死ぬことについて

 死後の楽園について書きます。

 以前ポケモンの最終回を観た際に、私はこんなツイートをしていました。

 「死ぬ時にまたサトシたちに会える」というのは、この時なんとなく受けた印象のようなものだったのですが、ここではこのことについてもう少しきちんと考えてみます。

 人は「自分はいつか死ぬ」という事実に自覚的な生き物です。自分という存在は、いつか決定的な終わりを迎えるということを、死という絶対的な結末に向かう後戻りのできない進行の途上にあるということを知っています。この自覚が過去と未来それぞれの時間の、性質の違いを生みます。過去は、もう二度と戻ることができないという点、とりかえしのつかないという点にその本質を持ちます。反対に未来は、死がいつ訪れるのか分からないという未知にその本質を持ちます。

 人の一生は、おおむねこの過去から未来へ延びる時間のトンネルの中にありますが、このような生は決して楽ではありません。まず、目前に広がる未来は常に死の可能性、決定的な終わりの可能性をはらんでおり、このことが人に不安を生みます。また、何を為したところで結局はとりかえしのつかない過去に遠のいてしまうこと、あるいはいずれ訪れる死をもってすべては破綻してしまうということが、人に虚しさを生みます。人の一生はこのような不安と虚しさに挟まれたまま進んでいくのです。

 このような鬱屈とした時間のトンネルを、しかし人は時として抜け出す幸運にあずかることがあります。そもそも過去や未来という感覚は、私という存在の有限性から生まれるものでした。よって、私という枠組みが失われれば、その人にとっては過去も未来もなくなります。ここで、私という枠組みが失われるというのはなにも特別な体験ではありません。「我を忘れる」という表現がそのまま表すとおり、人はなにかに没頭しているとき、いつか終わってしまうということについての意識は働かず、よってその人にとって過去も未来もなくなり、不安も虚しさも感じることはありません。

 このような幸運は特別に珍しいというわけではありませんが、しかし永遠に続くものでもありません。人は一時の幸福な忘我を経たあとは、いつも元の時間のトンネルに引き戻されます。かの忘我の時は、渦中にあった際には確かに過去も未来もない独特の経験であったはずですが、ひとたびこの個我の枠組みに戻って振り返ってみると、決して戻ることのできない過去の出来事としてみるみるうちに時間のかなたへ遠ざかっていきます。

 さて、ここまで私は過去というものを、決して取り戻すことの叶わないものとして話してきました。それはその通りなのですが、しかし人は時として、まるで過去の出来事にふたたび直面しているかのように感じることがあります。例えばそれは、かつて熱中していたアニメの最終回を二十年越しに観たときなどが該当します。そのような機会に人は、我を忘れてなにかに惹き込まれていたあの頃の熱意を再び感じながら、この幸福の喪失についての悲しみもまた同時に噛みしめるのです。このような複層的な感動こそ郷愁と呼ばれる感覚に他なりません。郷愁は上に挙げた例のように、過去の経験に近似するなんらかの経験を引き金にして起こります。そして郷愁は、過去を再び経験する(かのように感じる)という点で、過去から未来に向けて一方向に延びる時間についての矛盾であり、忘我とはまた違ったトンネルからの脱出の回路なのです。

 ここでふたたび死というものについて考えてみます。死とは個我の絶対的な終末であり、人の生に不安と虚しさとを投げかける淵源でした。しかし死はまた、私が私という枠組みを本当に失うことを意味します。郷愁は、過去の幸福な経験に近似するなんらかの経験を引き金に起こると書きました。ここから私は、死という、私が本当に私を失うその決定的な終わりを引き金にして、過去の幸福な忘我の時、私が一時的に私を失っていたかの時は、ふたたび経験されるのではないか、と思うのです。

 「真の楽園は失われた楽園だ」というプルーストの言葉を踏まえ、死後の楽園、天国のようなものについて私が想像するのはこのような事態です。二十年越しに観たサトシたちに不意にトンネルから連れ出された私は、その郷愁の最中で、死ぬ時、すなわちこのトンネルの本物の出口で、また彼らに会えるといいなと感じていたのだと思います。

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