『無常という事』について

 常なるものとはなにかについて書きます。

 小林秀雄がこの文章を書くこととなったきっかけは、『一言芳談抄』の一節がふと頭に浮かんだ際に、「充ち足りた時間」を経験したことでした。それは「自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっている様な時間」であったといいます。そしてその時彼は、何かを「実に巧みに思い出してた」ように感じられるといいます。しかし今では何を思い出していたかすら定かではありません。もしかしするとそれは鎌倉時代であったかもしれないといいます。

 小林にとって、過去と現在とは質的に決定的に異なった時間であり、「過去から未来に向って飴の様に延びた時間という蒼ざめた思想」を「現代における最大の妄想」と断じます。このふたつの時間の差異は常か無常かにあります。常なる過去は「新しい解釈なぞでびくともするものではな」く、「僕等に余計な思いをさせ」ず、そこに登場する人々=死人は「はっきりしっかりとしていて」「人間の形をして」います。これに対して無常の現在は「解釈だらけ」であり、そこに登場する人々=生きている人間は「何を考えているやら、何を言い出すやら、しでかすのやら」分からず「一種の動物」であるといいます。

 その上で小林は、「僕等を一種の動物である事から救う」のは、「上手に思い出す事」であるといいます。「記憶するだけではいけない」「思い出さなくてはいけない」というのはつまり、上述した過去の「動かざる」性質、「常なるもの」としての性質も含めて経験する必要があるという意味でしょう。これこそがまさに小林に「充ち足りた時間」を生んだ当の経験なのです。

 さて、理解の補助線として、いくつかの議論を取り上げてみましょう。まず『暇と退屈の倫理学』における國分功一郎の議論を見ます。國分はユクスキュルの「環世界」という概念を用いて、「人間は非常に高い環世界間移動能力を持っている」と主張します。

 ここで環世界とは、ある生物が意識の上で経験しているその世界を指します。環世界の概念の要点は、個々の生物ごとに異なった環世界を経験しているという点にあります。例として、森の中で哺乳類の血を吸うマダニの環世界が挙げられます。マダニは哺乳類の匂いに反応して木の枝から哺乳類にとびかかるのですが、視覚も聴覚も持たないマダニの世界には、哺乳類の姿もそれが立てる音も存在しません。人間とマダニはそれぞれ異なる環世界を経験しています。

 そして、同じ人間であっても、森で散歩する人、狩りをする猟師、植物学者などは、それぞれに異なった森、環世界を経験しています。猟師であれば獲物が残した小さな痕跡を見出すことが可能でしょうし、植物学者には多くの植物がそれぞれ異なったものとして経験されるでしょう。そして、人は訓練によって猟師にも植物学者にもなりえます。人間が経験しうる環世界には広い多様性があり、しかも人間は動物に比して実に容易に、ある環世界から別の環世界に移動できるというのが、國分の議論の要点です。

 ここで、人間が持つ環世界間移動能力の高さは、人間が経験している環世界の不安定さの裏返しでもあります。人間が経験する環世界は、些細なきっかけで崩れてしまい、人間はそのたびに別の新しい環世界を構築する必要に迫られるのです。

 『無常という事』の理解のためにもうひとつ、マルセル・プルーストの「無意志的記憶」という主題について見ます。プルーストはその小説の中で、マドレーヌを浸した紅茶を口に含んだ際に、幼少期の思い出がよみがえるとともに、幸福感に包まれる、というシーンを描いています。無意志的記憶とはこのように、ある経験(ここでは紅茶を飲むこと)をきっかけとしてありありとよみがえる過去の経験を指します。そしてこの無意志的記憶の経験は、えもいわれぬ幸福感を生むのです。

 さて、小林と國分は、動物・人間の対比を正反対の意味で使用しています。小林は、無常の現在に右往左往するあり様を一種の動物と表現しました。國分の表現ではそれは、動物に比して極めて高い環世界間移動能力を有するがゆえに不安定な環世界にしか生きられない人間に特有のあり様です。どちらにしてもそこに見受けられるのは、現在の自分に不安や疑いを抱く人間のあり様です。人間は高い環世界間移動能力を有するがゆえに、ふとしたきっかけで現在の自分を俯瞰でながめ、「こんなふうでいいのだろうか」「他によりよいあり方があるんじゃないだろうか」という疑いに駆られ、不安に苛まれることになるのです。

 小林の言う「過去を上手に思い出す」ことの例として、プルーストの無意志的記憶が挙げられるでしょう。無意志的記憶によって人は過去をありありと経験するのですが、ここで過去とは常なるもの、絶対的な不動性を有するものです。人間は、過去を変えること、過去に影響を与えることなど絶対にできません。人間は、過去が持つこのような絶対性を思い知ることで、「他のよりよいあり方」への打算をくじかれることになります。言い換えれば、他の環世界への移動可能性を絶たれるのです。「このようなあり方以外にはあり得ない」という諦めを強制され、まさしくこのことによって、「こんなふうでいいのだろうか」といった疑いと不安から解放されるのです。この解放こそがプルーストが描いた幸福であり、小林が経験した「充ち足りた時間」なのです。

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