『シメジシミュレーション』について

 恐怖と寂しさとコミュニケーションについて書きます。

 生き物というものはみんな、なるべく長くその生き物として存続しようと努めるようにできています。利己的な遺伝子説に従うのであれば、遺伝子がなるべく多く長く存続するようにということになるのでしょうが、それも通常は、ある生き物がまずはその個体としてより長く存続しようとする努力として現れるでしょう。生き物は自身の保全に根元的にそして強迫的に宿命づけられており、それは言い方を変えれば、常に自身を喪失することへの恐怖、死に対する恐怖に苛まれているということです。生きるということにはまず恐怖がある。

 そのような恐怖を駆り立てられ、生き物は自身の枠組みをより強固に、より確からしく、より変化のないものにしようと努めます。枠組みの外側からの影響は叶う限り拒絶し、絶対的に独立して在ろうと。しかし、そのような在り方をある程度達成し得たとしても、今度はまた別種の苦しみがその生き物を襲います。枠組みとは自身と他者とを隔てる境界であり、よって他者との接触が絶えてしまうと、生き物は自身の枠組みを捉えきれなくなり、茫漠とした寄る辺なさに覆われることになります。そしてこの寄る辺なさに苛まれる形で生き物は、一度は恐怖し拒絶したはずの他者を求めるに至るのです。他者を志向するこの欲望、この焦燥こそが寂しさと呼ばれる当のものです。しめじが生命シミュレーションに触れて経験した通り、生きるということは、まず恐怖があり、次に寂しさがあるものなのです。

 シメジシミュレーションの世界は、話が進むにつれて少しずつその輪郭が不確かなものとなっていきます。人間は言語的・概念的に世界を捉えており、生き物としての自身の枠組みもまた、私という言語的・概念的なものとして捉えられます。よって、概念によって整然と区切られた世界の、この区画の乱れは、私という枠組みの無化、つまり死への近接を意味します。

 作品の世界は4巻の結末部において、文化祭での音楽ライブという典型的な祝祭的高揚を契機にして、ついに決定的にその区画の崩壊を喫します。人々はそれぞれ個の枠組みを失い、世界に溶け出していきます。しかし、「人一倍恐怖心が強い」しめじと、しめじに寄り添うまじめは当初、それぞれ人としての枠組みを維持し続けます。

 しかし、二人のやり取りが性愛を孕んだものに移っていったとき、しめじはやはり自身が消えてしまう恐怖に襲われ、まじめを拒絶します。そのまましめじは姉の導きに従い、あの文化祭時点まで世界を逆行させ、かつ同時に人々の間に絶対的な距離を画することで、人々の混ざり合いを防ぎ、もってそれぞれの枠組みを維持させようと試みます。

 このように、枠組みを失ってしまう恐怖から他者を拒絶し、個の枠組みに閉じこもったしめじですが、しばらくのまどろみの中で、次第に自身の輪郭を見失い、茫漠とした寄る辺なさに浸っていきます。すると今度はまた別の動機付け、すなわち寂しさに駆動されるに至ります。他者に触れること、ここではないどこかへ向かうことを求め、しめじは電車に乗り込みます。

 さてここで、他者との触れ合い、コミュニケーションというものについて考えてみたいと思います。もし仮に、恐怖に導かれる形で他者から完全に独立し、不動の枠組みを持った個人というものがあり得たとしましょう。このような人はしかし、他者とコミュニケーションをとるということは出来ないでしょう。他者に一方的に影響を与え、変化を押し付けることは可能かもしれません。しかし、自身の枠組みが確定し閉じ切ってしまっているこの人は、他者と通じ合うということが出来ません。コミュニケーションをとろうと試みるとき私たちは、その回路の確保のために、自身の枠組みを切り開くことを迫られます。ゆえにコミュニケーションには恐怖が伴うのです。これは日常にもごくありふれた恐怖、例えば人と会う約束を前にして誰もが覚えるあのずっしりとした恐ろしさです。

 しかし既に述べたように私たちは、孤独の安寧の中にのみ居続けることは出来ません。寂しさが私たちをコミュニケーションに駆り立てるのです。ここで、コミュニケーションとは動的なプロセスです。他者と触れ合い通じ合うとき、私たちの枠組みは開かれます。枠組みの少なくとも一部は融解しコミュニケーションの回路に転じており、よって枠組みを維持せんとする恐怖も停止します。このひとときの高揚を経たのちに、個の枠組みはまたゆっくりと形作られていきます。かの恐怖もまた同時に立ち昇ってくるでしょう。しかしここで私たちは、まったくの元通りにはなりません。私たちはコミュニケーションを交わした相手と「少しずつ混ざって」いきます。枠組みのその内奥が少しだけ豊かになっているのです。そしてこの新しく引かれた他者との境界線を介して、私たちは自身の輪郭を確かめるのです。

 しめじたちが長い道のりの果て、クライマックスにおいて見出した動機は、物語の始まり、その1ページ目においてしめじを押し入れの外へ連れ出したその動機にほかなりません。私たちは自身を失う恐怖に苦しめられながらも、同時に自身の輪郭を確かめたいという欲望、他者と触れ合いたいという寂しさに抗えません。他者との触れ合い、コミュニケーションは自身の枠組みの喪失を伴いますが、これを経てはじめて私たちは自身の輪郭、コミュニケーションによって更新される自身の輪郭を確かめうるのです。生の実感、あるいは生きるということの歓びは、このような、恐怖を乗り越えた先の動的なプロセスの中にしか存在しないのです。シメジシミュレーションとは、しめじが実際に恐怖を乗り越えコミュニケーションを経験する中で、このような生の構造を受け入れ、生きることを肯定するに至る物語であったのです。

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