「恨み」って何だ
図書館で見かけた新書「正しい恨みの晴らし方 科学で読み解くネガティブ感情」を軽い気持ちで手にしました。新書だけあって読みやすくはあったのですが、私の中では余計にわからなくなりました。仕方ないから他の本を参照しようと思ったものの、図書館には類似書籍があまりないことに驚きましたし残念にも思いました。
そこで今回は、この書籍を基礎資料として、「恨み」についての現時点での私の考えをまとめてみようと思います。
でもいつか、このテーマについて複数の人と意見を交わしてみたいですね。
「恨み」とは
「怒り」と「恨み」の比較
「恨み」を明らかにするために、まず「怒り」と比較して考えてみましょう。
まず「怒り」は、例えば引き出しの角に足をぶつけて「痛ッ、なんでこんなところにあるんだ!」というときや、通勤電車で突き飛ばされて危うく転倒しそうになったときなどに生じます。
一方「恨み」は、引き出しのような「もの」に対して抱くことはありません。でも電車で突き飛ばされたときは恨みを抱くことはあります。でもいつも恨むわけでなく、突き飛ばした相手がいつも同じで、かつその人が罪悪感を全く抱いていないように見えるときに限ります。しかも突き飛ばされた直後ではなく、忘れていたのに突然思い出し、再び怒りが燃え上がってくるのが「恨み」でしょう。
定義
これらから「怒り」とは、(1)想定した通りになると当然のように思っていたのに、(2)想定していなかった妨げによって思いがけない結果になり、(3)想定と結果のギャップを不快に思い、瞬間的に気持ちが高まる状態、なのかなと思います。
例えば通勤電車の場合なら、(1)黙って立っている状態を維持していようと思っていたのに、(2)転びそうになり、(3)不快に思って気持ちが高まった状態が「怒り」かと思います。
それに対して「恨み」とは、(1)怒りを生じさせた人の、(2)事情や思惑を想定しても納得できない態度に対して、(3)繰り返し怒りを思い出させる状態、ではないかと思います。
例えば、通勤電車で突き飛ばした相手とみると、どうやら目が不自由など相応の理由があるようだとなると、怒りはすぐ収まりますし、ましてや恨みは抱かないでしょう。でも突き飛ばしたことに気付かないならまだしも、こちらを見て嘲(あざけ)り笑っているように見えると、恨みに繋がる可能性は大きくなります。
詳しく比較してみましょう。
対象
まず対象をみてみると、「怒り」は定まっていません。「怒り」はものでも人でも、自分にすら抱きます。想定した通りでなければ、自分の身体ですら怒りが生じますし、逆に想定していれば、通勤電車で突き飛ばされても生じないでしょう。
一方「恨み」は自分ではない特定の人が対象です。仮にAさんを恨んでいるとすると、Aさんにのみを対象とします。恨む相手はふつう一度に一人。もちろん時が経てば、Aさんを恨んでいたけど今日からBさん、一週間後はCさんと変わるかもしれませんが、一度には恨まない/恨めません。
もっとも、集団を恨むことはあるでしょう、例えば公害を引き起こした加害企業を恨む場合。でも一法人を一人として恨むと考えられるので、やはり対象は一人、多くても三人くらいが限度ではないでしょうか(フィクションでは複数のことが多いですが)。
抑制
次に抑制が効くかどうか。「怒り」は可能です。怒りという感情を理性で抑えつけるイメージです。怒りの感情と上手く付き合うための心理トレーニングのことを「アンガーマネジメント」といいますが、つまり意識すれば抑制可能ということですね。
一方「恨み」は、不可能ではありませんが、やや困難です。恨みは感情をベースにこそしていますが、一部理性に入り込んでいると思います。いわば感情と理性が混濁した状態で、それをさらに理性が抑制しようとするため、心理的に苦しくなるのでしょう。
状況
周囲の状況も異なります。「怒り」はわりと、不快な感情を表出してもよい状況にあります。
想像してみると、中年男性が怒っている場面は容易に浮かびますが、若い女性はあまり浮かびません。それは女性が怒らないわけではもちろんなく、社会的に「女性は人前で怒ってはいけない」とされているからでしょう。もちろん女性も別のところで愚痴を言ったりしているわけですが、それこそ不快な感情を表出できる状況を確保して怒っているのです。
対して「恨み」は不快な感情を抱いているにも関わらず、モヤモヤしたり言葉にならなかったりで、本人に向かってもすぐには表現できない状況にあります。
もっとも、「俺、アイツを恨んでいてさあ」と愚痴る段階では大した恨みではなく、また愚痴ることで解消されるかもしれませんが、恨みが強くなればなるほど人に言わなく/言えなくなります。おそらく他人に言ってもわかってもらえないし、恨んでいる本人にもグッと我慢しようとするのではと思います。
(※書籍では「恨みは自分への後ろめたさや恥ずかしさを伴う感情だから」とありますが、私は少し違うような気がしています。)
持続性
いちばん異なるのは持続性です。「怒り」は比較的短期間にしか持続しません。わりとすぐ収まり、概ね一度きりです。「恨み」は何度も思い出すため、長期間持続します。
怒りは「抑えなきゃ」と理性が働きやすいですが、恨みは抑えるべきとわかっていながらも「自分は冷静だから問題ない」という正当化が勝っています。
発露
最後に発露の形です。「怒り」は即時的で感情的です。一方「恨み」は計画的で理性的です。
不幸なのは、発露された相手です。即時的に発露される「怒り」は加害者に伝わりやすく、謝罪の可能性も一応あるでしょう。でも「恨み」は時間を経ってから発露されるので、加害者には「被害者が恨んでいる」ことは伝わっても、何が悪かったのかわからないのではないでしょうか。被害者が説明して加害者も納得し、その結果「心より謝罪」に至ったとしても、どこかわだかまりを抱えたまま決着するようにしかならないのではと思います。
小まとめ
「怒り」と「恨み」をまとめると次のようになります。
このように「恨み」は、怒りを繰り返し思い出されて精神的によくない状態に陥り、「恨みを晴らせば解消される」と信じているけれど思った通りには解消されないという、どこか救いようのない症状、と言えるかと思います。
「恨み」に至る感情
「恨み」の3ケース
ここまで「怒り」と「恨み」について考えてきましたが、悲しきかな、恨みに繋がる感情は一種類ではありません。「恨み」と考えられる次の三つのケースをみてみましょう。
・ケース1:長年勤めてきた会社を頼りない上司から退職勧告された
・ケース2:不真面目にしか見えなかった同僚が社長に気に入られ上司になった
・ケース3:結婚を心待ちにしていた相手から突然一方的に破談された上、不快な態度をされた
どれも恨んでも仕方がないようなケースと思いますが、恨みに至るまでの感情が違います。というか、別の名前がついています。
・ケース1→ にくみ(憎しみ)
・ケース2→ ねたみ(妬み)
・ケース3→ そねみ(嫉み、いわゆる嫉妬、やきもち、ジェラシー)
憎み
まずケース1の「にくみ(憎しみ)」は「怒り」と似ているものの、不快な感情を本人に向かって表現できない点、対象が人に限られる点などが異なります。言い換えると、被害にあった/不公平感がある/正義に背(そむ)いた/プライドが傷ついた といった、「不条理だ!」と思いつつ内にしまい込んだ状態を「にくみ(憎しみ)」としてよいと思います。
ケース1は、それまでの業績を否定されてプライドを傷つけられただけでなく、自分よりも劣るであろう人に退職勧告されたら、不条理を感じながらも会社の決定には従わなくてはいけないという、怒りたいけど怒れない、憎むしかない状態になると思います。
「にくみ(憎しみ)」が何度も思い出す状態に至ると「恨み」に変わります。それに加えて、責任感と結びついたのがパワーハラスメントや虐待です。
ケース1は部下の立場ですが、上司の立場からすると「長年勤めている人に退職を迫るなんて、でも会社の指示だし、自分の責任で何とかしないと」と思うでしょう。さらに上の上司から繰り返し催促され、かつその人とあまり面識がない場合、結果的に高圧的な態度に出てもおかしくはありません。
厄介なことに、責任感という理性がつき動かしているので、本人には理性的に行動しているとしか思えません。パワハラでなくても、他人からは虐待にしか見えなくても、本人には冷静としか思えない。しかも、自分の責任でこうなっているから人に知られると恥ずかしい、という思いが加速させるのです。
ねたみ
次にケース2の「ねたみ」とは、自分がもっていないものをもっている人に対する願望です。facebookでいい話を見ていると、たいてい「いいねえ」「すごいね」と思うと思いますが、あまり幸せな投稿ばかりとみているとだんだん不愉快になったり憂鬱になったりすると思います。それが「ねたみ」です。
すぐにわかると思いますが、「ねたみ」は「うらやみ」(うらやましいという気持ち)と表裏一体です。別に相手や内容にあまり関心がなければ、二心なく「うらやましい」と思えるでしょう。ですが、相手と自分の差がわずか(と感じる)にも関わらず、相手が自分よりも幸せのようだと感じ、不公平感からいら立ちが募るのが「ねたましい」という感情です。
面白い(かどうか微妙ですが)ことに、相手に向かって「うらやましい」とは言えても「ねたましい」とはなかなか言えないものです。言えたとしたら、あまり相手をねたましく思っていないか、あるいはねたみの感情から脱している途中かと思います。ねたみを相手に言えないのは、相手に比べて自分が劣っていると公然と認めたくないからかもしれません。
ケース2では、同じ立場と思っていた同僚が、しかも不真面目にしか見えなかったのに出世した、ましてや上司になったとなると、何となく指示に従いたくない状態になるのではと思います。
「ねたみ」も、何度も思い出す状態に至ると「恨み」に変わります。加えて、「自分が正しい、相手が間違っている」という正義感と結びつくと、いじめにつながります(いじめの原因はそれだけではないように思いますが)。
この場合もやはり自分の正しさに突き動かされているので、本人には理性的に行動しているつもりですし、ややもすると「褒められるかも?」とも思っているかもしれません。
(※書籍では、学校のいじめも職場のパワハラも家庭の虐待も全て「ねたみ」が原因としていますが、私は違うように思います。)
そねみ
最後にケース3の「そねみ」とは、自分がもっているものを失う不安と怒りです。いわゆる嫉妬、やきもちで、カタカナでいうとジェラシーですね。
魚が縄張りを犯され攻撃するのと同じで、根源的な感情と言えるでしょう。「やきもちを焼いている」と聞くとどこか微笑ましく思うかもしれませんが、いつも「単なるやきもちじゃん」で済まされるわけではありません。
ケース3も、他人事なら笑い話にすらなるかもしれませんが、本人にとってはたまったものではありません。まずは動揺しますし、気持ちの着地点を探すことでしょう。
相手への思いが強ければ強いほど、相手を問いただしたいとか、心を改めて欲しいとか思うかもしれません。その上で、相手が思った通り(期待した通り)の反応をしてくれないと不愉快になります。それがリベンジポルノの動機となりますし、ストーカーひいては殺人にまで至るケースもあります。
「自分がもっているものを失いたくないので殺しました」と言われても、他人から見れば「はあ?」と首を傾げたくなりますが、本人は極めて冷静にやっているつもりでいると思います。
「ねたみ」は「うらやみ」と表裏一体と書きましたが、同様に「そねみ」にもペアにある言葉があります。(適当な言葉が見つからないのですが)「溺愛(できあい)」あるいは単に「愛」だと思います。美しい感情かのように思ってしまう「溺愛」ですが、裏には「そねみ」が潜み、また「そねみ」がないと「本当に愛しているの?」と疑われるかもしれません。
恨みの完全形
以上、「憎しみ」「ねたみ」「そねみ」についてみてきました。それを「第一次ネガティブ感情」としましょう。それらは抱いていると気持ちの上でとても苦しいです。苦しいので逃れたくて、その感情が新たな感情を生む、それが「第二次ネガティブ感情」即ち「恨み」になります。
「第二次ネガティブ感情」は「第一次ネガティブ感情」よりも悪性です。でもそれは他人からみればであって、本人にとっては「第一次ネガティブ感情」よりも心理的に落ち着くことができます。
「恨み」をより熟成させてしまうと、恨む相手に悪事を認知させようとする「恨みの完全形」に至ります。相手を恨むあまり、なぜ恨んでいるのかもだんだんわからなくなっているかもしれません。もちろんフィクションでは、恨みの理由を淡々と述べるシーンがあるかもしれませんが。
問題なのは、恨みを抱いている本人はいたって冷静に考えている点です。でもネガティブ感情がベースにあることも薄々わかっているので、本人にとっては、苦しみの元凶たるネガティブ感情をなくしたいがために勇気をもって実行するのでしょう。もちろん実行すると犯罪になるのですが。
これらを図にしたのがこちらです。
人を呪わば穴二つ
最も悲しいのは、現実には「恨みを晴らしたからハッピーエンド」とはならないということです。
「人を呪わば穴二つ」というのは、なかなかに考えさせられることわざです。「誰かを呪って殺そうものなら、その報いで自分も殺されることになるので、墓穴は相手の分だけでなく、自分の分まで必要になる」という意味です。
「目には目を、被害に遭ったから加害して何が悪い」とつい思ってしまいますが、その結果加害者と被害者が逆転するだけで、それぞれの遺族は恨み合うしかなくなる泥沼状態に陥ってしまいます。戦争も、どこかその側面があるのではないでしょうか。
ちなみに、ハンムラビ法典の「目には目を」も、「目を潰されたからといって相手を殺したりするのはやりすぎだ」という意味ですので、復讐を正当化しているわけでは必ずしもありません。
憎み・ねたみ・そねみ(第一次ネガティブ感情)は誰にでも起こりますし、というかない方が人間らしさに欠けると思います。また恨み(第二次ネガティブ感情)も生じるのは自然なこと、ある程度は仕方がないかと思います。ですが「恨みの完全形」に至ると排除されかねません。法に触れるからではなく、社会から排除されるのです。
どうか「恨みの完全形」になる前に抑えてもらいたいことと、仮に犯罪に至ったとしても、恨みを再生産するような刑罰は一利なしと思います。
最後に
以上、「恨み」について考えてきました。
思ったのは、「脳のいいがけんさ」です。「脳は素晴らしい器官だ」と言われますが、実際は脳の機能同士で競合しエラーをたびたび起こしている、けれど問題ないかのように辻褄を合わせている、そんな器官かと思います。理性が担っている「恨み」を、どうして理性で制御することができるのでしょうか。
自分が正しいと思っていることは全然違うかもしれないと、改めて背筋が寒くなりました。そして、本当の悪人っているんだろうか、とも。
【参考資料】
中野信子・澤田匡人著(2015)「正しい恨みの晴らし方 科学で読み解くネガティブ感情」ポプラ新書
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