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人は、公的な輝きを求めている? 私的領域- 財産 (ハンナ・アーレント「人間の条件」第二章 8)

久しぶりに地元でやる佐藤和夫先生のハンナ・アーレントを読む会に参加。
最近全然予定が合わなくて参加できていなかったので、ほぼ一年ぶりくらいの参加になりました。(「人間の条件」はとても読みづらいので、進みが遅い、ということは、2年前の第一回開催時の記事に親の仇かというくらいしつこく書いていますが、どのくらい読みづらいかは下記参照してくださいw)

最後に参加した回はみんなで映像を観る会だったので、内容は進んでいなかった。なのでその一つ前のエントリです。私が参加していたときは、第二章6節「社会的なるものの勃興」あたりまで進んでいた(その回の様子はこれ↓)。

さて、本日はどこか、というと、第二章8節、私的領域(財産)から。

うーん、1年かけて1節しかすすんでないぞ。いいぞいいぞ、それでこそ(笑)!

プライベートは財産の問題?

ということで、まずは私的領域(プライベート)について先生の話から。

プライバシーとは、学問的にはほとんどが精神的な問題。でも、それを精神の問題として扱うようになったのは、19世期の終わり頃からだそう。もともとは、それは単に財産の問題だった。(それが公有財産か、私有財産かという分類)。

「アーレントの「人間の条件」にはこの「プライベート」という価値をどう捉えるのか、ということが全編にわたって書かれている」と佐藤先生。

今日はおやつ付きのスペシャル回で、中原市民館の料理室が会場です、いいぞいいぞ!笑

「昔の人は単に土地やお金のことを「財産」と呼んだけれど、今の時代ではもう少し別の価値観が生まれていますよね」

かつて都市というものは、パブリックな営みが行われる場所を指していて、自分の家庭で起きていることは、圏外でした。(ここでいう「家庭」も今のように各家族ではなく、家で働いてくれる人も含めた20人くらいの共同体。)

では、その辺りが書かれている部分を読んでいきます。

Privateは「欠如したもの」とされた

P.87 「私的領域」ー財産

もともと「欠如している」Privativeという観念を含む「私的」という用語が意味を持つのは、公的領域のこの多数性に関してである。完全に私的な生活を送るということは、なによりもまず、真に人間的な生活に不可欠な物が「奪われている」Deprivedということを意味する。すなわち、他人によって見られ聞かれることから生じるリアリティを奪われていること、物の共通世界の介在によって他人と結びつき分離されていることから生じる他人との「客観的」関係を奪われていること、さらに、生命そのものよりも永続的なものを達成する可能性を奪われていること、などを意味する。私生活に欠けているのは他人である。逆に、他人の眼から見る限り、私生活者は眼に見えず、したがって存在もしないかのようである。私生活者がなすことはすべて、他人にとっては、意味も重要性もない。そして私生活者に重大なことも、他人には関心がない。
 今日、他人に対する「客観的」関係や、他人によって保証されるリアリティがこのように奪われているので、孤独(ロンリネス)の大衆現象が現れている。大衆社会では、孤独は最も極端で、最も反人間的な形式をとっている。

ハンナ・アーレント「人間の条件」 第二章8節より


このあたりを朗読したんですが、読んでいる時からなんだかゾクゾクしてしまう。私的な領域は「公の目」に触れない、つまり「他人によって見られ聞かれることから生じるリアリティを奪われている」と書いてある。

上の引用から続く文章は、こうだ。

なぜ極端であるかといえば、大衆社会は、ただ公的領域ばかりでなく、私的領域をも破壊し、人びとから、世界における自分の場所ばかりでなく、私的な家庭まで奪っているからである。かつてこの家庭は、世界を防ぐ避難場所だと感じられたし、ともかく、世界から放り出された人たちでさえ、そこでは炉辺の暖かさと家庭生活の限られたリアリティに慰められたのである。(P.88)

ざわ… ざわ…
これは現代社会の「私的領域」と同じ意味で捉えていいのだろうか?といろいろな疑問が首をもたげてくる。この時代の家庭は「家長」を中心にした共同体の最小単位、ということはだいぶ前にこの講座でやった。(そこには家父長がいて、長兄を大切にする社会があって、奴隷たちの労働もそこに含まれる。)

たとえば、「逆に、他人の眼から見る限り、私生活者は眼に見えず、したがって存在もしないかのようである」というところなんかは、家の中で子育てをしている女の人の存在を書いているかのようでうすら寒い。(汗)

そのあとの太字部分にでてくる「世界から放り出された人」は、家庭に逃げ込めば、炉辺のあたたかさと限られたリアリティに慰められた、というのは、つまりそれが社会だったからだというのは理解ができる。たとえば、子どもを産んだ女性以外にもそこには子育てを手伝ってくれるなんらかの手があった。

現代では、家という場所は核の部分だけになってしまった。その時、それは炉辺のあたたかさを持ちうるのだろうか?

おやつがでてきた♪

文脈的にはこのあと、それが財産の問題と切り離されてきた歴史についてアーレントは語るのだろうけれど、この会ではそんなに性急に先にはすすみませんw
(だから一年に一節しかすすまないのよね)

私が先ほど勝手にアーレントの文章から子育ての孤独を連想したように、参加者がそれぞれ抱えている「プライベート」や「家庭」の問題(それほど大きな「問題」ではなく、ちょっとした違和感や、普段から考えていることなどを含む)について、思うところをぶっ込んでくるので、それについて、他の参加者が意見をのべたり、アーレントの論と関連付けながら先生がコメントしたりする、これがこの会の醍醐味です♪

出来あがったおやつをつつきながら、コーヒーを片手に参加者の雑談も止まりません。

「ここを読んでわかるように、プライベートは、もともとネガティブな概念として扱われているんですね。『ロンリネス』は『ソリチュード』ではない。誰しも、1人になりたいと思うことは必ずあるし、それはあなたが冷たい人ということではないですよね。」

ああ、以前にもこれは話題になりました。(↓ このとき)

『積極的な孤独(Solitude)』と『消極的な孤独(Loneliness)』がある。自分で選ぶのは前者の「Solitude」であり、健全な孤独ですね。後者の「Loneliness」をつのらせると、人間はネガティブに落ちていきます。

なぜ現代社会で人はLonelinessを募らせているのか。

「現代社会は、社会を安心に管理できるために、すべてを禁止する。自発的に新しい文化を作ったり企てることを規制するんですね。面白そうなことを思いついても人に話さなくなったり、変に思われるから、と行動をしなかったり。」

ここで、アーレントの文章に立ち戻ると、完全に私的な生活を送るということ、すなわち一人ぼっちでいることは、「真に人間的な生活に不可欠な物」が奪われている状態だという。

真に人間的な生活に不可欠な物、それは「他人によって見られ聞かれることから生じるリアリティ」であり「物の共通世界の介在によって他人と結びつき分離されていることから生じる他人との客観的関係」であり、「生命そのものよりも永続的なものを達成する可能性」であると読める。

これについては「公的な輝きがないところでは、個人の輝きはない、とアーレントは言っていますね」と。 「人間はみんな、誰かに見られ、輝いている存在であると認められることを欲して生きている」というのが大前提になっているのですが、その輝きは人に見られ、聞かれるて生じるリアリティのなかにうまれるのだとか。

ほうほう。なんか現代社会の内包する問題がすこし見えてきた気もします。

「近代は生産を高めることを目的に発展してきた社会なんです。
生産性を至上主義にすると、雑談は無用のものとなりますし、人間の輝きたいという根源的な欲求が競争原理になってしまう。」

これ!!
私的には今日イチ響きました。
職業柄「輝いている」と言われることが多いのです。スポットライトの当たる場所にいる、という字義通りに捉えれば、それが仕事なのですからまあそうかもしれません。でも、この仕事をしているだけで輝いているわけではない。売れてないのはまあ自分でも「売れる」努力をしていないので仕方ないとして、アーティストとして自分が求めているところには手が届かなくて日々苦しんでいる。
もちろん、そのStruggle(七転八倒)を人に見せることはないけれど、それを隠して楽しそうにしていると、突然謗られることがある。

前から疑問に思っていたのだけれど、これは、「輝き」の欲求が競争原理のなかに取り込まれてしまっているからなのか。

公的な場所で誰かに見られることが輝きを作るのであれば、マスメディアとネットワークの発達した現代社会では、衆目がSNSなどに置き換わり、そこに競争原理が適用されてしまう。
そこで目立つと、競争原理的のなかで上、下の関係(それは多くの場合勝手に見ている幻である)ができて、いつの間にかありもしないヒエラルキーのなかで妬みが生じる。

本来の人と人とのふれあいがコロナ禍で閉ざされて、ネット上にしか衆目がなかったときに、「パブリックな輝き」を求めて得られずにいた不満がいつの間にか募ってロンリネスを形成していたということか。

こうしてコロナ禍が落ち着きかけてきた今、ひとりひとりが輝ける「パブリック」な場所を地域の中に作っていくことはとても必要だと思う。

「アクションというのは、ほとんどの場合スピーチとアクションによって起きる。アクションそのものを話し合いだけにすることはできないけれど、その両方があればアクションになる」と先生は言う。 つまり「輝く」ということは「アクション」をしている瞬間であり、アクションはそれだけではだめで「スピーチ」と「アクション」の両方があって成立するらしい。

参加者の1人が、「思うように自分の意見を言える場所なんて、ここくらいしかない」と言っていたのがとても印象的でした。

そうなんです、この「アーレントを読む会」は、まさに一人一人が利害関係なく自分の意見を発言して、自分のアクションに変えていける、つまり「輝くことができる」場所なんです。ただの読書会だと思って参加した2年前、市民活動というものこそアーレントのいう真の「政治活動」なのだと知ったときの驚きを忘れられません。


ちなみに先生はある時から自分の家(Private)を「半分パブリックな場所にしよう」と決めたそう。誰でも出入りできて、寝泊りも自由なんだとか。さすがアーレント研究者!

なので、この夏は先生のおうちに遊びに行ってみようと思います♪

以上!




【本日のおすすめ図書】


アメリカでフェミニズムの発端となったジャーナリスト・ベティ・フリーダン (Betty Friedan、1921年2月4日 - 2006年2月4日)


佐藤先生が嫌いなハーバーマス
「合意するための話し合いが話し合いだ」といったことがとにかくダメらしいw
合意するかどうか(正しさを納得させられるか)を目的としない話し合いが世の中には存在するし、それを世の中の文化にしなければいけない。」という佐藤先生に、私も賛同します。

教育のない人間はばかだから独裁者が指導しなきゃいけない」というのは間違い、十分な条件が与えられれば、どんな状況にいても、人は対等に議論ができる、といったモンテニュー。

次回は、敬老の日に元住吉の平和館で開催だそう。
今から予定ブロックです!!


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