抽象と具象の狭間 -野見山暁治@アーティゾン美術館
年間パスポートを手に、再びアーティゾン美術館。
今回は、石橋財団コレクション選 特集コーナー展示 野見山暁治(-3/3)を。
値段がついていないのが不思議になるくらいの、とてもクオリティの高いパンフレットからも、力の入れ方がうかがえる展示だ。
独自の画風を確立、昨年102歳で逝去
タヒチ (1974年)
予感 (2006年)
かけがえのない空 (2011年)
振り返るな (2019年)
あしたの場所 (2008年)
風の便り (1997年)
鉱山から (1984年)
抽象と具象の行き来
一部の作品には、何枚かの写真で紹介したように、インタビューによる作家のコメントが付けられていた。作家が、自分の創りだしたものに困惑しているさまを、心から直に取り出しているような言葉を、微笑ましく感じた。
自分のなかにあるものを出して、ときに言葉を置いて手がかりとし、それはそのときの自分にとって正しいものではあるのだが、あとから説明するとなったときには、さっぱりわからないというような。
モデルとなるものを描けば具象、モデルのないものを描くのが抽象、と聞きかじったことがある。だから、例えば晩年のクロード・モネの「睡蓮」は、目の病そのほかの理由で絵そのものは抽象表現にも見えるけれど(そして、抽象画的なアプローチとして評価する人もいるけれど)、「睡蓮」を描いているのだから区分としては具象画である、といったような。
野見山暁治作品は、抽象画として観ると(素人目に、何か描いているらしいことが感じられるという点で)わかりやすく、具象画として観ると難解にも思える。無理に抽象・具象と区分けするからそうなるのであって、目に見えてモデルとして実体のあるもの、作家の脳内に実体としてあるもの、あるいは実体になる前のモヤモヤ、を描いたのだと思うと、自分的には、少ししっくりくる気がする。
「振り返るな」を前に
新たな収蔵作品の一作「振り返るな」の前に、こんなちょうどいい一人がけソファが設置されている。これはもう、展示意図にそのまま甘えて、座るしかない。
座り心地がよくて立ち去りがたいソファに落ち着きながら、絵とゆっくり対話させてもらう。館内は広いので、人はいい感じに分散して、時折一人二人が前を通る過ぎるだけだ。
同展には、野見山暁治作品7点から展開するかのような配置で、同時代の作家、パリ留学中の期間に活躍していたフランスの作家たち、というように数多くの作品たちが横展開されていて、この展覧会だけでも見応えのあるものだ。
ただ、この日は野見山暁治の7作だけをじっくりと鑑賞することに決めていた。前回はマリー・ローランサン展のみ、今回は、次回は、というように、自分のなかに何となく落ち着いていくまで、名画たちを、ゆっくり観ていくつもりだ。
自分にはそういう鑑賞のしかたが、いちばん無理がないので、それも、年パスによって叶ったことだ。
何度も何度も足を運び、脳内をさまざまな作品で満たしていきたい。
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