『少女革命ウテナ』について
『少女革命ウテナ』について、あの作品の中での革命とは何なのかを主に書きます。
作品の具体的の内容に入る前に、革命という言葉について、この作品を説明するにあたって関連が深いフランス革命を例にとってお話しします。
革命以前の人々は、神様を信仰して暮らしていました。信仰の意義とは結局のところ、「何のために生まれて何をして生きるのか」という、人間にとって根源的であるにも関わらず客観的な答えの存在しない、大変な難問に対応することです。すなわち、神様という人知を超えた絶対的な存在を創作してその尊さを信じることで、生まれてきた理由や正しい生き方について、とにかく神様の思し召しのとおりにあれば良い、という整理ができるようになるわけです。
もちろん、神様は実際に喋りかけてくださるわけではありません。そこで、神様の代弁者として聖職者という役割が求められます。聖職者は革命以前の社会では特権的な地位についており、人々は聖職者たちに強烈な支配を受けていました。しかしこれは聖職者たちにのみ都合のいい制度であったわけではありません。人々にとって、聖職者の言いなりになること、つまり神様のおっしゃることに服従することは、「何のために生まれて何をして生きるのか」について、理屈を超えた解決を得るということであったのです。
革命とは、被支配階級が支配階級を打倒し国家権力を奪還することです。フランス革命では人々が聖職者をはじめとする特権階級を打倒しました。ここで、人々が神様の代弁者である聖職者に逆らうということは、人々が神様への信仰を捨ててしまうこととセットになります。つまり人々は、生きる意味について保証してくれる神様を捨て去ってでも、誰かに屈伏するのはやめよう、自分たちの意志で生きようと立ち上がったわけです。
ここから『少女革命ウテナ』の具体的な内容に入ります。作中の主要人物たちはみんな恋をしています。恋する相手に、「永遠のもの」「輝かしいもの」として特別な価値を見出しています。
鳳学園は古墳の形をしており、また西園寺いわく「俺たちはみんな棺の中にいる」 また幼少期のウテナは「生きるのは気持ち悪い」と言って棺の中にこもっています。
鳳学園にいること=棺の中にいることはつまり、「何のために生まれて何をして生きるのか」という疑問に答えられず生きる情熱をなくしてしまっている状態、もしくはその疑問に答えるためになんらかの特別な価値を用意しそれを信仰することでしのいでいる状態を指します。
すなわち、中世フランスの人々が神様を信仰し生きる意味に充てていたように、ウテナの登場人物たちはみな恋する誰かを神聖視することで生きる意味に充てているわけです。
暁生とアンシーもまた同様であり、ディオスとは彼らの共同幻想です。アンシーは暁生に、暁生は自分自身に、ディオスという完全無欠の王子様像を夢想しそれを信仰することで、生きる支えにしようと企てています。それ故にディオスは暁生と似ていながらも異なる存在であり、現実の世界には存在しません。
上記の議論を前提にしたうえで物語終盤の展開を考えると、幕間においてたびたび述べられていた「でもいいの? ほんとにそれで」の意味が明らかになってきます。つまり、ウテナが暁生を打倒し新たな王子様として君臨したとしても、それではアンシーの中で暁生が占めていた位置にウテナが取って代わるだけであり、構造的にはなんの解決にもならないのではないかという疑問が呈されているわけです。
実際、ウテナは王子様にはなりませんでした。王子様にはならないまま、つまり宗教的な権威をまとわない対等な人間のままにアンシーの棺をこじ開けます。それゆえに「やっと会えた」、初めて対等に向き合えた、と口にするわけです。
物語はアンシーが「鳳学園=棺=信仰を必要とする世界」を後にするシーンで幕を閉じます。『少女革命ウテナ』は、アンシーという一人の少女が、ディオスという神様への服従を脱し、自分の意志で生きていくという革命を成し遂げる物語です。