさ かんいち、1898-1962)が “行秀” の名付け親となる。兄弟構成は7歳上の長兄・芳弘と、3歳上の次兄・光男の三人兄弟。父方の祖母を含め6人家族だった。

<初めての楽器はバイオリン>

タケカワが5歳のとき、当時の鈴木バイオリン製造社長であり、母方の祖父にあたる鈴木梅雄から、梅雄手工のバイオリンを贈られる。バイオリンは奏者がこどもの場合、身体のサイズによって楽器そのものの大きさも変わる(分数バイオリン)ため、幼少の頃のタケカワには身体が大きくなる度に新しいバイオリンが贈られたという。そして、スズキ・メソードの創始者であり、母方の大叔父である鈴木鎮一の系列にあたるバイオリン教室を習うことになる。

元々は長兄・芳弘もピアノと一緒にバイオリンを習っていたが早々に諦めてしまい、次兄・光男は最初からピアノだけ。「もう後がないから、行秀にバイオリンを弾かせないと、名古屋(田代子の実家の鈴木家)に顔向けができない」との父・寛海の判断で習わせたという。しかし、2人の兄がピアノをやっている中で、自分だけが弾き方もわからないバイオリンを習わされるのが嫌で、教室へ行く道中で「行きたくない」と、母に駄々をこねて困らせていたとタケカワは当時を振り返る。

「僕はピアノをやりたかったんです。2人の兄がピアノを弾いていてそれを聴いていましたから3歳か4歳くらいで、ある程度は弾けちゃうんです。なので5歳になって何も分からないバイオリンに行くというのが嫌で。母親がバイオリン会社の娘というのは知ってるけど、どこがドかもわからない。でも、帰りにお菓子を買ってくれると言うんで、お菓子に負けたんですね(笑)」

『B.PASS ALL AREA』vol.15 P.133 連載「“モンキー・マジック”とゴダイゴの夢」vol.2 田家秀樹著/2023 シンコーミュージック・エンタテイメント

さらに、小学3年生の頃にその教室の先生が引っ越したため別の教室に移るも、新しい教室は以前の教室より厳しく、そのレベルに着いて行くのに苦戦したという。結局は中学入学後に「野球部との両立ができない」という理由でバイオリンを止めることになる。なお、幼少時に使っていた分数バイオリンは同じ教室の生徒に譲られ、小学6年の頃に祖父から贈られたフルサイズのバイオリンは、鈴木バイオリン製造が第二次大戦前に工場を構えていた愛知県大府市で2023(令和5)年に開催された展示会に寄託された。

<将来は歌手になりたい>

タケカワが通っていた幼稚園はミッション系だったため、音楽の時間に讃美歌を歌う機会に恵まれていた。タケカワによれば、少年期の声変わりがほとんどなかったらしく、幼少期から低くハスキーな声をしていたという。そのため、讃美歌や童謡を歌う際に、他の男児のボーイソプラノの中で裏声を混ぜて歌ったり、1オクターブ下げて歌ったりしていたそうだ。その幼稚園のクリスマス発表会で、クリスマスソングのソロパートが与えられ、人前でソロを歌い拍手喝采を浴びたことが「気持ちいい」と感じ、将来の夢として「歌手になりたい」という想いを初めて抱く。

タケカワが浦和市立岸町小学校に入学した1959年のこと。既に中学生になっていた長兄・芳弘が、技術の授業で工作したゲルマニウムラジオをさらに改造して、スピーカーが左右に付いたトランジスタラジオを完成させる。兄の自作のラジオからオンエアされる海外のヒット曲を好んで聴くようになったのがアメリカンポップスへの目覚めだったという。特にニール・セダカとポール・アンカの楽曲が彼のお気に入り。ちょうどニール・セダカが「恋の片道切符」「おお!キャロル」を発表し、大ヒットさせたのがこの1959年。当然のことながら英語詞のため意味も分からなかったものの、2~3回聴けばメロディを覚えて、英語の歌詞を適当に真似て歌っていた。

翌60年、小学2年に進級して新しい担任が赴任し、クラス全員の自己紹介をやることになった時のこと。1年生の頃からいつもポップスを歌っているような児童で、その歌好きぶりはクラスメイトにも知れ渡っていたという。タケカワの自己紹介の番になり、「タケちゃんといえば歌でしょう!」とみんなに囃されて一人で歌うことに。候補を1番から5番まで5曲挙げ、隣に座っていたクラスメイトが選んだ数字の「3」としてタケカワが歌ったのが「ワルツィング・マチルダ」。当時、映画『渚にて』(1959)のテーマとしてジミー・ロジャースが歌った楽曲で、60年には小坂一也もカバーで発表している。ちなみに、残りの候補だった4曲は「恋の片道切符」と「おお!キャロル」、4番にジョニー・プレストンの「悲しきインディアン」、5番がNET(現テレビ朝日)で放送されていた西部劇ドラマ『ローハイド』(米CBSで1959~60年に制作)の、フランキー・レインが歌うテーマ曲だった。このあたりの楽曲が7歳当時のタケカワのお気に入りだったということであろう。

<テレビからの影響>

武川家には当時すでに白黒テレビがあったため、テレビ放送からも自然に音楽を吸収していった。小学校低学年にして、前述の『ローハイド』や『ララミー牧場』(1960年)などの西部劇ドラマに夢中になった。当初は兄たちとのチャンネル争いに負けて観ていたものが、ドラマの意味も分からないまま、俳優たちの格好良さに魅了されていく。

そして小学2年の頃に、決定的に夢中になる番組と出会う。前年(1959年)からスタートしたフジテレビ系の番組『ザ・ヒットパレード』だ。番組では毎週のように当時の人気歌手たちが多数出演、洋楽トップ40をカバーして披露しており、それまでラジオで英語の放送でしか聴けなかったポップスがテレビの映像でも楽しむことが出来た。当時のタケカワが一番好きだった楽曲、ニール・セダカの「恋の片道切符」にしても、坂本九や平尾昌晃、ジェリー藤尾などさまざまなスター歌手がこの曲を番組内で歌っていた。逆にこの番組で好きになった、坂本九「ステキなタイミング」のオリジナル原曲(ジミー・ジョーンズ「GOOD TIMIN’」)をラジオで初めて聴いて感激する―といった具合に、テレビとラジオの両方を視聴しながら、さらにアメリカンポップスに傾倒していく。

当時、タケカワが一番好きだったスター歌手は坂本九。現在、タケカワがイベントライブ等でしばしば、坂本の「上を向いて歩こう」(1961)や、ザ・ピーナッツの「恋のバカンス」(1963)を弾き語りで歌っているのも、彼らが出演していたこの『ザ・ヒットパレード』の影響が少なからずあるのではないか。

「僕の人生にかかせない『ザ・ヒットパレード』。僕が小学校低学年の時にはじまった、本当にすごい番組で、ビートルズが登場してくるよりも前の音楽は全部この番組からもらいました。僕の音楽のルーツの全て。」

『THE MUSIC OF NOTE』2015年10月10日 放送回/FM COCOLO


<作曲家としての基礎となる “ソルフェージュ”>

タケカワがバイオリンと並行して小学1年から習っていたのが、“ソルフェージュ” (読譜や聴音の基礎訓練)。父の寛海がタケカワの通うバイオリン教室の先生に依頼したもので、譜面の読み書きを速くする教育法。「簡単な譜面を初見ですぐ歌う」、「ピアノで弾いた聴音をすぐに譜面に表す」訓練で、いわゆる“絶対音感”の才能の有無とは関係なく、“相対音感”を育む教育の一環である。通い始めた当初のバイオリン教室の先生は、バイオリンの上手さよりも教育方法に長けており、それを習うタケカワも小学4年の頃にはバイオリンよりもソルフェージュの方が得意になったという。タケカワが作曲する際、メモやノートなど手元にある紙に無造作に5本の横線を引き、頭に浮かんだメロディをササッと音符で書き込んでいくのは有名だが、その基礎はこの頃に培われたと言ってよいだろう。

その後、10歳の頃の漫画雑誌で、自分の学校の校歌を紹介するコーナーに掲載されていた、まったく別の学校の校歌の歌詞を見て、自分で曲をつけたのが初めての“作曲”体験となる。それがきっかけとなり、ソフトボールの対外試合に行くときも五線紙を持って行き、思いついたメロディを書き綴ったり、小学校5年時のクラスの歌を作曲したりと、作曲が少年時代のタケカワの生活の一部になっていった。とはいえ、この頃はまだクラシックの影響が色濃く残るメロディラインで、自身が好きなポップス調の曲にはならなかったそうだ。

<音楽一家の “みそっかす”>

タケカワのレコードデビュー時の1975年、彼のプロフィールとして「ものごごろがついた時には、家具調度と同じレベルで、音楽が周囲にあった」というコピーがあった。

両親がクラシック音楽を嗜み、2人の兄がピアノ、自身がバイオリンを習うというクラシック音楽の要素が強い家庭環境。そもそも、家長の父・寛海は青年時代にオペラ歌手志望だった。判事の息子ゆえに音楽の道を反対されながらも、大病に罹り「もしも生き残れたら自分の好きな音楽の道を進ませてくれ」と帝大の美学科に進学。病気の影響で声が出なくなったため歌手の道は諦めるも、帝大卒業後は日本コロムビアの制作ディレクター、満州映画協会の音楽監督、音楽之友社で音楽書籍の編集部長…と音楽畑を渡り歩いてきた人物である。

武川家にはピアノをはじめバイオリン、ギターなどの楽器も揃っている。そしてクラシックだけではなくラジオやテレビで国内外の最新ポップスを吸収できる。二人の兄が成長して、ラテン音楽やジャズに興味を持つと、それら他のジャンルの音楽にも触れられる。音楽環境としてはこれ以上ない程だった。

しかし、その家庭の中で、いちばん年少のタケカワは一種のプレッシャーを感じていたふしがある。

「青果店の息子がジャガイモの古い新しいを当然のように見分けるように、流れている音楽が何の音楽であるのかわからないと家族の一員にはなれない雰囲気があった。みんなどこかトンがっていて、音楽をやる以上は高みにたどり着かなければいけないという環境だから、上の兄貴が中学校の時に作曲した作品が埼玉新聞に掲載されて、僕も作曲しなければいけない…といつも感じていた。だから音楽を適当に遊びでやったということは一度もない。家業のようなものだった」

『45 Godiego 1976-2021』P.16 Godiego Anniversary Project/2021 KADOKAWA

特に3兄弟の末っ子、しかも兄たちとは7歳差、3歳差ゆえに、子ども心に “みそっかす” と感じていたと語る。後年、タケカワが子ども時代の3兄弟を振り返って、「長男・次男・下男」と表現したことがあったが、否が応でも兄たちの音楽活動に駆り出されていた。芳弘が高校2年でトリオ・ロス・パンチョスに傾倒し、ラテンバンドを結成すれば、家でスペイン語のコーラスの練習に小学4年生ながら付き合わされる。また、光男が高校3年時に参加したバンドコンテストの本番で、ヴォーカル曲という指定があり、中学3年のタケカワが客席からステージに上がってビートルズの「カンサス・シティ」を歌う。そんな無茶ぶりもあったという。

しかし、兄たちの音楽レベルの高さも知っていたタケカワにとって、“みそっかす” の自分が兄たちと一緒に音楽を出来ることは、子ども心に嬉しかったそうだ。そしてそんな兄たちに揉まれて、タケカワも自身の音楽レベルを高めていく。

「音楽の基本のレベルという意味では当時の日本では常識を超えていたでしょうね。だから家の中で認めてもらえれば、どこへ行っても平気という感じでした(笑)」

『B.PASS ALL AREA』vol.15 P.133 連載「“モンキー・マジック”とゴダイゴの夢」vol.2 田家秀樹著/2023 シンコーミュージック・エンタテイメント


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