あーくん

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最近の記事

『ゼルダの伝説』について

 繰り返される秩序の創造について書きます。  古い時代、デュルケームの表現を引いて社会がそのまま宗教であったと表現できるような時代にあっては、人々は定期的に開かれる祝祭を通じて、自身が身を置く世界の有様を確かめていました。エリアーデいわく、人々は祝祭のなかで、神話における世界の創造を模倣し、それによって世界の秩序を新たに定位しなおしました。秩序のない混沌にあっては、人々はなんのために、なにをして生きていけばよいのかが分かりません。神話における聖なる世界、あるいは聖なる秩序の

    • 『シメジシミュレーション』について

       恐怖と寂しさとコミュニケーションについて書きます。  生き物というものはみんな、なるべく長くその生き物として存続しようと努めるようにできています。利己的な遺伝子説に従うのであれば、遺伝子がなるべく多く長く存続するようにということになるのでしょうが、それも通常は、ある生き物がまずはその個体としてより長く存続しようとする努力として現れるでしょう。生き物は自身の保全に根元的にそして強迫的に宿命づけられており、それは言い方を変えれば、常に自身を喪失することへの恐怖、死に対する恐怖

      • 死ぬことについて

         死後の楽園について書きます。  以前ポケモンの最終回を観た際に、私はこんなツイートをしていました。  「死ぬ時にまたサトシたちに会える」というのは、この時なんとなく受けた印象のようなものだったのですが、ここではこのことについてもう少しきちんと考えてみます。  人は「自分はいつか死ぬ」という事実に自覚的な生き物です。自分という存在は、いつか決定的な終わりを迎えるということを、死という絶対的な結末に向かう後戻りのできない進行の途上にあるということを知っています。この自覚が

        • 『銀河の死なない子供たちへ』について

           「未来は君とともにある」という言葉について書きます。  まず話のたたき台として、時間というものについて整理しましょう。人間にとって過去・現在・未来という時間の感覚は当然のものであるように思われます。しかしこの感覚は実は、自分がいつか死ぬという事、自分という枠組みが有限であることを自覚してはじめて感じ得るものです。自分という存在は、生誕・死没というふたつの決定的な断絶に挟まれており、前者から後者へ不可逆的に進んでいるものなのだと気づいたときにはじめて、人はこの不可逆の進行を

          『スペシャル』について

           喪失感について書きます。  「喪の作業」とは、人がなにか大切なものを喪失した際に、それを受け入れるに至るまでの過程をモデルにしたものです。論者によってパターンはありますが、例えばボウルビィであれば、「情緒危機・抗議・断念・離脱」の四段階として設定されています。まず強いショックを受け呆然とし、次に喪失の事実を受け入れまいと抵抗し、抵抗も叶わないと観念し喪失の事実が受け入れられて初めて深い悲しみに沈み、それらを経てはじめて穏やかに前を向けるようになる、といったものです。ここで

          『スペシャル』について

          『無常という事』について

           常なるものとはなにかについて書きます。  小林秀雄がこの文章を書くこととなったきっかけは、『一言芳談抄』の一節がふと頭に浮かんだ際に、「充ち足りた時間」を経験したことでした。それは「自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっている様な時間」であったといいます。そしてその時彼は、何かを「実に巧みに思い出してた」ように感じられるといいます。しかし今では何を思い出していたかすら定かではありません。もしかしするとそれは鎌倉時代であったかもしれないといいます。

          『無常という事』について

          『犬王』について

           「表現する個人」の挫折とその供養について書きます。  『犬王』はまずアイデンティティの物語です。アイデンティティとはつまり、自分はどういう人間であり、何に価値を置き、どのように生きるのかという認識です。そしてこのアイデンティティは作中では名前に象徴されます。  壇ノ浦の友魚は土着的なコミュニティの一員でした。友魚として生きるとは、殺された家族のうらみを背負い、これを晴らすために生きるということでした。友一と名を変える際に、友魚というアイデンティティは父の姿でこれを窘めた

          『犬王』について

          宗教としてのオタクについて その2

           宗教としてのオタクについて書きます。『その1』の続きです。  その1では宗教の本質として心理的な経験、畏怖すると同時に魅了されるようななんとも言葉にしがたい経験を想定し、オタクたちはこれを不完全な形でしか経験していない、しかしその不完全さが液状化した現代社会では意義を持っているという話を書きました。  今回は『その1』で取り上げた経験、厳密に宗教的なものであれオタク的なものであれそうなのですが、これらの経験が持つある性質についての話から始めたいと思います。それはすなわち

          宗教としてのオタクについて その2

          宗教としてのオタクについて その1

           宗教としてのオタクについて書きます。  オタク趣味が宗教に例えられることはよくあります。また、神、布教、信者、聖地巡礼など、オタクが自分たちにまつわる概念に対して宗教の用語を転用することも多い。オタクは自分たちの性質についてむやみに大げさに表現して面白がるところがあります。しかしそれを差し引いても、彼らの感覚として、自分たちの状態を表現するために宗教の用語をあてはめることがどこかしっくりくるからこそ、このような言葉が使われているのでしょう。また、最近は「推し」という表現が

          宗教としてのオタクについて その1

          BUMP OF CHICKENについて

           BUMP OF CHICKENの喪失について書きます。  BUMPの歌詞には特にある時期以降、お別れしてしまったなにか、無くしてしまったなにかについてのノスタルジックなモチーフがよく見られるようになります。ここでは、「喪失」という視点から彼らの楽曲を発表順に見ていきます。  BUMPの楽曲で喪失といえばまず挙げられるのはやはり『ロストマン』(2003年)でしょう。ここでは旅の指針となっていた「君」の喪失が歌われます。「旅の始まりを今も思い出せるかい」「君を失ったこの世界

          BUMP OF CHICKENについて

          『エヴァンゲリオン』について

           「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」という台詞について書きます。  まず最初に確認しておくべき点なのですが、エヴァンゲリオンという作品は「他人と心を通わせ、安らげる居場所を手にすること」を統一的な目標としています。  シンジは他人と上手く交わることができず、しかしそれでも誰かに(主には父に)認めてもらおうとエヴァに乗ります。そして、その度に挫折を味わい、逃げ出そうとするのですが、最後にはやはり他人との関りを求めてエヴァに乗ることになります。アニメ版では、使徒の攻撃を

          『エヴァンゲリオン』について

          「日常系」について

           「日常系」と呼ばれる作品群について書きます。  「日常系」の定義はあいまいですが、おおむね「劇的な物語展開がなく、登場人物の代わり映えのない日常が描写され続ける作品」という風にまとめられるように思います。『あずまんが大王』がその端緒として言及されることが多く、具体的にどの作品が該当するかについて議論はあれど、代表的な作品として『涼宮ハルヒの憂鬱』『らき☆すた』『けいおん!』『ご注文はうさぎですか?』などが挙げられます。  「中身がない」と揶揄されることもあることもあるこ

          「日常系」について

          VOCALOIDについて

           終わったコンテンツとしてのVOCALOIDと、その弔いについて書きます。  人はみんないつか死ぬのでそれ自体は仕方がないことです。仕方がないことなのですが、そんな風に理屈の上で納得しようとしても、心のどこかでは取り残され、傷ついてうずくまってしまう私が現れてしまいます。「あの人と支え合い、励まし合うことで生きていたはずなのに、あの人が亡くなった後も平気な顔で暮らせてしまえたなら、それはまるであの人への私の想いが取るに足らないものであったかのようではないか」うずくまる私の言

          VOCALOIDについて

          『輪るピングドラム』について

           ピングドラムとはなにかについて書きます。  ピングドラムとはなにかについての一番シンプルな答えは、桃果の日記だろうと思います。プリンセスオブザクリスタルは引き裂かれた桃果の片割れであり、ふたたび暗躍し始めた眞悧の野望をくじくため日記を必要としています。よって、プリンセスオブザクリスタルが昌馬と冠葉に探させているピングドラムとはあの日記であると考えることに違和感はありません。  ここで問題になるのは、最終話にて昌馬から陽毬、陽毬から冠葉に、「ピングドラムだ」として手渡され

          『輪るピングドラム』について

          『少女革命ウテナ』について

           『少女革命ウテナ』について、あの作品の中での革命とは何なのかを主に書きます。  作品の具体的の内容に入る前に、革命という言葉について、この作品を説明するにあたって関連が深いフランス革命を例にとってお話しします。  革命以前の人々は、神様を信仰して暮らしていました。信仰の意義とは結局のところ、「何のために生まれて何をして生きるのか」という、人間にとって根源的であるにも関わらず客観的な答えの存在しない、大変な難問に対応することです。すなわち、神様という人知を超えた絶対的な存

          『少女革命ウテナ』について