宗教としてのオタクについて その2

 宗教としてのオタクについて書きます。『その1』の続きです。

 その1では宗教の本質として心理的な経験、畏怖すると同時に魅了されるようななんとも言葉にしがたい経験を想定し、オタクたちはこれを不完全な形でしか経験していない、しかしその不完全さが液状化した現代社会では意義を持っているという話を書きました。

 今回は『その1』で取り上げた経験、厳密に宗教的なものであれオタク的なものであれそうなのですが、これらの経験が持つある性質についての話から始めたいと思います。それはすなわち、持続させることが難しい、という性質です。

 宗教的な経験とは、聖なるもの=絶対的な神的なものと対峙した際に心のうちに形容しがたい感情が沸いてくることでした。ここで、絶対的な神様というのはその定義上、人の力を完全に超えたものであり、なんら思い通りには動かせないものです。宗教的な経験は生きることを動機づけてくれるものですが、だからといって神様というのは、首輪をつけて抱え込んでおけるものでもなければ、好きなときに引っ張り出してこれるものでもありません。まったくのアンコントローラブルなのです。

 よって、宗教的な経験を生きていく上での持続的な支えとしたいのなら、問題の設定を変える必要があります。すなわち、「いかに聖なるものを管理下に置くか」ではなく、「いかに自分たちを聖なるものへ開かせるか」と問う必要があるのです。

 ここまではもっぱら宗教の心理的な側面について書いてきましたが、ここではじめて宗教の社会的または物質的な側面、すなわち教団や儀式、儀礼などといった側面に話がおよびます。

 宗教徒たちは多くの場合、定期的に集まり、定められた作法に従って儀式を行います。このような儀式のなかで、集団で共有するシンボル=聖なるものに対してのある種の高揚感のようなものが、その集団内に立ち込めてくることがあります。社会学者デュルケムが「集団的沸騰」と呼んだ現象です。個々人では聖なるものと相対することが難しくても、同じ信仰を持つ仲間と集まり、同じ信仰を示す作法をともにすることで、互いに導きあうようにして自分たちの意識を聖なるものへと開いていく、そのような機会を定期的に持っているのです。言い換えれば、教団や儀式、儀礼といった要素は、宗教的な経験から得られる生きる動機付けを持続させるためのものであるといえます。

 宗教としてのオタクについては、このような側面もまた確認することができます。宗教社会学では、スポーツ観戦の観客たちの間に生じる一体感や高揚感が上記の「集団的沸騰」になぞらえられることがあります。この点については、例えばアイドルのライブやコンサートでもそのまま同じことが言えるでしょう。また、推しについて他のファンが書いた文章や絵に感動させられた経験というのは多くのオタクが持っているのではないかと思いますが、このような経験についても、推しの尊さを直接受けて心が動かされたというよりは、それを書いた他のファンの推しへの想いに感染させられたと言った方が正確ではないかと思います。オタクたちもまた、互いに連帯して推しの尊さを享受しているのです。

 しかしながら、持続可能性という点について伝統的な諸宗教と比べると、オタク趣味はひどく脆いものであると言わざるを得ません。伝統的な宗教は個々人の生活に根差しており、通常は生涯信仰の対象が変わることがありません。これに対しオタクたちは、伝統的な宗教が持っていたような厚みのある集合意識や儀礼作法を持っていません。そのためオタクたちは、始まってはすぐに消えてしまう刹那的な宗教を次から次へと渡っていくほかに、ほとんど選択肢を持ちません。一口にオタクといってもその愛の対象は様々でしょうが、拝するコンテンツやムーブメントは通常数年、早ければ数カ月で終わってしまうものが多いのです。ここにオタクの困難があります。オタクたちは、生きる希望を見出していたほどの愛の対象が次々に終わっていくことをその都度受け入れ、何事もなかったかのように新しく始まるコンテンツに熱中するという、一見矛盾するような態度を求められるのです。

 この困難に対しては大きくふたつの方向性が考えられるでしょう。すなわち、ひとつにはある推しについて末永く継続するコミュニティを組織する方向、もうひとつには推しの終わりを受け入れるための作法を身に着ける方向です。

 このうち、まずは前者の難しさについて触れておきましょう。教団や儀礼は、自身を聖なるものへ開かせるためのものでした。これらは、一度確立されてしまえば、すなわち、一度それらを当たり前のものと感じられれば、その目的を果たしうるものです。しかしながら、何もないところからこれらを確立しようとすると、「聖なるものを維持するため」という目的意識から自由であるとこは極めて困難です。そしてこのような意識は、いつの間にか聖なるものをコントローラブルなものとして扱ってしまっているため、このような目的意識を強く持てば持つほど聖なるものの聖性は感じられなくなるのです。続いてほしいと願えば願うほど消滅が加速する、蟻地獄のような様相を呈することになります。教団や儀礼はおそらく、無数にあった宗教の萌芽が長い時間の中で淘汰された結果自然に確立するようなものであり、意識的に作り上げることは難しいのです。

 なお、これは学説でもなんでもないまったくの私見なのですが、「カルト」という言葉の本質は上に書いた蟻地獄のような状態にあるように思います。自身が信奉するものの絶対性を享受し続けたいと願うあまり、より過激な儀礼に走ったり、教団の外部者に対して敵対的になったりするのですが、そのようになんとか聖性を維持しようと肩に力を入れるほどに、聖性は消えていき、そのためいよいよ過激さは増していく、というような状態です。オタクについても、自身がハマるコンテンツへの批判的な意見を聞き流せず、アレルギー的に反発するタイプは、カルト的だと言えるでしょう。

 さて、それではオタクの困難に対してのもうひとつの方向性、コンテンツの終わりを受け入れることについてはどうでしょうか? 終わりを受け入れるということについては、私はこれまで『VOCALOIDについて』『BUMP OF CHICKENについて』などでもテーマとして書いてきましたが、「こうすれば終わりを受け入れられるのだ!」といったような具体的なノウハウを私は持っていません。ここでは最後に、その手掛かりになるかもしれない話を添えるにとどめようと思います。

 なにかが終わってしまうことを受け入れられずそれを持続させようと躍起になってしまうのは、つまりカルトに陥ってしまうのは、それが終わってしまえばもはやその後には何も残らないのだと感じられていることが理由のひとつでしょう。しかしこの感覚は本当に正しいでしょうか? 

 なにかが一度完全に終わってしまったならば、私たちにはもはやそれを取り戻すことは叶いません。人間には過去を変えることも取り戻すことも絶対に出来ない。しかし、この過去が持つこの「人の力が絶対的に及ばない」という点は、聖なるものの条件でもありました。ここになんらかの糸口を見つけられはしないでしょうか?

 オタクは愛するコンテンツの終わりに際し、それを認めまいと躍起になります。そしてそのせいで推しの尊さはいよいよ陰っていく。しかし、いよいよ最期の時、もはやこれまでと観念したその時に、推しは決して手の届かないどこかへ行ってしまい、そしてそれゆえにある種の絶対性、聖性を取り戻すのです。オタクが、もはや経験することの叶わない過去のものとして推しを振り返るとき、以前よりも淡く透明で、しかし確かに聖性を宿した感覚を、オタクは覚えるのです。

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