『エヴァンゲリオン』について
「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」という台詞について書きます。
まず最初に確認しておくべき点なのですが、エヴァンゲリオンという作品は「他人と心を通わせ、安らげる居場所を手にすること」を統一的な目標としています。
シンジは他人と上手く交わることができず、しかしそれでも誰かに(主には父に)認めてもらおうとエヴァに乗ります。そして、その度に挫折を味わい、逃げ出そうとするのですが、最後にはやはり他人との関りを求めてエヴァに乗ることになります。アニメ版では、使徒の攻撃を受けたときやクラスメイトを攻撃するよう命令されたとき、カヲルを殺害してしまったときなど、とにかく何度も挫折し逃げ出そうとするのですが、その度に思い直し、ふたたびエヴァに乗るというサイクルを繰り返しています。
このサイクルの臨界点は旧劇場版です。ここでシンジは人類補完計画の実行権を握ることになります。人類補完計画とは、すべての人類のATフィールド(=心の壁=自他の境界)を崩壊させ、単一の生命体への変化を目指すものでした。すなわち、他人との繋がりを求めて挑戦・挫折・逃避・再挑戦という流れを繰り返してきたシンジが、最後にして最大規模の「他人からの逃避」の機会を得たということです。しかしシンジはこの計画を放棄し、やはり他人に向かっていこうと決意したところで、すなわちサイクルを大きく一周してふたたびスタート地点まで戻ったところで、旧劇場版は幕を閉じます。
新劇場版の主題は、旧劇場版のその先、すなわち「実際に他人と心を通わせ居場所を手に入れること」です。ちなみにですが、アニメ版の結末を、新劇場版と同様に「居場所を手に入れた」と解釈することも可能です。しかしながら、あの結末が人類補完計画の末にたどり着いたものであるとすると、現実の世界での居場所を見つける新劇場版とはやはり異質なものであったと言えるでしょう。
新劇場版の四作品は大きく二つに分けて考えることが可能です。つまり、旧世紀版の再演としての『序』『破』と、その先を描く(すなわち本懐の)『Q』『シン』といった具合です。また後者のうち、『Q』は改めて挫折を描くにとどまっており、新劇場版の核心はやはり『シン』であると言えるでしょう。
「他人と心を通わせ、心安らげる居場所を得る」という目標は、実質的には『シン』の前半部分、第3村での生活ですでに達成されていると言えます。「ここに残ってもいいんだぞ」というケンスケの台詞は端的にそれを表しています。
『シン』の後半はその達成の証明に当たります。シンジはこれまで、他人に認められるための手段としてエヴァに搭乗していました。そのエヴァがなくてもいい世界を作ること、「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」という台詞は、他人からの評価や承認についての不安からの卒業を意味するのです。
以上で話の半分です。ここまでは新劇場版の第一の主題、より素直に解釈した場合の主題について書きました。ここからは第二の主題、よりメタ的な解釈について書きます。
ここでまず確認しておきたい点がひとつあります。それは、新劇場版はその設定・筋書・台詞の節々に、「エヴァンゲリオンという作品はこれまで何度も挫折を繰り返しながらシンジの救済を目指してきており、今も何度目かの挑戦の途上である」という事実をメタ的に投影している、という点です。以下にいくつか例を挙げます。
新劇場版は『序』『破』を旧世紀版の再演として見ることができると書きました。これは、人類補完計画がすんでのところで止められたという旧劇場版の結末が、『破』の結末であるニアサードインパクトと符合するという点を主な根拠としています。これを踏まえると、『破』での綾波の台詞「シンジ君がエヴァに乗らなくてもいいようにする」「ごめんなさい、何もできなかった」は、『シン』での結末も鑑みれば、「旧世紀版では作品を挙げてシンジの救済を目指したが叶わなかった」という事実が投影されていると見ることが可能です。なお、『破』から『Q』までの間に作中では14年の時が流れていますが、これも旧劇場版の公開(1998年)から『Q』の公開(2012年)までの現実での時間の経過と符合しています。
また新劇場版の世界は、カヲルの言うところの「円環する世界」、いわゆるループもののような設定が付与されていますが、この点も、この文章で幾度も言及してきた「エヴァは何度も挫折と挑戦を繰り返す作品である」という点を重ねて見ることが可能です。
以上のように、新劇場版は「現実、および現実でのエヴァという作品の解釈」をその内容に織り込んでいる、という点を前提とした上で、改めて「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」という台詞を振り返ります。この台詞もまた現実のなんらかを重ねて解釈することは可能でしょうか?
旧世紀版のエヴァは社会現象と呼ばれるほどの人気を博しました。当時、多くのファンたちがシンジの苦悩、「安らげる居場所を手にしたいがどうしても上手くいかない」という苦悩に共鳴していたことでしょう。しかし、旧世紀版の結末はその苦悩の解決にまでは至りませんでした。
そのまま14年という年月が流れます。当時のファンたちはみなそれぞれ、まさにトウジやケンスケがそうであったように成長していきます。アスカの言葉を引けば、「先に大人になっちゃった」 シンジだけが14年前の苦悩のうちに取り残されているのです。
ファンたちもまた大人になったのなら、14年前に抱えていたあの苦悩も、それ自体は既にそれぞれ解決されて、終わってしまったものであるかもしれません。そうであるなら、ファンたちにとっての心残りは、14年前には確かに苦悩を共にしていたはずのシンジを置き去りにしてしまったことでしょう。「もっと他の結末があり得たのではないか」「あの結末のその先が描かれるべきではないか」「シンジもまたきちんと救われてほしい」という想いだけが消えずに残り続けているのです。
そして、新劇場版の第二の意義とは、まさにこの、現実のファンたちが抱えた想いに応えることでした。
旧世紀版・新劇場版ともに、エヴァの物語が進んでいく推進力となっているのはゲンドウです。「亡き妻ユイの死が受け入れられない、もう一度彼女に会いたい」という彼の執念によって物語は展開していきます。しかし、『シン』のクライマックスにてシンジは、「父さんは本当は母さんを見送りたかったんだ」と悟ります。
この点が上に書いたファンたちの心理に符合します。すなわち、ゲンドウがユイに再び会うことではなく、ユイの死を受け入れ彼女を見送ることを望んでいたように、ファンたちもまたエヴァという作品の終幕を受け入れ、作品に別れを告げられるようになることを望んでいたのです。
新劇場版は、「シンジが心安らげる居場所を手にする」という第一の意義を果たしてみせることで、同時に、「以前の結末を受け入れられないでいた旧世紀版からのファンたちが、きちんと作品にお別れを言えるようにする」という第二の意義の達成を目指したのです。
シンジにとって特別な意味を持つ機体はエヴァ初号機のみです。にもかかわらず、「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」に「すべての」という形容詞が添えられているのはこのためです。「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」という台詞は、シンジによる悲願の達成を誇る言葉であると同時に、14年前のあの日にシンジとともに膝を抱えていたすべてファンたちに別れを告げる言葉なのです。
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