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『走り去るロマン』に賭けた夢(ロマン)連載06 <第2章>高校生編 1968~71年 ③

<初めてラジオ、テレビで曲がオンエアされる>

マネージャー役のクラスメイトがタケカワの楽曲を “売り出し” しようと、「深夜放送で、曲のテープ送ったら流してくれるそうだぜ!」と教えてくれたのが、TBSラジオで深夜24:30からオンエアされていた『パックインミュージック』。ザ・フォーク・クルセダーズの元メンバー、北山 修が69年4月から水曜深夜のラジオDJ(ディスクジョッキー=現在のラジオパーソナリティ)を担当しており、リスナーからの自作曲の投稿を “新しいフォークの担い手” としてオンエアしていた。ちなみに、ラジオ深夜番組のDJにフォーク歌手が起用されたのは北山が初めてで、70年代のフォークソングブーム到来前夜の印象が感じられる。

タケカワは69年の秋に作った「TELL ME WHY」のテープを、年明けの三学期に番組へ送り、翌週にオンエアされる。そして結果的に年間ベスト5に選ばれる。「TELL ME WHY」は2年時のクラスメイトにも好評だった曲で、「この曲は自分たち仲間の間でテーマソング的な存在だった」という。

その流れに、親友の小山條二も乗ってくる。「オレも書いてみようかな」とすぐに英語の歌詞を書いて持ってきた。それが「THERE’S A CHURCH」。同級生で共通の友人、平田ホセア(現・タフツ大学 国際文学文化学科教授)の自宅の教会の風景をモチーフに書いたものだった。平田の父はキリスト教牧師で、教会はタケカワや小山たちとの溜まり場になっていたという。小山が書いたお洒落なラブソングの詞に、タケカワはバート・バカラック風の曲を付ける。タケカワはそれまでに書いた初期のポップな曲調ではない、大人っぽい曲を書けたことが嬉しかったと述懐している。

高校3年の4月に、タケカワはTBSテレビ『ヤング720(セブンツーオー)』にゲスト出演した時にもこの「THERE’S A CHURCH」をギター弾き語りで歌ったという。長兄の芳弘がTBSに入社後、同番組の音声エンジニアを担当していた縁で出演したもので、次兄の光男がバックでドラムを叩いていた。なお、当時この『ヤング720』には毎日のようにグループサウンズやフォーク、ニューロックのグループがゲスト出演しており、ザ・ゴールデン・カップスも1~2か月に一度のペースで登場していた。カップスとして出演していたミッキー吉野は、番組のエンジニアが芳弘だったことを後年タケカワから聞かされて驚いたという。

<初めて出会った外国人>

高校2年時、友人宅にアメリカからの交換留学生のクローディアがホームステイしており、69年のクリスマスパーティで彼女と知り合う。海外渡航歴がまだなかったタケカワにとって、彼女が初めて出会った外国人だったそうだ。

そして翌年にクローディアが帰国する際のさよならパーティで歌ったのが「BYE BYE CLAUDIA」。作詞はタケカワだが、この曲を作る過程で小山も"We shall wave good-bye to you" なるタイトルで英語詞の案を用意していたという。

レコードデビュー当時の音楽雑誌ではこの時のエピソードをこのように紹介している。

“彼が高校生の時、友達の家にアメリカの女の娘が来て、彼女と会うまで、外人はテレビと映画しか見たことがなかったという位だが、1年後には彼女がアメリカに帰る時には堂々と、自作の英詞の曲を捧げたというから、ニクイニクイ。”

『ライトミュージック』1975年2月号 P.142/ヤマハ音楽振興会

後に、同曲に片桐和子の日本語詞をつけた「バイバイ?(クエスチョン)」が、1975年11月1日にリリースされたフォーリーブスのシングル「遠い日」のカップリング曲として収録される。これがタケカワにとって “初めてレコード化された、他のアーティストへの提供曲” となる。

「バイバイ?」7インチシングル(筆者所有、サブスク未解禁)。演奏はトランザム。原曲の作詞はタケカワのはずが、クレジットでは奈良橋陽子作詞となっている。

<「HAPPINESS」>

タケカワが17歳の頃に作った曲として特筆すべきは、ゴダイゴのブレイク期にリメイクもされた「HAPPINESS」。自宅の父の部屋で布団に寝そべっていたら急に曲想が浮かんできたというのは、ファンには有名なエピソードである。

“人は喜びを得るために、働き続けている。
人は、お金を得るために働いている。
でも、どうしてそれだけでは、人生が満たされないか、わかっていないんだ。
どうして、人は血を流してまで働くのか、その理由を教えよう。
 
ひとは、幸せのために働いて、愛して、歌うんだ。
平和と自由を望むのも、幸せのためなんだ。
幸せを掴むために、そのために生きているんだ。”

CD『PASSING PICTURES BOX』ライナーノーツ P.45/2017 T-time

多感な高校生時代、「幸せとは何か?」を考えて、「みんなは幸せの意味をわかっていないんだ」という、プロテストソングのような内容で表現しようとした楽曲。ビートルズの「ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン」(1968)から "happiness" のキーワードを借りつつ、自分の中で「幸せ」を問い、この頃から自分の人生の目標を「幸せになること」と設定した、とタケカワは後に語っている。

<デモテープの自宅録音>

69年4月に「I’LL MAKE YOU SAY YOU LOVE ME, TOO」を書き上げて以降、1年余りでオリジナル楽曲のストックは40曲を数えた。それらの演奏を高校3年の間に自宅録音したデモテープ、『TAKE』VOL.1~3の3本が現在も保管されている。

当時、タケカワの自宅には一般的なテープレコーダーはあったが、多重録音ができるレコーダーは所有していなかった。そのためマイク1本の一発録音。タケカワが12弦のアコースティックギター、兄の光男がドラム(またはボンゴ)、そして二人のコーラスのみのシンプルな構成で演奏されていた。

タケカワはこのデモ音源における、光男のサポートを絶賛している。

兄のコーラスが絶妙だ。ドラムを叩きながらなのだからすごい。実は、兄がすごいのはそれだけではない。考えてみれば、兄が録音に参加しているどの曲も、兄は録音の寸前に初めて聞いた曲ばかりだった。一緒に演奏しての練習も、録音の前にコーラスも含めて三回から五回ぐらい。それで、こんなに僕とぴったりと合っていて、曲によって演奏のスタイル(曲によっては楽器まで変えている)まで変えているのだから、本当にすごい(僕が注文をつけたのは、コーラスだけで、ドラムの叩き方に関しては、いっさい注文を出していない)。当時は、二人で当たり前のようにそうやって曲を録音していたが、それは奇跡的にすごいことだったんだなと、今になって気がついている。

CD『HOME RECORDING DEMO ARCHIVE SERIES』VOL.1 ライナーノーツ P.6/2010 G-matics

2010年8月25日リリースのCD『HOME RECORDING DEMO ARCHIVE SERIES』(以下、“デモシリーズ” と略す)VOL.1に、このデモテープ3本から12曲が選曲、収録されている。前述の「YOU’RE MY BABE」「BYE BYE CLAUDIA」「HAPPINESS」の他、小山條二との共作曲「IT’S A JOY」「TWAIN SHADOWS」、3年時の同級生だった岡村幸四郎(1997~2013年まで埼玉県川口市長を5期歴任)が作詞した「DANCE」、78年にシンガーソングライターの絵夢に提供(「雨に消えた想い」としてシングル発売)した「CRIME」、そして後のデビューアルバム収録曲「WATER SHE WORE」など、17歳当時のタケカワが残した貴重な初期音源集となっている。

Track.1~12までが1970年録音のデモテープ収録分。
「CRIME」を提供し、絵夢が作詞した「雨に消えた想い」7インチシングル(筆者所有、サブスク未解禁)。1978年7月25日リリースで、演奏はゴダイゴの4人。

<ギタリスト・石川鷹彦との交流>

高校3年の6月、タケカワはニッポン放送のラジオ深夜番組『バイタリス・フォークビレッジ』(月~土曜23:00~)のオーディションに参加する。1970年当時、同番組のラジオDJは「世界は二人のために」「いいじゃないの幸せならば」の大ヒットで知られる、歌手の佐良直美。番組内ではアマチュアシンガー、バンド向けの企画として「音楽クリニック」なるコーナーが設けられていた。番組の制作スタッフには、かつて森山良子を見い出したディレクターの金子洋明や、後に作詞家として吉田拓郎と共に「旅の宿」「襟裳岬」を作った放送作家の岡本おさみが参加。さらに後に中島みゆき、アリス、南こうせつなどのアレンジャーとして名を馳せる、ギタリストの石川鷹彦が番組の音楽監督を務めていた。

タケカワはもともと、同番組の熱烈なリスナーではなかったが、新聞に掲載された番組の一面広告に記載されたキャッチコピー “僕たちは次世代のビートルズを作りたい” に触発される。ちなみにビートルズの解散がこの年の春に報道され、『レット・イット・ビー』が日本でリリースされたのが6月5日であり、非常にタイムリーなキャッチコピーといえよう。

参加したオーディションはニッポン放送の一番大きなスタジオで、応募者と審査員のグループが4組同時進行で行われており、見たことのないような光景にタケカワは唖然として突っ立っていたという。タケカワは番組スタッフから「オーディションに来たのだったら聴いてあげるよ」と言われて、12弦ギターを借りて自作曲を歌った。歌の途中、そのスタッフが「僕より詳しい人を連れてくる」と演奏を中断させ、引き合わせたのが審査員の石川だった。再度タケカワがギターで1曲弾き語ると、石川は「いいな、もっとあるのか?」とリクエストしたという。スタジオにあったピアノでの弾き語りを含め、当時作ったばかりの「WATER SHE WORE」「HAPPINESS」などを聴き終わった石川がポツリと「オレんち来ない?」と誘いの言葉を掛けた。これは即ち “合格通知” だった。

当時、石川の自宅にはギター、ベース、ピアノ、そして多重録音が可能な4chテープレコーダーを揃えたスタジオ部屋を構えており、『フォークビレッジ』で出会ったアマチュアミュージシャンから「これは!」という新しい才能を見つけると、自宅スタジオでデモテープを一緒に録音していた。後年、チューリップの財津和夫がタケカワと談笑中に「昔、石川さんのスタジオで休憩中に、英語で歌う高校生の曲を聴かされてスゴイなって言ってたんだけど、何年も経ってゴダイゴを聴いた時に似ているな、と思ったんだ」とアマチュア時代のエピソードを語ったという。デモテープを作れる環境が少ない当時において、まだプロとして世に出ていない隠れた才能たちが石川の自宅スタジオに集まっていたのである。

タケカワは当初、初対面の石川から自宅への招待を受け「まさか、男と男の恋愛のお誘いではないだろうな?」と不安に感じたという。実際には石川宅の玄関に入ると、彼の母親が出迎えてくれ、2階に上がると石川から彼の妻も紹介され、タケカワは内心ホッと胸を撫でおろしたという可笑しい話がある。二人は早速、10曲ほどオンエア候補曲のデモテープを録音。その中の1曲「YOU KNOW」は、後年タケカワがナビゲーターを務めたFM東京のライブ番組『Honda Live Inn ‘84』に石川がゲスト出演(1984年6月3日)した際に、14年ぶりに共演している。

石川宅でのデモテープ録音から数日後、ニッポン放送のスタッフから番組収録のためにスタジオに来るように、と連絡が来る。そこでタケカワはオーディションでも歌った「WATER SHE WORE」と「HAPPINESS」、小山條二が作詞した「ATTENTION TO YOU」など4曲を録音。翌週にはそれらの楽曲が『フォークビレッジ』でオンエアされる。70年代フォークブーム前夜と言えるこの頃において、自作自演の日本語詞によるフォークソングが主流の番組で、英語詞で歌われたタケカワの楽曲が異彩を放ったことは想像に難くない。

余談ながら、このラジオのオンエアを聴いた東京女学館高校の学生から、タケカワにファンレターが届く。同校の学園祭の招待チケットをもらったものの、前述した浦校の秋の恒例行事である強歩大会(50kmのマラソン大会)の翌日だったため、当日の朝に筋肉痛でまったく起き上がれず、せっかくの女子高の文化祭に行けなかったというエピソードがある。


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